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語り継ぐ沖縄の悲劇 札幌 吉川さん講演(12/10)
沖縄戦の集団自決について、渡嘉敷島での自らの体験を証言する吉川さん
沖縄戦集団自決の生き残りで、沖縄県渡嘉敷村教育委員長を務める吉川嘉勝さん(69)を招いた講演会「沖縄戦-集団自決の真実」が七日夜、札幌市中央区北三西一九の西本願寺札幌別院で開かれた。当時六歳だった吉川さんの体験証言に約百二十人が耳を傾けた。
札幌の僧侶らでつくる「12・8戦禍を語り継ぐ会」(打本顕真会長)の主催。毎年、太平洋戦争開戦の十二月八日に合わせて「語り継ぐ集い」を開いており、今年は「集団自決の史実を広く知ってほしい」と吉川さんに講演を依頼した。
吉川さんは、渡嘉敷島の自決場に集められた住民が次々と手りゅう弾で自決する中、母が「人間は生きられるまで生きねば」と思いとどまったおかげで生き延びたことを証言。「誰も本来死のうとは思っていない。そういう状況がつくられたから、みんなそうしてしまった」と話した。
そして、教科書検定問題を念頭に、「(集団自決は)紛れもなく、そこに軍隊がいたから。軍の関与はなかったという国の意見には我慢ならない」と憤った。(稲垣重則)
◇
■平和学習の語り部が証言者■
>「(集団自決は)紛れもなく、そこに軍隊がいたから。軍の関与はなかったという国の意見には我慢ならない
「集団自決」の証言者は沖縄だけではなく今や全国区で講演等で引っ張りだこのようだが、
この証言者達は雰囲気としては「軍の関与」等軍の責任には触れても、肝心な「軍命の有無」には言及しない。
これは「集団自決」の生き残りの証言者といえども「軍の命令や強制」を客観的には証言できないということを意味している。
吉川氏も上記講演会でも「軍の命令があった、或いは強制があった」とは証言していない。
吉川氏は、7月6日の「県議団言質調査」でも証言しているがそのときも「軍の命令があった、或いは強制があった」とは証言していない。(沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】 )
調査団に対し、証言者・吉川嘉勝氏(68)は
「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」(沖縄タイムス)
としか語っていない。
吉川氏は最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm
ちなみにこの吉川氏、島の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。
そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもある。
だが、いくら日本軍の残虐さを語る左翼思想の語り部でも、
「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だった。
参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 (7/5 16:05)
■引っ張りだこの証言者■
金城重明氏もそうだが、冒頭記事の吉川氏の証言は全国大手紙でも引っ張りだこだ。
今年の慰霊の日の朝日新聞では次のように証言している。
だが、「軍曹が命じた」と巧妙にミスリードする朝日記事でも
吉川氏は一言も「軍の命令」とは証言していない。
http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB200706230011
.html
62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分
沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。
62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。
那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。
「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。★村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。
吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。
母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。
母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。
その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。
富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。
沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
アリバイ作りの県議団調査 結論は決まっていた!
◇
■アリバイ証言の条件■
「昨日の夜10時から12時の間、何処に居ましたか?」
「自宅でテレビを見ていました」
「それを証明できる人は?」
「妻が証明します」
「親族以外でどなたか居ませんか?」
「親族の証言では何故ダメなの?」
「親族の証言は信憑性が薄いから」
テレビの推理ドラマで刑事と被疑者の間で交わされるお馴染みのシーンである。
証言者は「犯人」との関わりによってその信憑性の有無が問われる。
当然、アリバイの証明には被疑者の親族の証言はその信憑性が疑われる。
自分のお婆ちゃんの証言を疑われて、
「うちのおばーがウソをつくというのですか」
と訴えてもこれは論理の問題ではなく感情の問題になってしまう。
「集団自決」の教科書記述に関して、数多くの証言者が登場したが、
検定意見で問題となった「軍の命令、強制」の有無に関する客観的証言は皆無だった。
軍の命令や強制を主張している証言者と「当事者」との関係を知ればその証言内容の信憑性の参考になる。
渡嘉敷村の場合、当時の村長古波蔵惟好氏が、米軍に包囲され島民がパニック状態になった時「自決」のきっかけを作って、「集団自決」に島民を導いたと言われている。(★上記朝日記事参照)
生き残った村長は戦後古波蔵と改姓し、赤松隊長の命令だったと主張したがその一方、島民の援護法適用の運動に尽力した。
金城重明がその体験から証言できるのは、集団自決前に古波蔵村長が音頭をとった「天皇陛下万歳」の三唱だった。彼は、軍からの自決命令そのものだと強弁した。最近の新聞でも、そんなことを語っているらしい。しかし、音頭をとった村長や幹部達は自決せずに生きていたのであり、ちょっと頭を冷やして考えれば、それが軍からの自決命令だという理屈に大きな飛躍があることは誰でもわかる。(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会)http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/35/
*
■戦後、改姓の多かった島■
渡嘉敷村には古波蔵村長の親類縁者が多く、渡嘉敷村出身で古波蔵という姓を名乗るものは古波蔵村長の親族か何らかの縁者だといわれている。
しかし、戦後渡嘉敷島出身者で改姓した人が多いのは単なる偶然なのであろうか。
渡嘉敷村住民で戦後改姓した例を挙げると、
★古波蔵(「集団自決」時の村長)→米田、
★新城(兵事主任)→富山
古波蔵→源
古波蔵→古賀
★古波蔵→吉川(嘉勝)
古波蔵→田村
古波蔵→田中
★古波蔵(戦後の村長)→玉井(喜八)
与那嶺→杉原
与那嶺→新崎
与那嶺→吉本
鈴川、秋山、平井、吉原
そう、冒頭記事のように札幌まで出張して「集団自決」の生き残りとして「軍の関与」を証言しているの吉川嘉勝氏は旧姓は古波蔵である。
■証言者達が背負う人間の絆■
「集団自決」の事実上の指導者だとされる古波蔵村長が戦後米田と改姓し、吉川氏も同じ古波蔵という姓だったいうのは偶然の一致なのだろうか。
「集団自決」当時、島の村長で戦後も村の有力者だった古波蔵氏は戦後介せして米田を名乗った。
一方、集団自決の生き残りとして「軍の責任」を追及する証言を続ける「平和活動」の語り部吉川氏も旧姓は古波蔵で村長とは渡嘉敷島の古波蔵一族であるという共通項を持つ。
果たして吉川氏は当事の島のリーダーだった古波蔵村長の「アリバイ」(軍命だった)を証言できる立場にいると言えるのか。
人間関係が複雑に交錯する小さな島で起きた「悲惨な事件」。
その証言にも、メディアで証言し続ける人、現在でも黙して語らぬ人・・・夫々が背負った重い人間関係の絆によって発言のスタンスが変る。
生証人の証言だからといって、それだけで軽々に歴史を語っては歴史の真実を見誤ることにもなる。
参考: 届け、証言の重み 「集団自決」体験吉川さん、思い切々 (9/29 11:22)