狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「渡海談話」への警戒を! 「誤読本」を書く人々

2007-12-08 09:49:01 | 教科書

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

沖縄タイムス 2007年12月8日(土) 朝刊 27面  
 
「戦陣訓」を記述へ/教科書会社1社

文科省、「指針」否定/教科書検定再申請
 【東京】沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、山内徳信参院議員(社民)は七日、文部科学省に布村幸彦大臣官房審議官を訪ね、同省が教科書会社に示した「指針」を公表することなどを要請した。山内氏らによると、布村審議官は「そういう指針は作っていない」と報道内容を明確に否定したという。
 一方、文科省による「指針」の伝達を公表した関係者は同日、沖縄タイム社の取材に「文科省が文書を読み上げ、口頭で方針を教科書会社に伝えたのは事実だ」と反論し、双方の言い分は真っ向から食い違っている。

 保坂展人衆院議員(社民)も同日、渡海紀三朗文科相と面談し「指針」の事実関係をただした。保坂氏によると渡海氏は「(報道は)極端な書き方をしている」という趣旨の説明をしたという。

 渡海氏は一方で、訂正申請の審議が終了した際の大臣談話の発表については前向きな意向を示したという。

 布村審議官は山内氏らに、六社の訂正申請手続き後、文科省が教科書会社とやりとりをしたことは認めた。ただ、その内容は「これから審議に諮る判断として、何が(訂正申請の理由になった検定規則上の)『学習上の支障』に当たるか根拠を(教科書会社に)聞いた」と述べ、文科省から「指針」に当たる方針を示した事実はないとした。

 その上で「報道されているようなことは一切、していない」「(訂正申請で)記述を書き直した根拠を問うただけだ」などと釈明したという。

 布村審議官はほかに(1)年内には審議結果をまとめたい(2)審議会が意見を聞いている専門家の氏名は、本人の了承があれば審議終了後に公表する(3)意見は幅広い専門家に聞いている―などの現状を明らかにしたという。(略)


                     ◇

■「渡海談話」への警戒を!■

>渡海氏は一方で、訂正申請の審議が終了した際の大臣談話の発表については前向きな意向を示したという。

教科書記述で「軍の命令、強制」を削除したしても、これとは別に「渡海談話」でも出されて次のように公表されたらどうなるか。

「例え軍の直接の命令は無くとも、集団自決は軍の関与なくしては起こりえなかった」ー渡海文科大臣談話

・・なんて発表されたら第二の「河野談話」となって将来の日本を貶め続けることになる。

渡海大臣と町村官房長官の発言の「工夫と努力と知恵」で県民感情に配慮する」。

一体この発言は何を意味しているのか注目する必要がある。
 
 
>「(訂正申請で)記述を書き直した根拠を問うただけだ」などと釈明したという。

教科書執筆者が記述の訂正申請を出したら、その根拠を問うのは当然のことだが、確固とした新たな根拠が無いので返答に困った教科書会社がマスコミに助けを求めて情報を流したというのが真相のようだ。

3月30日の検定意見発表の時にも「執筆者は裏づけがあるなら自信を持って書くべきだ」という審議会委員の意見も有ったが、

実際は何の反論も無く「軍の命令、強制」の記述は一斉に教科書から消えた。

現代史家秦郁彦氏はこの状況を例えて「関係者は皆事実(軍命がないこと)を知っていた。 検定意見は『渡りに舟』だった」と表現している。

「審議会委員」の波多野澄雄委員(筑波大副学長)がこの執筆者の自信の無い態度に驚いて次のように発言している。

 教科書検定問題「来月初旬までに結論」/波多野審議委員が見解

< 教科書会社が検定結果に不服がある場合「意見申立書」で異議を唱えることができるが、今回の検定では「すべての会社が(検定)意見に従って(修正表を)書き、軍の存在や関与が一斉になくなり、びっくりしたと述べた。  その上で「文科省だけでなく執筆者や出版社にも一端の責任がある。裏付けがあるなら自信を持って書くべきだ」と強調した。  「集団自決」への日本軍の強制が削除された検定後の記述については「軍(の関与)を否定しているわけでないと解釈できなくもなく、検定意見の範囲と言える」とし、検定意見に即した記述だと説明した。> (沖縄タイムス 2007年11月22日)

