狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「集団自決」米公文書に新資料「軍命」慶良間・集団自決/発生直後の住民証言

2020-08-23 15:33:26 | ★改定版集団自決

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログをサルベージして沖縄の「集団自決」 米公文書に新資料2006-10-05

を編集・再掲します。

                ★

◆2006年10月3日(火) 朝刊 1面  
 
米公文書に「軍命」慶良間・集団自決/発生直後の住民証言

関東学院大 林教授発見

 沖縄戦時下の慶良間諸島の「集団自決」をめぐり、米軍が上陸直後にまとめた資料に、日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す記録があることが、二日までに分かった。関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で発見した。

記録は一九四五年四月三日付の「慶良間列島作戦報告」。
慶留間島の住民への尋問で「住民らは日本兵が米軍が上陸してきた時は自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。

「集団自決」発生直後の記録として、住民への命令状況を伝える貴重な資料。林教授は「自決命令があったことは、既に三月下旬時点で島民たちによって語られていた。戦後創作されたものではない」と指摘。近年、「集団自決」の軍命を否定、沖縄戦の事実をゆがめようとする動きを批判した。(謝花直美)

 記録は、四五年四月三日付の米歩兵第七七師団砲兵隊による「慶良間列島作戦報告」。林教授が八、九月に渡米した際、入手した。

 報告では、慶留間の住民を男女別に収容し尋問した内容として「三月二十一日に、日本兵が慶留間の島民に対して山中に隠れ、米軍が上陸してきた時には自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。

 また、座間味島については歩兵第七七師団「アイスバーグ作戦 段階1 作戦報告 慶良間列島・慶伊瀬島」で、座間味の「集団自決」の生存者に対し、医療スタッフが治療を施していることを記述。「一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療した負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちはとらわれないために自決するように指導されていた」と記録されている。

 林教授は、各島の間で「三月下旬の時点において、慶留間では日本兵が自決せよと命じていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが保護された島民たちの証言で示されている」と解説する。

 その上で「日本軍ならびに行政・教育を含めて、島民たちは自決するように命令あるいは指導・誘導されていたことは、この三月下旬時点でも明確であった。米軍は事態を正確に認識していたといえる。自決するように命令あるいは指導されていたことが当時から認識されていたことを裏付ける資料といえる」と指摘している。

 慶良間諸島の「集団自決」 海上特攻の任務を帯びた海上挺身隊各隊が駐屯した慶良間諸島では、1945年3月23日から米軍の空襲、艦砲射撃が続いた。米軍が26日に慶留間、座間味、27日に渡嘉敷に上陸すると、「集団自決」が発生。渡嘉敷島329人、座間味島177人、慶留間島53人が犠牲となった。


 沖縄渡嘉敷島の「集団自決」について「軍命令は創作だった」という元琉球政府の照屋さん決定的証言を報じた8月27日の産経新聞の報道以来、「集団自決」を最初に報じた沖縄タイムスはこの証言には一切の反論等の記事は無く黙したままだった。

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決


今年になってからからも、月に四回前後の特集記事を掲載していたが、照屋証言以来「集団自決」関連記事はほとんど見られなくなっていた。

ところが昨日の沖縄タイムスネットニュースによると、関東学院大学・林教授が、沖縄戦時下の慶良間諸島で、日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す記録の資料を米国立公文書館で発見したという。

林教授は元々「軍命による集団自決」肯定派で、ホームページ等で沖縄戦における「日本軍の悪行」を追及する論文を書いていた。(「集団自決」の再検討http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm)

ところが最近では状況利あらずと判断したのか、左派学者によくあるすり替え理論で「軍命令の有るなしは問題ではない」といった路線変更を図っていた。

◆沖縄タイムス<2005年7月4日 朝刊24面>

[「集団自決」を考える](20)
識者に聞く(3)
林博史関東学院大教授


命令有無こだわり不要
前提に「逆らえない体制」

 ―「集団自決」に至る背景をどうとらえますか。

 「直接誰が命令したかは、それほど大きな問題ではない。住民は『米軍の捕虜になるな』という命令を軍や行政から受けていた。追い詰められ、逃げ場がないなら死ぬしかない、と徹底されている。日本という国家のシステムが、全体として住民にそう思い込ませていた。それを抜きにして、『集団自決』は理解できない。部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう」

