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船舶の安全を祈って2000年に尖閣諸島(石垣市登野城)の魚釣島に建立された尖閣神社の移設・再建にともなう遷座・竣工(しゅんこう)の奉祝祭が17日午前、同市桴海の同神社鎮座地で行われた。参列した関係者ら約60人が本殿へ祭神が移り、日本西端の守りと祈りの要所が完成したことを祝った。
同神社の祭神は天照皇大神と日本武命で、奉祝祭は堺神社(茨城県)の滑川裕二宮司、朝峯神社(高知県)の野村尊應宮司、多賀神社(長野県)の村上典孝宮司により執り行われ
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「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録されたことを受け、中尊寺の貫首らが26日午前、岩手県平泉町の町役場で記者会見した。
中尊寺の山田俊和貫首は、一時は登録延期となったものの、東日本大震災を経てもたらされた吉報について、「運命的なものを感じないわけにはいかない」と神妙な様子で話した。「(被災した人たちの)希望の光になれるよう、われわれも努力していかなければならない」と話した。
毛越寺の藤里明久執事長も「(被災者にとって)登録が精神的なよりどころ、支えの一助になることを願っている。それが平泉の今後の使命でもある」と話した。(2011/06/26-12:31)
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小笠原諸島に続いて、平泉が世界文化遺産に登録されたことは、東日本大震災で甚大な被害を受けたわが国とって久しぶりの朗報である。特に被災の激しかった岩手県にとってこんな明るいニュースはない。
平泉の中尊寺と沖縄の尖閣諸島の不思議な関係について、『うらそえ文藝』16号に寄稿してあるので読んでいただきたい。
うらそえ文藝 第16号 販売価格: ¥ 1,000 (税込)
【グラビア】 浦添御殿と市指定史跡『浦添御殿の墓』・・・・仁王浩司
【巻頭エッセイ】 砂浜の宝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉栄喜
【対談】 作家の証言と意見一問一答 大城立裕・星雅彦
【緊急特集 尖閣諸島問題】
・尖閣諸島問題とどう向き合うか・・・・・・・宮城鷹夫
・八重山から見た尖閣問題・・・・・・・・・・・三木健
・尖閣諸島問題の背景 ・・・・・・・・・・・・・江崎孝
・問われる沖縄のアイデンティティ
リトマス試験紙としての尖閣問題・・・・・・伊波健一郎
・尖閣諸島海域を日本・中国・台湾の共存、共生の生活圏へ・・上里賢一
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同稿は、以前に当日記にエントリーした尖閣と中尊寺と日本の真珠王と卓球とを一部加筆したものなので、該当部分を引用しておく。
<・・・ここで話が急転し、今中国の領海侵犯で揺れる尖閣諸島が、日本の国宝である奥州平泉の中尊寺と関わりがあるとか、日本の真珠王・三木本幸吉と縁が深い,
さらには「卓球」という言葉は尖閣の2代目当主に端を発し、それが全国に流布したなどとと言い出したら、話があまりにも唐突過ぎてホラ男爵との誹りを受けかねない。
だが、筆者は古賀辰四郎が創業した古賀商店で、長年番頭をしていた日高栄次郎の次男・剛に取材する機会を得て、尖閣と中尊寺そして日本の真珠王との関係を知ることが出来た。
子宝に恵まれなかった2代目古賀善治は番頭日高栄次郎の次男剛を養子にして古賀商店の三代目にする内諾をしていた。 そうなれば当然日高剛が尖閣諸島の三代目の持ち主になるはずであった。
![](http://senkakujapan.nobody.jp/img092.jpg)
だが、実際には現在の持ち主栗原国起に譲り渡された。
何故養子縁組が破談になり、日高剛が古賀家(古賀商店)の三代目ならなかったのか。 はたまた何故沖縄から遠く離れた埼玉在住の栗原国起に尖閣が転売されることになったのか。
現在も那覇市西町の旧古賀商店の跡地に居を構える日高剛からその経緯を聞くことができた。
だが、ここでその経緯に深入りするのはあえて避けるが、ただ一言で日高剛の心中を表現するなら「若気の至り(剛氏談)」だったという。
さて、国宝・中尊寺や真珠王・三木本幸吉と尖閣との関係だが、古賀辰四郎は尖閣に渡る前、石垣島の川平湾で日本の真珠王・三木本幸吉と共同出資で真珠の養殖を手がけ、貝殻細工の原料の夜光貝の輸出にも手がけ財をなした。
昭和37年から始まる中尊寺の「昭和の大改修」では、貝殻細工の螺鈿の調達の話が京都大学を通じて古賀商店に舞い込んで来た。 当時沖縄の古賀商店は貝殻細工工芸・螺鈿では全国にその名を知られていたことがわかる。
二代目当主善次はテニスや卓球を沖縄に紹介したスポーツマンで、今でもテニスや野球に「古賀杯争奪戦」としてその名を残している。 ちなみにその頃2代目当主の善次は既に古賀商店の実務から遠のいており、商人というより沖縄の文化人としてベルリンオリンピックの見学に行き、その時沖縄紙の特派員を頼まれ、ベルリン報告記事を送信している。