                    ◇

沖縄タイムス 2007年12月7日(金) 朝刊 1・31面  
 
文科省、軍命明記回避を要請/再申請指針示す

 【東京】沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で文部科学省が今月四日、訂正申請した教科書会社の担当者を同省に呼び、記述内容をあらためて再申請させるための教科書審議会の「指針」を示し、その中で「軍の命令」を明記しないよう求めていたことが六日、分かった。関係者によると、同省の教科書調査官が各社に「軍から直接、命令した事例は確認できていない」と伝えたという。
 訂正申請した六社のうち一社は六日、「日本軍の強制」を再度明記した上で、「集団自決」の背景に日本軍が住民に米軍の捕虜になることを許さなかった事情があるなどの説明を加え、週明けにも再申請する方針を決めた。ほかに二社は、再申請を決めているという。

 「指針」は軍命の明記を禁じたほか、「集団自決」に複合的な要因があったと明示するよう要望。具体的には(1)天皇中心の国家への忠誠を強いた皇民化教育の存在(2)軍が住民に手榴弾を配った事実(3)沖縄戦は軍官民が一体となった地上戦―などの特殊事情を説明するよう求めたという。

 これらを明記することで「軍の強制」をうかがわせる記述を可能にすることが狙いとみられる。ただ、「軍の強制」や「『日本軍』の主語」を記述していいかどうかは明らかにしておらず強制性を明確に記述できるか不透明だ。

 再申請を受け、教科用図書検定調査審議会は再度、複数回の会合を開く見通し。結論は当初の見通しより遅れ、今月下旬になるとみられる。


     ◇     ◇     ◇     

強制「絶対譲れぬ」/県内反発 記述求める


 「集団自決(強制集団死)」の軍強制が削除された教科書検定問題で、教科用図書検定調査審議会が「日本軍の命令」など直接的な関与を避けた表現の範囲内で、教科書会社に記述の再申請をさせる方針を決めたことに、同問題に取り組む団体や研究者、体験者から強い批判が上がった。「軍の強制を認めないなら意味がない」「検定意見の押し付けには変わりがない」と怒りが渦巻いた。一方で、「執筆者は勇気を持って真実を書いて」と支援する声もあった。

 「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員会の玉寄哲永副委員長は「『集団自決』が起きた背景をきちんと書き込めというのであれば『軍の強制』という記述を認めるべきだ。それでなければ文科省は何のために出版社の訂正申請を認めたのか分からない。強制の事実を薄めるようなことがあってはならない」と警戒した。

 沖縄戦研究者として審議会に意見書を提出した林博史・関東学院大学教授は「軍強制の記述が認められないなら、皇民化教育や『軍官民共生共死』について書いても、元の検定と同じで、とても認められない」と指摘する。沖縄戦全般についても「住民が日本軍によって追い詰められたことが沖縄戦の特徴。そこを書かせないのは、『集団自決』を含めて沖縄県民の犠牲の本質を歪曲するものだ」と批判した。(略)

 

                       ◇

文科省の「指針」について各紙の報道が「軍の命令、強制」記述を撤回か容認か、でそれを報じるメディアの恣意的意見が交錯し、読者にとっては分かりにくい見出し及び記事になっている。

これは昨日のエントリーで書いた。↓

教科書検定審「強制」削除?「強制」復活?どっちなんだよ!

各紙読み比べて見て筆者の独断では地元紙の琉球新報とNHK報道が比較的正確だと思われる。

地元紙の琉球新報はともかく、何故NHKかって?