 ―沖縄戦で住民が置かれた社会状況や支配の構図は。

 「軍人がいると住民は投降できない。投降できないとしたら、壕に隠れていて、攻撃されるしかない。あるいは、軍人がいなくても在郷軍人など軍の意思をたたき込まれた者が『集団自決』の口火を切る

 「沖縄のような島では、逃げ場がなく、教育も徹底している。役場も軍も、そこから言われたことはお上の『命令』である。村の幹部らが『集団自決』を主導したとしても、幹部自体が国家の末端だから、『村が勝手にやった』とはいえない。軍の免罪にはならない。個々の軍命令かどうかは、必ずしも重要ではなく、住民が追いつめられ、『自決』しかないと思い込ませる状況をつくったのは軍を含めた国家だということが前提になる」

 ―軍民雑居や皇民化教育といった影響が大きいと。

 「軍がいなかった島では『集団自決』はほとんど起きていない。移民帰りの人だけでなく、戦争に疑問を持つ人、民間人が戦争で犠牲になることはない、と素直に考える人はいた。地域のリーダーらが、『死なないで生きよう』と言える状況にあったかどうか。軍が居ればまず言えない。慶良間のように小さな島では、なおさらだ」

 ―沖縄戦に先立ち、サイパンでも「集団自決」で多くの住民が犠牲になった。

 「サイパンも沖縄と同じ孤立した環境にあり、『米軍はひどいことをする』と事前に恐怖心が植えつけられていた。捕まりそうになったら『自決』するしかないと思わされていた。沖縄では、民家に滞在していた軍人から、日本軍の中国戦線での蛮行が伝わり、米軍はもっとひどいと伝わっていた。テニアン、フィリピン、沖縄と太平洋戦争の日本軍の敗北の過程で、軍と住民が一緒にいた地域で共通に起きた現象だ

 ―国から援護を受けるため、軍命による「集団自決」が強調された、との主張について。

 「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)は、軍に協力した者にしか適用されない。軍に食糧を強奪されても『食糧提供』、壕から追い出されても『壕提供』と申請しなければならない。戦闘協力者しか救済しようとしないので、『集団自決』でも軍命令と言わないと、援護の対象としないという考え方だった。政府がそう言うように誘導している。国が始めた戦争を十分に反省しないで、被害者に被害者としてきちっと償わない政府の政策自体が問題であると言わなければならない(社会部・澄川卓也)

 はやし・ひろふみ 関東学院大教授(現代史)。1955年生まれ。書著に「沖縄戦と民衆」「裁かれた戦争犯罪」など。

林先生、状況不利な折、一発逆転ホームランを狙ったのか米国立資料館から何か当時の住民の証言資料を見つけ出してきたと言うのだ。

詳しい内容は不明だが、沖縄占領当時沖縄を永久占拠をたくらんでいた米軍が、当時の沖縄県民を日本人とは別種の異民族の琉球人と捉え、明治期に武力で植民地化された沖縄を解放したという「日本・沖縄分離策」を考えていたことは良く知られたことで、そういった状況で米軍がどのような「非日本人の証言」を収集していたかは別の意味でも興味がある。

林教授も沖縄タイムスも米国立公文書館という、いかにも権威ありといった名前の資料で鬼の首を取ったような気持ちだろうが、アメリカ軍は敵であり日本軍は既に壊滅している状況で、日本との分離を目論んで宣撫するアメリカ軍に対する証言がどのようなものだったか、いずれにせよ貴重な歴史資料である事だけは間違いない。

「富田メモ」のように一部公開ではなく、早目に全部公開して欲しいものだ。

それにしても沖縄タイムス一緒になって「集団自決」を騒ぎ立てていた琉球新報が林教授の資料について一言も触れていないのはどういうつもりだろう。

もう勘弁して欲しいとでも言うのだろうか。

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沖縄戦の歴史を変えた一冊 「ある神話の背景」

2020-08-23 11:36:53 | ★改定版集団自決

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログをサルベージして歴史を変えた一冊 「ある神話の背景」2006-08-29を引用・編集して再掲しました。

 

 

