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今年の沖縄政治の分水嶺といわれた宜野湾市長選で、翁長知事自ら応援の陣頭に立った志村氏が約6000票もの大差で現職の佐喜真氏に完敗した。
沖縄2紙志村氏大敗の理由として、佐喜真氏の「辺野古隠し」とか「「争点ずらし」などと連日負け犬の遠吠えで紙面を埋めている。
冗談言っちゃいけない!
連日沖縄2紙は「辺野古反対」の大見出しで紙面を飾っていながら、いまさら「辺野古隠し」も「争点ずらし」もないだろう。
宜野湾市民をバカにしちゃいけない。
宜野湾市民は「辺野古隠し」で佐喜真氏に投票したのではない。
市長として何の権限のな「辺野古移設反対」を公約にする志村候補に対し「実現不可能な公約」を掲げる胡散臭さを感じ、宜野湾市民の生命と財産に配慮する「普天間固定化ノー」の佐喜真氏に投票したのだ。
志村氏と同じ「辺野古移設反対」を公約にした翁長知事の神通力の」メッキが剥げ始めたのをの危ぐしたのか、最近の沖縄タイムスは「昔の出来事」を掘り起こして、必死になって反論を試みているが、その反論そのものがブーメランとなって自爆しているのは真にお気の毒としか言いようがない。
約20数年前、普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校の移転の話が、プロ市民の望外により頓挫したことを、ネットが暴いた。
当日記も暴露の先陣を切った記憶がある。
沖縄タイムスは3回連続の特集記事「誤解だらけの沖縄基地(8)普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?(上)2016年1月31日 07:15」で、ネット情報がデマと反論したいらしい。
何をいまさら、と言いたいところだが、「普天間第二小学校移転頓挫」自体を知らない読者のため、過去記事をベースにおさらいしてみよう。
以下は過去記事「人間の盾に小学生を!普天間移設の真相2010-01-11 」からの抜粋である。
★
「世界一危険な米軍基地」と、そこに隣接する小学校。
左翼勢力にとってこれほど絵になるおいしい場面はない。
普天間第二小学校はいわば「米軍基地反対運動」の象徴的存在でもある。
「住宅密集地の真中にある米軍基地」と聞くと、住宅密集地に米軍が割り込んできて強引に基地を作ったという印象を受ける。
だが、実際は原野の中にできた米軍基地の周辺に、後から住民が集まってきて住宅街を作ったというのが普天間基地の実態である。
ところがNHK沖縄はこのように子供を使ったやらせ番組で国民を騙し続けている。↓
そして普天間基地の象徴ともなっている普天間第二小学校の危険性を考慮して過去に二度も移転の話が持ち上がったが、その度に移転反対をして妨害したのは、ほかならぬ「米軍基地反対派」の左翼勢力であったというから驚きである。
【動画】⇒3/4【沖縄スペシャル】普天間の真実[桜H21/12/29]
「基地反対派が小学校の移転にも反対する」という小学生を人間の盾にした恐るべき話を産経新聞が勇気を持って記事にした。
上記チャンネル桜の動画にもあるように、「世界一危険な小学校」と言われながら、これまで普天間第二小学校が移転しなかった理由を、沖縄県民は噂としては知ってはいたが全国紙の産経新聞が署名入りの活字にした意義は大きい。
那覇支局長に着任間もない宮本雅史支局長の渾身の記事を先ずはご覧下さい。
【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転
2010.1.9 23:26
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが9日、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ。(宮本雅史)
普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。
移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。
当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。