企画報道では偏向し過ぎで信憑性に欠けるがこのようなニュース報道で、あのNHKがスルーしないで敢て報道したことに記事内容には逆に信頼を持つ。

“集団自決 命令の資料ない”(NHK12/7 4:33)(魚拓)

<・・・その結果、審議会が「集団自決は日本軍など軍・官・民が一体となった複合的な要因で起きた」とする一方で、これまでどおり「今のところ日本軍の命令を示す資料は見つかっていない」などとする指針をまとめ、文部科学省を通じて教科書会社に伝えていたことが明らかになりました。これを受けて、教科書会社は、集団自決に至る背景などを詳細に書き込んだうえで日本軍の関与についての表現を考慮した記述に修正してあらためて申請を行う方針です。>(NHKニュース)

 

地元紙とは言っても、本件に社運をかけていると思われる沖縄タイムスと琉球新報にも見出しの扱い等にニュアンスの違いが出てきている。

「沖縄の憂鬱」さんが本日の琉球新報と沖縄タイムス で両紙のニュアンスの違いを面白く書いておられるので参考までに・・・。

                    *

■ブーメランの逆襲?■

これまで「軍命あり派」の論拠として次のフレーズが沖縄戦史学者たちによって繰り返し主張されてきた。

「皇民化教育」

「軍民一体化の共生共死」

相手を打ち砕くべき武器で自分が倒れることを例えて「自爆行為」とか「ブーメラン現象」或いはサッカーの「オウン・ゴール」と揶揄されるが、

この場合「軍命否定派」を論破するはずの二つのフレーズを明記することにより、

「軍の命令や強制」の撤回(否定)の説明にせよとは文科省も皮肉な「指針」を示したものだ。

>(1)天皇中心の国家への忠誠を強いた皇民化教育の存在

>(2)軍が住民に手榴弾を配った事実

>(3)沖縄戦は軍官民が一体となった地上戦

事実を論証するには客観的証言、証拠それに基づく論理的論証が不可欠である。

だが、沖縄戦の専門家と称する学者たちが示した上記の論拠は恣意的で解釈によっては己の主張をも打ち砕いてしまう極めて情緒的な推論に過ぎなかったのだ。

審議委員が教科書に明記するよう「指針」を出したといわれる上記の①と②はそのまま彼らがこれまで論拠にしていたフレーズではないか。

>林博史・関東学院大学教授は「軍強制の記述が認められないなら、皇民化教育や『軍官民共生共死』について書いても、元の検定と同じで、とても認められない」と指摘する。

自分たちの研究の成果である「皇民化教育や『軍官民共生共死』」で自説を否定せよとは、これはもはやお笑い以外の何物でもないではないか。

上記「指針」②の唯一物的証拠といわれる「手りゅう弾の配布」も彼らの推論の一道具にしか過ぎず「軍の命令、強制」の証拠ではない。

 

■自著がブーメランとなった二人■
(「誤読本」を書く人々)

「軍の命令あり派」のお笑いはこれだけではない。

「集団自決」に関わる「軍命令の有無」の論争で二人の「軍命あり派」証人の論拠ともなる夫々の著書が「軍命否定派」の論拠となっているのだ。

一つは「大江裁判」の被告側証人・宮城晴美氏の『母の遺したもの』。

もう一つは「軍命あり派」の首謀者ともいえる林博史関東学院大学教授の『沖縄戦と民衆』(大月書店 2001年)。

「軍の命令、強制があった」と主張する両者の著書が自説の論拠となるのならともかく相手側の「軍命は無かった」という論拠となった事実に,今更ながら驚くというより、・・・笑ってしまう。

彼らの主張がいかに客観性に欠けそして論理性に欠けたものであるか、そしてその論理がいかに恣意性に満ちた推論であるかは、

彼らの著書が反対側の論拠となったこの事実が見事に証明している。

論理性に欠ける本を書いたりするから結論付けに無理が生じて、こともあろうか相手方の論拠の助太刀をしているのだ。

ご当人たちは「誤解されている」とか「日本語の読解能力がない」とか強弁しているが結論がどっちでも取れるような本は書いてくれるなといいたい。

そういえばあのノーベル賞作家も法廷で自著『沖縄ノート』について、「誤読」を連発していたっけ。

 