筆者は若いころ、沖縄タイムス刊『鉄の暴風』で「沖縄戦における日本軍の残虐さを」叩き込まれた。 
 
そして、沖縄戦を描いた著名人の著作が少なかった当時、大江健三郎著『沖縄ノート』は衝撃だった。有名作家が「日本軍の残虐さ」を裏付けしたのだ。
 
ところが偶然本屋で出会った曽野綾子著『ある神話の背景』や『生贄の島』は、逆の意味で更に衝撃的だった。
 
軍と行動をともにした新聞記者がその真相を克明に記録した沖縄戦記の古典的名著とされる『鉄の暴風』。
 
これにに対して、物語の創作が本業の作家が著した『ある神話の背景』を、ある種の予断を持ちながらも貪り読んだ。
 
だが『鉄の暴風』で植え付けられた予断は木っ端微塵に打ち砕かれた。
 
目からウロコが落ちるとはこのことかと思った。
 
新聞記者が書いた『鉄の暴風』こそが創作であり、作家が書いた『ある神話の背景』は、取材に元付いた沖縄戦のドキュメントであった。
 
『ある神話の背景』の著者である曽野綾子さんは、こう語る。
 
≪当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。」≫
 
このような曽野さんの実証的ドキュメンタリー記述に圧倒され、そして感動した。
 
現地調査の中で『鉄の暴風』が伝聞を元に書かれていた事実が結果的に暴かれる事になった。
 
それから曽野さんの長い戦いが始まった。
 
私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。≫
 
≪グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。≫
 
≪渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました
 
現地調査もせず伝聞のみで書かれた『鉄の暴風』。
 
それを鵜呑みにした大江健三郎氏は「残忍な日本兵」と言う予断で赤松大尉を断罪し「沖縄ノート」を著した。
 
≪『沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物』は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。≫

当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。

沖縄戦史最大の謎に光を当てた名著『ある神話の背景』がタイトルを変えて復刻した!
 
                   ◇
  
◆曽野綾子さん 著作が復刻 沖縄戦集団自決 (産経 06/5/21)
 
 
 


 沖縄戦集団自決の真相に迫った作家、曽野綾子さんの『ある神話の背景』が復刻され、二十二日、WAC文庫から『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』というタイトルで発売される。

 『ある神話の背景』は曽野さんが昭和四十年代半ば、沖縄県渡嘉敷島の集団自決について現地で取材した結果をまとめたノンフィクション。

 それまでは、沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』などにより、集団自決は旧日本軍が命令したとされてきたが、曽野さんはこの“旧軍命令”説に初めて疑問を投げかけた。

 『ある神話の背景』は四十八年、文芸春秋から単行本が出版され、その後、PHP研究所で文庫本化されたが、いずれも絶版となり、入手が難しくなっていた。

 沖縄戦集団自決をめぐる“旧軍命令”説は現在も、大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波新書)や歴史教科書などで独り歩きしている。

 昨夏、同島守備隊長の遺族らが大江氏らを相手取り、名誉回復を求める訴訟を大阪地裁に起こしている。
 
■『鉄の暴風』の初版は朝日新聞が発刊
 
朝日新聞社は「集団自決」問題については第三者ではなく、当事者そのものなのだ。
 
ことの発端となった沖縄タイムス社刊行の「鉄の暴風」の初版は朝日新聞が出版している。
 
「鉄の暴風」の執筆者の一人牧港篤三さん(89)・元新聞記者は【沖縄タイムス<2002年6月12日>[戦への足音 6・23体験者が伝える「有事」](1)】で次のように語っている。
 
『鉄の暴風』で取材した体験者は二百人余り。初版は朝日新聞社で印刷され、二万部出版された。≫
 
沖縄タイムスの前身は「沖縄朝日新聞」であり「鉄の暴風」の執筆者牧港さんは戦前沖縄朝日新聞の記者だったのだ。
 
その杜撰な記事を鵜呑みにして「軍命令があった」と声高に個人攻撃をしたのが大江健三郎著『沖縄ノート』になるわけだから、朝日が社説で自社出版物を典拠の『沖縄ノート』をわざわざ引用に使うのは事情を知る者にとっては笑止千万な話だ。
 