安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。
同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と説明している。
その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。
当時市議だった安次富修前衆院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。
◇
産経新聞の那覇支局長は昨年一年だけで小山⇒前田⇒宮本と目まぐるしく変わった。
それには閉塞した沖縄の言論空間が大きく関わっていた。
長年那覇支局長のポストにいた小山氏はブログ「今夜も、さ~ふ~ふ~」でも有名であり、沖縄居酒屋めぐりが趣味のような人で、沖縄のマスコミとも適当に折り合って上手くやっていたようである。
ところが次に那覇支局長に着任した前田徹氏は、着任当初から「沖縄タブーを叩く」と公言し、地元新聞社や、これを煽る全国紙グループに挑戦を宣言し、精力的に批判連載記事を執筆し始めた。
その結果那覇記者クラブから村八分になり、産経本社には那覇記者クラブより前田氏に対する抗議が殺到したという。
そして遂には、前田新支局長はわずか数ヶ月で那覇支局長を更迭される羽目に陥った。
小山氏が5年間も勤め上げた那覇支局長のポストを、後任の前田氏はわずか数ヶ月で去ることになったのである。
全体主義の島の言論封殺の恐ろしさである。
前田氏の突然の更迭を受け昨年11月、急遽那覇支局長に着任したのが上記記事の署名者、宮本雅史支局長である。
宮本氏は、突然の支局長交代劇だったため仕事の引継ぎもほとんどない状態だったと聞くが、上記記事でも分かるとおり前任者に負けぬ硬骨漢のようである。
全体主義の島沖縄では「不都合な真実」を報道するとバッシングを受ける。
これは前任支局長の例でも明らかなので、今回の記事で宮本新支局長へ同じようなバッシング、嫌がらせなどが予想される。
何しろ産経新聞那覇支局は琉球新報ビルの中に間借りしており、琉球新報は大家さんになるわけだ。
まさか沖縄紙にとって「不都合な真実」である上記記事で事務所を追い出されることはないだろうが、有形無形のバッシングは予想できる。
★
さて、沖縄タイムスが特集まで組んで反論する「誤解だらけの沖縄基地」は誤解どころか、ネットの指摘が正しかったことを示す惨めな結果に終わった。
とりあえず同特集記事の第二回(中)を引用する。
誤解だらけの沖縄基地(9)普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?(中)
安次富盛信宜野湾市長(当時)のもと、1980年に浮上した米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小の移転計画。安次富氏は移転先を確保するため、キャンプ瑞慶覧の一部返還を米側と水面下で交渉していたが難問が待ち構えていた。
» 誤解だらけの沖縄基地(8)普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?(上)
「用地、造成費の捻出に大変苦慮している。特段のご配慮方よろしくお願いします」
安次富氏は83年7月21日、防衛施設庁に補助を求めた。小学校を新たに建てる用地の取得費が当時試算で25億円に上り、市の財政規模では捻出が困難だったからだ。だが、国は「用地費の補助は制度にない」と型通りの対応だった。
補助の見通しが立たない中、84年12月8日、那覇防衛施設局を通じ、安次富氏のもとに米側が一部返還に応じる“吉報”が届く。ただ、五つの条件が付されていた。中でも難題となったのが第4項だった。
「現在の第二小敷地およびすべての建物を、普天間飛行場として合衆国政府に提供することに応じること」
キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった。
当時は西銘順治知事が普天間飛行場などの整理縮小を訴えていた時代。安次富氏は返還への条件があったことや、その対応を公表しないまま、3選を目指した85年7月の市長選で、革新の桃原正賢氏に敗れた。