■沖縄タイムスの 

今回の文科省「指針」で追いつめられるのが沖縄タイムス。

教科書から「軍の命令、強制」が消えたら当然係争中の「大江裁判」の判決の影響すると考えられる。

ここまでボタンの掛け違いを無視し県民を扇動して来た沖縄タイムスとしては、今更ここで自説の過ちを認め訳にはいかないだろう。

毒を食らわば皿までの心境だろう。

沖縄タイムスは社説でも「軍民共生共死」や「軍国思想」を連呼していた。

沖縄タイムス社説:[「集団自決」と軍命]2007年6月4日

 【「集団自決」と軍命】「魂の叫び」に応えたい

 <しかし、軍命の物的証拠がないからといって「強制はなかった」と言い切れるのかどうか。

 集団死には、当時の住民が軍や官と運命を共にする「共生共死」や「鬼畜米英」への恐怖心、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)の軍国思想などさまざまな要因が複雑に絡んでいる。 >  

<強制された「軍民共生共死」
安仁屋政昭・沖縄国際大学名誉教授は「合囲地境」という旧戒厳令の用語を使って、軍命の存在を指摘した。

 陸海空ともに敵の包囲、攻撃などに直面した状態で、「軍民共生共死の一体化が強制された」と指摘している。 >

 

知人の1人は沖縄タイムス記者の1人がふと漏らした次の言葉を鮮明に覚えていた。

「この裁判に負けたら沖縄タイムスは大変なことになる」と。

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (2)

半そば物語

2007-12-08 07:55:19 | 未分類

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

今どきそば屋に入って「半ソバ」を注文したらきっとけげんな顔をされるだろう。

「半ソバ」は死語になりつつあるが、それでも学生街にあるひっそりとしたそば屋のメニューには今でも生きているという。

我が家の近くに「学園通り」と称する大通りがある。
その通り沿いには小学校が2校、中学校、高校が各一校ある。
四つも学校が在れば学園通りと呼ばれても不思議ではない。 
タクシーの運転手にも「港川・学園通り」で通用するらしい。


しかし、学園通りのイメージにそぐわない店がこの通り沿にやたらと目に付く。
居酒屋が何故か多い。 暇に任せて数えてみたら十数軒もあった。
この街も姿を変えコンビニと居酒屋の街に変り果てるのか。

ところで、この界隈に私のお気に入りのソバ屋がある。 
日本蕎麦も好物だがこの店はウチナースバ(沖縄ソバ)の店だ。 
メニューに、普通のソバやソーキソバの他に「学生ソバ」と言うのがある。
値段が安く設定されている割には量が多く、近所の学生がよく食べに来ているようだ。
冗談に,私も元学生だから学生ソバが欲しいと言ってみたら、老いた女店主は「ごめんなさいネー、学生ソバは奨学金の補助をうけているのよー」と訳の分からん返事が返ってきた。

突然記憶の回路が遠い昔の噂話を検索した。
ソバにまつわる似たような話を思い出したのだ。

未だ沖縄が米軍占領下の頃、学生たちは何時も腹をすかし、やせこけているのが若さの象徴だった。 

飽食の時代が来るなんれ夢想だにしない欠食の時代だった。

ビリーズ・ブートキャンプ・ダイエットに大金をはたく若者が溢れる時代を誰が想像しただろう。


回想の糸を手繰ると、その頃ソバにまつわる心温まる話があった事の想い出にたどり着いた。

現在、首里城がある首里高台には戦火で破壊された城跡があった。
首里城は未だ再建されておらず、そこには琉球大学が建っていた。
その頃沖縄ではアメリカドルが使われていた。

大学近くに年老いた母と娘の二人で経営する大衆食堂があった。
食堂とはいってもお客が注文するのは殆どがソバだけ。

ソバは20セントだったが、他に「半ソバ」10セントがあった。
「半ソバ」とは小腹がすいた時、ソバでは量が多すぎるという客の為のおやつ代わりのメニューである。

食堂は小腹どころか空きっ腹の学生たちで大繁盛で、母も娘もいつもてんてこ舞いだった。
学生たちは何時も半ソバを注文して、食べ終わると何故か必ず半ソバのお代わりをするのが常だった。