                  ◇
 
6月23日・朝日社説(1)
沖縄慰霊の日 悲劇と狂気を思い起こす
『沖縄の「慰霊の日」が今年も巡ってきた。太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人々を悼み、平和を祈る日だ。80日余りの戦闘で亡くなったのは20万人を超える。狂気の世界というほかない。米軍に投降すればいいではないか。自殺することはない。いまの若い人たちはそう疑問を抱くだろう。 宮城さんは「皇民化教育は国のために死を惜しまないことを教えた。集団自決は敵を目前にした住民の必然的な行為で、国に死を強いられた」と語る。さらに住民は「米兵に捕まると、女性は辱めを受ける」などと、「鬼畜米英」の恐ろしさを信じこまされていた。米軍の上陸前、座間味島の住民は約600人だった。集団自決で命を絶った住民は135人にのぼり、その8割が女性や子供だった。慶良間諸島全体では犠牲者は700人になる。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲撃や空爆は、沖縄本島に上陸後も、さらに激しくなった。そこで米軍を迎え撃とうとする限り、おびただしい犠牲は避けられなかった。こうした沖縄戦の事実は沖縄では語り継がれているとはいえ、本土にとっては遠い土地の昔の話かもしれない。 慶良間諸島の集団自決について「沖縄ノート」に記した作家の大江健三郎さんは「沖縄戦がどんなに悲惨で、大きなことだったか。集団の自殺を頂点として、日本軍が沖縄の人々に大きな犠牲を強いたことを日本人の心の中に教育し直さなければならないと思う」と話す。すさまじい犠牲の末に、沖縄は米軍に占領された。それはいまもなお、広大な米軍基地というかたちで残る。沖縄戦の悲劇と狂気を絶えず思い起こす。それは日本の進む道を考えるうえで、苦い教訓となるに違いない。』 (朝日新聞)
 

沖縄タイムス<2002年6月12日 朝刊27面>
 
戦への足音 6・23体験者が伝える「有事」](1)
牧港篤三さん(89)・元新聞記者
「地獄絵だった沖縄戦」
「沖縄を再び戦争に巻き込むような動きには、徹底して抵抗しないとだめだ」
「鉄の暴風」忘れるな
 
 住民の視点で沖縄戦をつづった『鉄の暴風』(沖縄タイムス社刊)の取材は、戦禍の傷跡が生々しく残る終戦四年目の一九四九年に始まった。
 那覇市小禄の自宅で、牧港篤三さんは当時を記録するメモを手に、沖縄戦を目撃した記者の証言をとつとつと語った。
 記者になった一九四〇年末、私が勤めていた沖縄朝日新聞、琉球新報、沖縄日報の三紙が整理され、「沖縄新報」に統合された。特高警察が「受諾しなければ用紙の配給を停止する」と脅したと聞いた。幹部は来るものが来たという雰囲気だったようだ。抵抗できないまま、新聞も国家総動員体制に組み込まれ、言論の自由は完全に奪われた。
 駆け出しの首里市担当では、隣組の防火訓練や婦人会の竹やり訓練などの取材ばかり。戦意高揚の記事が紙面を埋め、軍部批判は絶対にタブー。社内の一部には、日一日と色濃くなる戦時色に冷めた空気もあったが、記者が軍部に逆らえる時世でなくなっていた。
  当時の統制に、編集 局長だった高嶺朝光氏 (故人)は「気象情報も 利敵行為とみなされ、 固く禁じられた」(『新 聞五十年』)と記してい る。
 米軍上陸が現実味を帯びると、県や軍の幹部が相次いで本土に逃げ出した。戦争協力を強制した指導者らが住民を戦場に置き去りに逃亡した無責任な行為で、今でも許す気になれない。
 四五年三月中旬、新聞機材を首里の壕に運び込み、ろうそくや豆ランプを頼りに新聞作りを続けた。激しい艦砲射撃をくぐり、取材も命懸け。すでに総司令部の指揮は機能を失い、どうしようもなかった。
 米軍が首里に迫りつつある五月末、総司令部は摩文仁に撤退。「われわれは民間人で、従軍する必要はない」と社の仲間と話し合い、軍とは別行動で南部に向かった。
 南部は地獄絵。女性の死体が真っ黒に覆われるほどゴキブリがたかっていた光景が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。日本兵に脅され、壕で泣き出したわが子を殺害した母親の話も聞いた。兵隊は住民を守らない。
 戦後、壕で発行した新聞を読み返すと、軍の発表をうのみにしたバカらしい内容だと思う。だが、当時は一日でも長く発行を続けることに懸命だった。それが県民のためだと信じていたんだ。
 結果的に、県民を戦場へ駆り立てた新聞社の報道は戦犯的行為だった。報道の戦争責任への反省が戦後ジャーナリズムの起点だ
 『鉄の暴風』で取材した体験者は二百人余り。初版は朝日新聞社で印刷され、二万部出版された。米軍に提出されるために英訳され、占領軍司令部でも話題になった。
 編集会議では「なぜ、沖縄戦を取り上げるのか」と幾度も討議した。「この戦争で住民がいかに苦しみ、沖縄戦とは何であったかを後世に伝えることが生き残った人間の使命だ」という結論にたどり着いた。われわれがやらずに、誰が書くんだ、という責務もあった。
 反響はすごかった。住民の証言を淡々と伝えたことが多くの県民に受け入れられたのだろう。
 有事法案が上程された昨今の状況には強い怒りを覚える。日本の新聞は弱すぎる。新聞が時代に流されてはいけない。沖縄を再び戦争に巻き込むような動きには徹底して抵抗しないとだめだ。
 戦時中の国家総動員体制下、住民は飛行場建設や陣地構築などに駆り出され、あらゆる戦争協力を強いられた。国内唯一の地上戦は、軍民合わせて約二十万人の命を奪った。沖縄戦から五十七年。国会で有事関連法案が審議されている。沖縄戦体験者に当時の有事体制を聞いた。(沖縄タイムス)
 
