このようなテーマは今まで久米仙人のブログをメインに書いてきたけど、そちらのブログを削除したので、だんだんこちらに移行して来ることになります。できるだけ愚痴やエッチ系の入らないような書き方を心がけなければって思っていますけど。。。
よく創作系のアーティストから「創作をすることは、産みの苦しみを味わうこと」というような変なプライドを見せ付けられることがある。私は心が優しい人なので、そんな態度を見て、「ふん、」ってあざ笑うことはしないけど。
でもね、苦しいのは誰でも同じ。
普通に芸術って言われるときに、日本では職人芸から、創作活動まで幅広い範囲をさすことが多い。
もっと狭い範囲で考える人も、創作以外にも演奏家や、舞台芸術家など解釈を中心にする人も含めるケースが殆ど。
ところが現代アートの創作をやっている連中に比べて、演奏家などの訓練って言うのは半端ではない。
まず子供のときから訓練を始めないと殆どが使い物にならない。
少し大きくなってから始めたバイオリニストのビブラートは聞く人にはすぐにわかってしまう。バレエも体ができる前に始めないと残っていけない。
またある演奏家が海外のコンクールに参加するのを手伝ったことがあるけど、グランプリを得て、記者会見のときに、練習を一日何時間やっているって聞かれて、彼女は最低でも6時間やらないと今のレベルを保てないって答えていた。
もちろん、才能も必須の条件。
それと比べると現代の若い創作家たちの努力っていうのは、甘い連中が多すぎる。
そして彼らの自分を表現できる創作活動こそが偉大な芸術で、職人芸などは一歩低いものだという思い上がりも、鼻につく。
いい演奏家が他人の曲を弾く。それはその演奏家の心で掴んだ音楽を、演奏家の心で表現していること。キャンバスに自分の心でみた風景を描くこととそれほど違うものではないと私は思う。
若い演奏家が、技術的に高いものを持ち、評判になったとしても、彼らが熟年の演奏家に劣るものは、その生活心情、生き様、気持ちが聞いている人に伝わらない、伝わっても薄っぺらいものでしかない。
以前にもホロビッツのさよなら公演のことを書いたけど、ミスタッチはいくつもあった。でもそのミスタッチなんか問題にならないほどにその演奏が素晴らしかった。彼の生き様、気持ち、迫力が伝わってきた演奏だった。
演奏家は確かに創作はしない。弾く物も皆が知っている曲であったりする。でもだからこそ単に技術的な問題では済まされない、自分の生き様が、考えが伝わるのだということを知っている人が多い。
写真家も技術的には制約が多すぎる。でもだからこそそこへ自分をこめる事に必死になる。
制約が多い分野だから、必死なのかもしれない。
創作活動をしている人は、その制約が少ない。だから逆にその辺が安易なのかもしれない。
表面的な事柄に感激し、なぜそれに自分が感激しているのか、何を伝えたいのか、まったくわかりもしないで、ただ薄っぺらい上っ面の感激だけ、技術だけで何かを作っても、それは心のこもった作品とは言い難い。ただ綺麗だね、珍しいねって人を驚かせることはできても、人の心を打つことはできない。でもそんなことも判らない作家というのがあまりにも多すぎる。作家辞めたらって言いたくもなる。
現代アートって年寄りには判らない。
よく創作系のアーティストから「創作をすることは、産みの苦しみを味わうこと」というような変なプライドを見せ付けられることがある。私は心が優しい人なので、そんな態度を見て、「ふん、」ってあざ笑うことはしないけど。
でもね、苦しいのは誰でも同じ。
普通に芸術って言われるときに、日本では職人芸から、創作活動まで幅広い範囲をさすことが多い。
もっと狭い範囲で考える人も、創作以外にも演奏家や、舞台芸術家など解釈を中心にする人も含めるケースが殆ど。
ところが現代アートの創作をやっている連中に比べて、演奏家などの訓練って言うのは半端ではない。
まず子供のときから訓練を始めないと殆どが使い物にならない。
少し大きくなってから始めたバイオリニストのビブラートは聞く人にはすぐにわかってしまう。バレエも体ができる前に始めないと残っていけない。
またある演奏家が海外のコンクールに参加するのを手伝ったことがあるけど、グランプリを得て、記者会見のときに、練習を一日何時間やっているって聞かれて、彼女は最低でも6時間やらないと今のレベルを保てないって答えていた。
もちろん、才能も必須の条件。
それと比べると現代の若い創作家たちの努力っていうのは、甘い連中が多すぎる。
そして彼らの自分を表現できる創作活動こそが偉大な芸術で、職人芸などは一歩低いものだという思い上がりも、鼻につく。
いい演奏家が他人の曲を弾く。それはその演奏家の心で掴んだ音楽を、演奏家の心で表現していること。キャンバスに自分の心でみた風景を描くこととそれほど違うものではないと私は思う。
若い演奏家が、技術的に高いものを持ち、評判になったとしても、彼らが熟年の演奏家に劣るものは、その生活心情、生き様、気持ちが聞いている人に伝わらない、伝わっても薄っぺらいものでしかない。
以前にもホロビッツのさよなら公演のことを書いたけど、ミスタッチはいくつもあった。でもそのミスタッチなんか問題にならないほどにその演奏が素晴らしかった。彼の生き様、気持ち、迫力が伝わってきた演奏だった。
演奏家は確かに創作はしない。弾く物も皆が知っている曲であったりする。でもだからこそ単に技術的な問題では済まされない、自分の生き様が、考えが伝わるのだということを知っている人が多い。
写真家も技術的には制約が多すぎる。でもだからこそそこへ自分をこめる事に必死になる。
制約が多い分野だから、必死なのかもしれない。
創作活動をしている人は、その制約が少ない。だから逆にその辺が安易なのかもしれない。
表面的な事柄に感激し、なぜそれに自分が感激しているのか、何を伝えたいのか、まったくわかりもしないで、ただ薄っぺらい上っ面の感激だけ、技術だけで何かを作っても、それは心のこもった作品とは言い難い。ただ綺麗だね、珍しいねって人を驚かせることはできても、人の心を打つことはできない。でもそんなことも判らない作家というのがあまりにも多すぎる。作家辞めたらって言いたくもなる。
現代アートって年寄りには判らない。
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