夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

2006年10月02日 12時36分33秒 | 芸術・文化




緑を基調にして作品を作っている作家があったとする。その作家がある日赤を多用した作品を作ったとして、でもその作家のメッセージ、制作の気持ちが変ってなければそれは単なる技術の変化だけで私には取るに足らない変容としか見えない。
私には、その作品がどういう形態をしているのかということよりも、その作家が作品を通じて何を言いたいのか、その心を知りたいというのが作品を見るときの基本だから。
作品の形、色などは単なるメッセージを伝達する道具でしかないと思っている。

作家もまた、作品は技術の集大成ではなく、自分の心を表したものだと言う。


ある作家が一つのイメージを追い続けている。そのイメージを形作るのは技術的にはそれほど大変なことではないかもしれないと私は思っている。でもそのイメージに託して彼は何を言いたいのか、それが私には判らない。だから私はただ見ているだけ。
彼はそれを見た人が何かを感じてくれればいい、それが自分のイメージしたものと近いものであれば嬉しいし、、、などと言っているけど、でも、ちょっと待ってください、仮にそのイメージを完全に再現して、それを見た人が、作家と同じイメージを持てたとして、それが一体何なんだろう。

その作家の個人的な琴線に触れるものを、他の人が感じられる。それはまだ技術の問題ではないだろうか。

その琴線が一体なんで、それを表すことが一体何の意味があるのか、作家がわからなければ、見ている人も何も判らない。
ともすれば作家は自分の心に大きく占めるイメージや、感動を無上のものとして捕らえる。でも本当に作品が自分の心の表現であるのなら、その心、そのイメージを突き詰めて考えたことがあるのだろうか。
卑近な例で言えば、誰かを好きになる。相手のことが寝てもさめても心から離れない。相手のことが心一杯を占めている。だから相手を好き。判りました。でもちょっともう少し覚めた気持ちで自分のことを考えてみたら、貴方は去年も、今年の初めも同じことを別な相手に感じていなかった? ただ空き家でいることがいやだから、優しい言葉をかけてきたり、ほんのちょっとしたことで好きだよってことになってしまっているのでは。もしかしたら明日には別な人のことを同じように好きだといっているのではない? 小さな薬缶がちょっとした火ですぐに沸騰するように、その気持ちは心の浅いところから発してはないだろうか?
貴方が本当に言いたいこと、貴方が限られた自分の一生の中で本当は何をしたい、何を表したいのか、奥の置くまできちんと足をつけて考えることが本当の意味での貴方の心を表すということじゃないだろうか。



でもどこへいっても小手先ばかりの浅い感興から生まれてしまった作品が多すぎるし、むしろそれが評価されすぎているよね。


だから現代アートってつまらない。



2005年11月2日にアップしたものにちょっと手を加えました。






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