★下記のリンク先で藤岡信勝氏が沖縄戦の真実を音声で解説しています。
 
2006年6月の段階で匿名ながら照屋さんは既に全ての証言をしていた様子がよく分ります。「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあう」と言う言葉が生々しい。

「照屋証言」報道以前の状況ですが、参考までに聴いて頂きたい。
http://www.voiceblog.jp/okinawa_shinjitu/32568.html
 

集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!

2020-08-23 07:12:54 | ★改定版集団自決

 

きょう(23日)の沖縄タイムス社会面

宮城恒彦さん死去 86歳

座間味「集団自決」証言

               ★

沖縄タイムス+プラス ニュース

座間味「集団自決」の証言者 宮城恒彦さん死去 86歳

2020年8月23日 09:19

 沖縄戦中、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き延びた宮城恒彦(みやぎ・つねひこ)さんが21日午前2時10分、肺炎のため亡くなった。86歳。家族によると2週間ほど前から体調を崩し、入院していた。葬儀は22日、豊見城市の自宅で近親者のみで執り行われた。併せて初七日も繰り上げ法要で行った。

戦争体験を語る宮城恒彦さん=3月17日、豊見城市

 戦後は小学校の校長を務めた。ハルさんを壕に残したことを悔やんでいたという母ウタさんが亡くなったのをきっかけに、88年から戦争体験者への聞き取りを始め、自費で証言集28冊を発行した。

 告別式は、三七日(みなんか)の9月10日、もしくは五七日(いちなんか)の9月24日に開かれる予定。喪主は妻の美代子(みよこ)さん。

                ★

戦後75年の節目に沖縄戦の語り部が他界するのは残念。

ご冥福をお祈りする。

だが、宮城恒彦氏のように嘘の証言をする方に対しては、歴史の真実として反証しておく必要がある。

過去ブログをサルベージし集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!2011-05-26を編集して再掲します。

                ★

「集団自決」軍命を記録 座間味村の戦争体験記第23号発行

2011年5月24日      

「人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」。座間味村民の戦争体験を23年間発行してきた宮城恒彦さん=10日、豊見城市渡嘉敷の自宅
 
  【豊見城】沖縄戦中の1945年3月26日、座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生き残り、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市渡嘉敷在住=が23年間続けてきた沖縄戦体験記発行に一区切りつけた。同村住民の戦争体験を収集し、最終号の第23号を3月に発行。宮城さんは「集団自決」で姉の宮平ハルさん(当時19歳)を失った。「最も悲惨な目に遭うのは住民だ。人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」との思いに突き動かされ、33人の証言を刻んできた。
 最終号には、軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言った言葉が記されている。
 宮城さんの姉ハルさんの最期を見た故・宮里美恵子さん(享年85歳)の証言も記録できたことから「一段落ついた」と体験記に終止符を打った。
 宮城さんは戦後、ハルさんを失ったことを悔やみ、自分を責め続けた母親・ウタさん(享年91歳)を前に、体験を語れなかったが、ウタさんの他界後、初めて語った。座間味村史にある想像を絶する体験の多さに衝撃を受けた。中学校で国語教師をしていたため休みを利用し、戦争体験者を訪ね聞き取りを重ねた。
 89年に1号を発行した。多くの住民が語りたがらず、古傷に触れるようでつらかった。「方言で質問すると返してくれた。体験者でないと分からない複雑な思い、惨めさがある」。険しい表情で振り返る。
 体験記は毎回、1500冊発行し座間味村内の小中学校や過去の赴任校などに置いている。「文字も大きく、行間を広げ読みやすく工夫した。平和教育にぜひ活用してほしい」。体験記が“語り部”として受け継がれるよう強く願っている