学生たちの間には「耳寄りな話」が噂となって流れていた。
「あの食堂のオバーはどうやらモウロクしているらしい。 計算がわからんみたいだ」。


でもソバを作るのはお婆さんだが、お金のやり取りは娘がやっていた。
娘は半ソバのお代わり分も含めて20セントをちゃんと受け取っていた。

ソバにはそれぞれ三枚肉と蒲鉾が2枚ずつ具として乗っていた。

次のような話が次から次へと学生の間に伝わっていった。

「あそこの半ソバ2杯は普通ソバの1倍半か2杯分近くある」。

「おまけに半ソバにも普通ソバと同じ大きさの三枚肉と蒲鉾が同じ量入っている」。

「普通のソバ1杯食べるより、半ソバをお代わりして食べた方が肉も蒲鉾もソバも多く食べられるんだ」。

「それをあのオバーは気が付いていない」。

「損をしているのに、2度手間で忙しいばかりで気の毒だ」。

「でも金は無いし、背に腹は替えられない。 知らぬが仏だ知らん顔しよう」。

しかし、貧乏学生以外の客はごく普通に普通ソバを注文し食堂は相変わらず大忙しだった。

空きっ腹の学生達には、何故大人たちが半ソバのメリットに気がつかないのか、考える心の余裕はなかった。


                    *


時が流れ30年後のある日の事。

今では大会社の社長になったあの貧乏学生の1人が、あの街のあの食堂を訪ねた。
お婆さんは既に亡くなっていたが年老いた娘が食堂の後を継いでソバ屋をやっていた。 大衆食堂はソバ処と看板は変わっていた。

時はドルから円の時代に変わっていた。

半ソバはメニューから消えて、ソバー500円、ソバ(大)600円に替わっていた。
元貧乏学生は今では店主となった娘に懐かしそうに話し掛けた。

「あの頃はオバーに随分世話になりました。年寄りと娘がやっているのを良い事に随分損をさせたような気がします」

「ああ、半ソバの事ですか」

「そうですが・・・、オバーは気が付いていたのですか」

「勿論、ちゃんと全部判っていましたヨ」

「『お金のない学生さんがひもじい思いしている。 仕方が無いさー』そう母は何時も言っていました」

「でも他のお客さんは気がつかなかったのですか」

「他のお客さんも皆事情を判っていましたヨ。 でも半ソバをお代わりする人は誰もいなかったですヨ」

元貧乏学生は恥ずかしさで赤面した。

あの頃、みんな判っていて知らん顔をしていてくれたのだ。

自分たちだけが利口のつもりで、計算に弱い店主を出し抜いていたつもりが、何と言う事だ。

他の客は皆「半ソバお代わり」の秘密を承知していたのだ。

今では忘れてしまった人情の温かさに胸が熱くなってきた。

                    *

そのソバ屋のメニューに翌日から「学生ソバ 250円」が加わった。

あのオバーの半ソバと同じ出血大サービスのお徳用メニューが顔を見せていたのだ。

注文は学生に限るとの但し書きが付いていた。

皆がこれを注文すると困るとのこと。

お客さんの人情も時代が変えてしまっていた。

半ソバは死語になっていたが、時をを越えて学生ソバと言う名前で蘇っていた。

その後、[学生ソバ]が奨学金で支えられていると言う奇妙な噂が流れたが、誰もその真偽を確かめる事は出来無かった。

                    *

「学生ソバ四つ!」

弾けるような学生の声で半世紀前の半ソバの幻から一瞬にして我に返った。

近くの高校の女学生集団が部活の休憩に乱入したもようだ。

食べ終えたソバの丼には食べ残しの三枚肉の皮が一つ寂しげだった。

ここは浦添、学園通り界隈。 半ソバの首里とはかなり離れている。

あれは幻だったのか。

それとも、オバーの半ソバの心は時空を越えて学園街に学生ソバとして受け継がれているのだろうか。

出掛けに丼の三枚肉の皮を口に放り込みガムのように噛みながら店を後にした。

ランニングしながら声を掛け合う学生の一団がソバ屋に向かって来るところだった。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (4)