なぜあの時、安次富氏は移転を決断できなかったのか。安次富氏の次男・修氏は当時、國場幸昌衆院議員の秘書を務め、国との調整に奔走していた。修氏は、こう思い起こす。
「施設庁側は、第二小の移転は市長の決断次第だ、と言っていた。ただ、父にとって編入条件の受け入れは、第二小の移転が実現する一方、市民の理解を得られるのか、もろ刃のつるぎの側面があった。世論を見極めていたように思う」
市長就任後、編入条件を知った桃原氏もまた、苦悩する。「基地の整理縮小を求める民意に背くことになる」。86年11月には条件の撤回と、あらためて用地取得のための補助金交付を那覇防衛施設局へ要求した。
めどが立たない25億円の用地取得費に、容認しがたい現有地の基地への編入。国との交渉は長引く。88年11月。桃原氏はPTAからの移転要請を受け、強い決意を胸に与党議員や教育委員会とともに上京、関係省庁へ用地費の補助と、編入条件の撤回を要求した。
「広大な米軍基地を抱える自治体への思いやりは国として必要ではないか」「基地の整理縮小は県民の要望。跡地が軍用地になるのは世論に背を向ける」
それでも、基地を抱える街の訴えは届かなかった。
移転計画の浮上から12年がたった92年。これまで移転要請を重ねてきた第二小PTAが、断念を決意する。(「沖縄基地」取材班)
☆
特に解説は必要ないほど自爆しているが、移転の頓挫の概略はこうだ。
>市民の理解を得られるのか、
子どもたちの生命の危機に関わることに「市民の理解」が得られない方がおかしい。
ここで言う「市民」とは【おまけ】(※)で紹介した「プロ市民」のことである。
保守系の安次富市長が移転の必要性を感じて行動を起したが、米軍は移転先の(安全と思われる)基地を提供する代わりに現在普天間基地に隣接する小学校跡地は普天間基地に提供する、というバーター取引を提案した。
記事によると、安次富市長は「市民」の反対を気にして決断できなかったが、次の革新系市長の桃原氏は「市民」や「PTA」代表の「民意」にしたがって苦渋の決断で、移転案を断念したと言うのだ。
ここで、気が付くのは「子どもたちの危険除去」が目的の移転案には、保守も革新も関係なく賛成するのが常識だ。
「市民」や「PTA」が反対すると言うのは、到底理解できない。
ところが約20数年前は現在ほどネットが普及していない事実に注目すべきだ。
沖縄タイムスが「市民」や「民意」と気軽に書いているが、ネットの普及した現在でも辺野古で違法な抗議活動で機動隊に逮捕されている「プロ市民」のことを「市民」と報道している野と同じ論調だ。
ネットの普及していない当時、新聞が「市民」と報道しているのは一部の「プロ市民」と断定しても間違いではない。 大切な子どもの命を盾に、「移転反対」と叫ぶのは普通の市民では考えられないからだ。
新聞は移転費に25億円掛かるのも移転頓挫の理由にしているが、市長と市民が一致団結して本気で取り組んだら、25億円がネックになることはなかった。 少なくとも普天飛行場の移設よりは経費は掛からなかったはずだし、現在のように裁判沙汰になるほど混乱もしなかったはずだから。
つづく
【動画】【沖縄の声】県三つ目の訴訟提訴、複雑化する県VS国の裁判、普天間第二小学校頓挫の真相[桜H28/2/3]- 平成28年2月2日火曜日に放送された『沖縄の声』。本日火曜日では、「県三つ目の訴訟提訴、複雑化する県vs国の裁判」、「普天間第二小学校移転頓挫の真相」、「航空自衛隊
【おまけ】
※「市民」の正体
辺野古 工事車両入り口をブロック1400個で封鎖 機動隊が撤去
新基地建設に反対する市民らが積んだ約1400個のブロックを撤去する機動隊=30日午前、名護市辺野古
沖縄県名護市の米軍キャンプ・シュワブのゲート前では30日早朝、新基地建設に反対する市民らが基地内に工事車両が入るのを止めようと座り込んだ。市民らは工事車両入り口にブロック約1400個を積んで工事車両の進入を警戒した。
午前8時ごろから警視庁機動隊がブロックを撤去し、約40分後にショベルカーを積んだトラックなど6台が進入した。市民らは「ブロックを返せ」「第2ゲートも封鎖するぞ」と怒りの声を上げた。
第2ゲート前には、市民らが抗議行動開始前に設置したブロック約100個が積まれている。
午前10時現在、海上での作業は確認されていない。