            ☆

座間味島の集団自決を命令したのは軍人より軍人らしい言動で、住民から畏怖されていた宮里盛秀助役だと言われている。

だが、これを覆す重要証人が盛秀氏の実の妹の宮平春子氏というのも不可解である。

肉親の証言は信憑性に欠けるという常識が、ここでは通用しないのである。

ここに登場する宮城恒彦氏は、大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判断が出た翌日4月23日の沖縄タイムスで「これ(関与)は『命令』そものだった」というデタラメなコメントを吐いた元教員である。

宮城氏の発言はもちろん間違いであり、最高裁が「関与=命令」と確定したけではない。

宮城氏は軍人より軍人らしい「参謀長」と呼ばれた教頭が登場する『潮だまりの魚』の著者でもあるが、氏の発言ががいかにデタラメであるかは以下に引用の沖縄タイムス記事を読めば明白である。

参考⇒証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像

沖縄タイムス 2008年1月31日(木)  
 
 悲劇の島から史実訴え/座間味村が証言集

 座間味村教育委員会が沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」を体験した住民らの証言などをまとめた「戦世を語りつぐ 座間味村平和学習ガイドブック」を発刊した。制作を委託された編集委員会が三十日、同村教委に引き渡した。沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制を示す記述を文部科学省が削除させた教科書検定問題が起きる中、「座間味での沖縄戦の真実を伝え続けよう」と編集作業は進められた。
 編集委員会は二〇〇六年十二月に発足し、同村で「集団自決」を体験した宮城恒彦さん(74)が委員長を務めた。沖縄戦を体験していない世代の編集委員が、体験者数十人から聞き取りをした。


改ざんNO


 同ガイドブックでは、座間味島の「集団自決」を「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです」と書く。宮城さんは「抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」と説明する。

 「『敵の手にとられないように玉砕するよう、軍より命令があった』と当時、村助役だった兄が父に話すのを聞いた」との宮平春子さんの証言を収録し、編集後記には「文部科学省による『高校の歴史教科書改ざん』に対する答えは、多くの証言者の声やこの冊子に記載された内容が証明しています」と記した。


改訂も検討


 編集委員の一人、宮里芳和さん(59)は「『軍から玉砕命令があった』との証言は複数あり、日本兵側からも軍命を示す証拠や証言が新たに得られ始めた」といい、同ガイドブックの改訂時に盛り込みたい考えだ。

 二千部を発刊した。修学旅行生の平和学習などに活用し、希望者には販売する予定。問い合わせは同村教委、電話098(987)2153へ。

  宮城恒彦氏                                           

 写真

 >「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです・・・抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」

 

米軍が大挙して壕の近くまでやって来て中の住民がパニックに陥ったのなら、集団自決の原因は米軍であることは小学生でもわかることだ

このお方本当に国語の先生だったのだろうか。

それを「住民を『パニック』に追い込んだのは日本軍の強制だ」とは、まるでヤクザの言掛かりではないのか。

最高裁判断でさえも、「関与=軍命」と自分の都合の良いようにに決め付ける人物なのである。

このような理の通らぬ話がいかにも「正論」であるかのように、もっともらしく掲載される・・・これが沖縄タイムスの正体である。

■似たもの同士の宮城恒彦と宮城晴美■

>改訂も検討

宮城恒彦氏は、当初は自著で「軍命や強制はない」という内容で出版しておきながら、後で「言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があったといった苦し紛れの弁明で証言を変更した。

あげくの果てに「改定も検討」とは『母の遺したもの』が「軍命なし派」の証拠として係争中の裁判の原告側証拠となると、改訂版を出版をした宮城晴美氏のケースと全く同じパターンである。