その時、当時「ピンポン」の名称に初めて「卓球」と」命名したのが善次だといわれている。 新聞の版組みにピンポンの活字が入らず困っていたところ善次の「卓球でよいだろう」との機転で以後、「卓球」という言葉がピンポンに代わって全国的に広まったという。 つまり「卓球」という言葉の始まりは沖縄の新聞、ひいては尖閣諸島の2代目の持ち主・古賀善次ということになる。
さて初代当主の古賀辰四郎が冒険心に溢れた野人の趣があるのに対し、二代目善次はお公家様の風貌を持つ文化人であり、中尊寺の大改修の話が舞い込んできた頃は、その事業のほとんどを番頭をしていた日高栄次郎の南海商会に引き継がしていた。名刺に肩書きの欲しかった善次は、南海商会の取締役の肩書きを使用していた。
さて、中尊寺の大改修の件だが古賀商店の仕事を引き継いでいた日高栄次郎が夜光貝の納入に奔走し、「大改修」を成功裡に終えることができた。
石垣島の川平湾では今でも古賀辰四郎と三木本幸吉が手がけた真珠養殖が石垣名産の黒真珠となって輝いているし、奥州中尊寺には尖閣諸島の開拓者辰四郎の壮大な冒険心の結晶が中尊寺の螺鈿細工に化身して、今でも燦然と光り輝いていることになる。
【おまけ】
以下過去ブログ尖閣と中尊寺と日本の真珠王と卓球との引用です。
■尖閣と中尊寺と日本の真珠王と卓球と
尖閣諸島を巡る日中の対立を機に、主権意識に目覚めた日本国民が、これまで無関心だった日本の固有の領土に関心を持つようになってきた。
これは中国の恫喝が日本にもたらした一つの奇貨である。尖閣諸島は、福岡県八女出身の古賀辰四郎が明治期に開拓に取り組んだ歴史を持つ。
その後辰四郎が那覇市に創業した古賀商店を長男の善次が引継ぎ、石垣島で、虫下しの海人草(マクリ)や貝殻細工の貝殻の輸出などを手がける。
そして、二代目当主古賀善次の時代に、こんな史実を残している。
1919年、善次らは尖閣諸島近海で遭難した中国漁民31人を救助し、石垣島に運んで手厚く看護した。
翌年、当時の中華民国は長崎領事館を通じて善次らに感謝状を贈った。
その文面には、漁民が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島に漂着した際…」と明記されており、当時の中国が、尖閣諸島は日本の領土として公式に認めていたことを物語っている。
ここで話が急転し、今中国の領海侵犯で揺れる尖閣諸島が、日本の国宝である奥州平泉の中尊寺と関わりがあるとか、日本の真珠王・三木本幸吉と縁が深い,
さらには「卓球」という言葉は尖閣の2代目当主に端を発し、それが全国に流布したなどとと言い出したら、話があまりにも唐突過ぎてホラ男爵との誹りを受けかねない。
だが、筆者は古賀辰四郎が創業した古賀商店で、長年番頭をしていた日高栄次郎の次男・剛に取材する機会を得て、尖閣と中尊寺そして日本の真珠王との関係を知ることが出来た。
子宝に恵まれなかった2代目古賀善治は番頭日高栄次郎の次男剛を養子にして古賀商店の三代目にする内諾をしていた。 そうなれば当然日高剛が尖閣諸島の三代目の持ち主になるはずであった。
だが、実際には現在の持ち主栗原国起に譲り渡された。
何故養子縁組が破談になり、日高剛が古賀家(古賀商店)の三代目ならなかったのか。 はたまた何故沖縄から遠く離れた埼玉在住の栗原国起に尖閣が転売されることになったのか。
現在も那覇市西町の旧古賀商店の跡地に居を構える日高剛からその経緯を聞くことができた。
だが、ここでその経緯に深入りするのはあえて避けるが、ただ一言で日高剛の心中を表現するなら「若気の至り(剛氏談)」だったという。
さて、国宝・中尊寺や真珠王・三木本幸吉と尖閣との関係だが、古賀辰四郎は尖閣に渡る前、石垣島の川平湾で日本の真珠王・三木本幸吉と共同出資で真珠の養殖を手がけ、貝殻細工の原料の夜光貝の輸出にも手がけ財をなした。
昭和37年から始まる中尊寺の「昭和の大改修」では、貝殻細工の螺鈿の調達の話が京都大学を通じて古賀商店に舞い込んで来た。 当時沖縄の古賀商店は貝殻細工工芸・螺鈿では全国にその名を知られていたことがわかる。
二代目当主善次はテニスや卓球を沖縄に紹介したスポーツマンで、今でもテニスや野球に「古賀杯争奪戦」としてその名を残している。 ちなみにその頃2代目当主の善次は既に古賀商店の実務から遠のいており、商人というより沖縄の文化人としてベルリンオリンピックの見学に行き、その時沖縄紙の特派員を頼まれ、ベルリン報告記事を送信している。
その時、当時「ピンポン」の名称に初めて「卓球」と」命名したのが善次だといわれている。 新聞の版組みにピンポンの活字が入らず困っていたところ善次の「卓球でよいだろう」との機転で以後、「卓球」という言葉がピンポンに代わって全国的に広まったという。 つまり「卓球」という言葉の始まりは沖縄の新聞、ひいては尖閣諸島の2代目の持ち主・古賀善次ということになる。
さて初代当主の古賀辰四郎が冒険心に溢れた野人の趣があるのに対し、二代目善次はお公家様の風貌を持つ文化人であり、中尊寺の大改修の話が舞い込んできた頃は、その事業のほとんどを番頭をしていた日高栄次郎の南海商会に引き継がしていた。名刺に肩書きの欲しかった善次は、南海商会の取締役の肩書きを使用していた。
さて、中尊寺の大改修の件だが古賀商店の仕事を引き継いでいた日高栄次郎が夜光貝の納入に奔走し、「大改修」を成功裡に終えることができた。
石垣島の川平湾では今でも古賀辰四郎と三木本幸吉が手がけた真珠養殖が石垣名産の黒真珠となって輝いているし、奥州中尊寺には尖閣諸島の開拓者辰四郎の壮大な冒険心の結晶が中尊寺の螺鈿細工に化身して、今でも燦然と光り輝いていることになる。