おっと、もう1人『沖縄戦と民衆』を反対派の証拠に使われた林博史関東学院大学教授の例も、自著の内容と発言が違うという点では似たようなものだ。

宮城恒彦氏:
「米兵が大挙壕の近くに来て住民はパニックになり死の道を急いだが、住民のパニックも軍の強制である」

◆宮城晴美氏:
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」(平成19年7月27日大阪地裁証人尋問)

                     ◇

【おまけ】

 読者の安仁屋正昭さんが宮城氏の人物像についてコメントされています

 5月13日

私の手元に平成9年5月発行の「しおだまりの魚たち」という小冊子があります。
この著者は本日記の「軍の関与=軍の強制=軍の命令」という明らかな間違いを読者に信じ込ませようとしている宮城恒彦氏です。
彼の経歴には、校長・島尻教育事務所所長が記されており、それなりの見識と社会に対する責任がある人物であることがわかります。

この冊子には、座間味の集団自決に遭遇した自身と家族、並びに村人や当時最も尊敬されていた校長先生夫妻の自決の様子が書かれています。
勿論、忠魂碑前の事も。
しかし、軍の命令によって自決をしたなどという最も核心的な事は何処にも書かれていません。
むしろ、迫りくる米軍の恐怖により、自分たちで相談して決した事になっています。

2008年6月20日に宜野湾市の志真志小学校にいた革マル派の宮城じゅんという教師が幼い子供達に集団自決の劇を演じさせ、問題となった時のことでした。
この宮城恒彦氏は会場となった体育館まで遠いところから出て来て、一番後ろで壁にもたれながら見ていました。

元教育事務所長といえば、所管する百数十校を指導とする総責任者だったはずです。
集団自決という最も悲惨な事件を子供達に演じさせるという暴挙に、何もせず傍観し、挙句の果ては 関与を命令と誤認させる原稿まで書くというのであれば、「嘘つき・世を惑わす者」として、何れ裁かれなければならない思います。

左翼思想を信じ込み、一方的な情報を与えられて活動している者達より、この宮城恒彦氏の方が罪が深いと言わなければならないと思います。

【おまけ】

証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像 

2007-07-12 10:09:28 | ★集団自決

ひと》沖縄戦「慰霊の日」に体験記を出す

2004年06月23日

写真

 

宮城恒彦さん

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した座間味(ざまみ)島で45年3月26日に起きた「集団自決」の生き残りだ。当時は11歳。母親と姉弟で逃げ込んだ壕(ごう)の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、19歳の姉と担任の教師が亡くなった。

 「戦後、母が戦争を語ることはなかった。毎年3月になると、思い出したように嘆息した」。書き始めたのは、母親が他界した翌88年から。「自決」で住民173人が犠牲になった。自分だけでなく、島の人にも聞いてまとめた。

 「慰霊の日」に合わせて出してきた体験記は今年、16冊目になった。毎回、1千部以上を発行し、学校などに配っている。さらに、23日には、東京の出版社から過去の15冊をまとめた「潮だまりの魚たち~沖縄・座間味島の戦世(いくさゆー)」(クリエイティブ21)を出版する。

 元小学校長。一番苦しんだのは「日の丸・君が代」問題。惨劇を招いた戦前の教育が頭をもたげたが、個人の意見も言えず、公私のはざまで悩んだ。「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」。教師になったのも、あの時の体験で教育の大切さを知ったからだという。

 講演をよく頼まれるが、全部断る。10年前に一度だけ引き受けたが、「自決」の場面で胸が詰まり、しばらくの間、言葉が出なかった。

 「若い人にどう伝えるかは難しい。元気なうちはとにかく聞き書きを続けたい」

(文・大矢雅弘、写真・水野義則) 朝日新聞

http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000119999991201

                    ◇

    ■証言者は「平和教育者」■

琉球新報の「沖縄戦特集<史実封殺> 届かぬ沖縄の心④」で証言をした宮城恒彦さん。

彼はこれまで何度か朝日の記事でも紹介されている。

朝日が紹介する『潮だまりの魚たち』(2004年6月発行)は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集である。

著者自身が「集団自決」の生き残りであり、集団自決に触れられている箇所も多数ある。

が、同書では集団自決に関する梅沢命令あるいは軍命令には、伝聞も含め、全く触れられていない。

座間味島出身で集団自決の生き残りの証言集なら、当然これまでのマスコミが報じる集団自決を命じる“悪鬼”梅沢守備隊長を期待するのだが、そのような記述は一行も無い。

    ■「潮だまりの魚」に見る“悪鬼梅沢”と梅沢隊長の落差■

それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、梅沢隊長が村民の女性らに山への避難を命じた記述(163頁)や、

あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した記述(167頁)などの、

軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されている。

これらの記述は、従来マスコミに流布している残虐非道な「悪鬼梅沢」とは全くかけ離れた普通の青年の行動が伺える。

これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。

このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされないのが一般なのである。

より厳格に言うならば、学術的には軍命令で集団自決したという根拠は極めて薄いということになる。 

 

    ■真実と「平和教育」の狭間

その一方、元校長の宮城さんは「平和教育」との板ばさみなのか、

「軍命令」に関しては苦しい証言をしている。

<言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった>

「軍が直接命令をした」と言わずに「目に見えない命令があった」、

当時11歳の少年が「直接命令する軍人の姿」は理解できても、

「目に見えない命令」という抽象的な意味を理解できたとは思えない。

結局、宮城さんは多くの証言で「軍が命令して集団自決した」とは一言も証言していない。

>「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」

琉球新報特集でも次のように証言している。

<1945年3月26日の朝、宮城さんの家族が隠れていた壕に、気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。  この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>

いずれの証言も生々しい証言ではあるが、梅沢守備隊長の命令で自決したと決め付けるには根拠が乏しい。

せいぜい「目に見えない命令」とするのが精一杯だったのでしょう。

真実の証言とマスコミの煽動で揺れ動く心のあやが読み取れる証言だ。


    ■「歴史は政治で改ざんするものではない!」■

沖縄タイムスが異常な執念で同じ内容の社説を書き続けている。

何度議会を煽って、何度議決を繰り返しても「歴史の改ざんは出来ない」。

以下の社説のタイトルをそっくりお返ししたい。

社説【「検定撤回」再可決】歴史の改ざんを許すな (7月11日)

同じく琉球新報も7/11の夕刊は一面トップ、社会面トップの大見出しで「史実のわい曲」と来た。

「主体隠し」史実わい曲 教育関係者ら憤り  (7/11 9:42)

「歴史の改ざん」も「史実のわい曲」も沖縄の新聞ではすっかり手垢に塗れて陳腐な単語になり果ててしまったようだ。

これだけ連日紙面を使って大騒ぎするのなら、主張の対立する専門家、学者を総動員して紙面で大論争をする企画を組むのが新聞の本分だとおもうのだが、

沖縄の新聞は既に報道機関としての使命を忘れ去り、サヨク勢力のプロパガンダをその仕事としている。

その結果、「不都合な事実」は徹底的封殺し、偏った「市民運動」の走狗と成り果てている。

 

   ■沖縄の新聞に捧げる「二枚舌」(ダブル・トーク)の称号■

自らの主張に反する数々の証拠や証言は紙面から封殺する一方、都合の良い「証言者」だけの主張を連日取り上げ続ける。

学術的議論・検証を避けて、自分たちの主張だけは「紛れもない事実」と根拠無しに連日騒ぎ続ける。

「政治が検定に介入してはならない」と主張する一方、県議会の議決(政治の主張)が受け入れられるまでは検定に介入し続ける。

これだけで「二枚舌」の栄誉を受ける資格は充分だろう。

「歴史の改ざん」と「史実のわい曲」は鏡に映る己が姿ではないか。


【沖タイ】元朝日記者「辺野古新基地建設に反対しない日本人の病と差別。RCP検査拡充に反対する愚衆も多い」新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた

2020-08-23 05:00:07 | マスコミ批判

新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた



新型コロナを指定感染症から外せという議論が、国会でも出てきた。維新の梅村さとし議員が「指定を解除してはどうか」と質問したが、加藤厚労相は「検討していない」と答弁した。

今まで厚労省はコロナを感染症法の「二類相当」と説明していたが、東京脳神経センターの川口浩氏によると、2月に一類相当に格上げされたという。指定感染症は一類とか二類とかいう分類とは別の概念だが、次の表のように感染症法では「無症状病原体保有者への適応」は一類だけだ。これはエボラ出血熱やペストと同じである。

ccc

ところが2月13日の対策本部のガイドラインでは、「無症状病原体保有者は対象となっていないが、感染拡大防止のため、無症状病原体保有者にも入院を要請」と書かれている。これが今、全国でベッドがあふれる原因になっているのだ。
 
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