沖縄の歴史を語るとき、必ず誇らしげに語られる「鐘」がある。
琉球王国時代、
琉球が世界に雄飛した象徴としての「万国津梁の鐘」、・・・その鐘に刻まれた文言は太田元沖縄県知事が会見するときの、背景の屏風に書かれていたので記憶にある人も多いだろう。http://www.hot-okinawa.com/bankokunokane.html
「鐘」について北國新聞のコラム「時鐘」に次のような文言があった。
<日本の梵鐘(ぼんしょう)は外からつく。西洋はベル型で内側の「舌」で音を出す。高岡の銅器メーカーがスペインの世界遺産にある鐘を修復するという。北陸の技が欧州にまで鳴り響いた結果で、貴重な東西交流となろう >
<当欄「時鐘」の名は「時を告げる鐘」から来ている。かつて時計は見るものではなくて耳で聞くものだった。>
<時鐘は時計の代わりだけでなく、時代の相を写す鏡でもあった>
<半鐘とは江戸時代、火の見櫓の上部などに取り付け、火災・洪水発生時などに鳴らし、地域の消防団を招集するとともに、近隣住民に危険を知らせた。> (北國新聞コラム「時鐘」 2007年7月21日 )
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■米軍蛮行のシンボル「ボンベの鐘」■
<時鐘は時計の代わりだけでなく、時代の相を写す鏡でもあった>
米軍占領下の沖縄の歴史を知る上でどうしても語らねばならぬ、もう一つの「鐘」がある。
不発弾を利用した「ボンベの鐘」である。
形はボンベだが、実際は不発弾の爆薬を抜き取った「不発弾の鐘」と言ったほうが正確だろう。
←「ボンベの鐘」
「鬼畜米英」と信じ込んでいた米軍は“思ったより”親切だった。
年寄りの傷の手当てをしたり、赤ん坊にミルクを与えたり・・・。
だが米軍はヒューマニズムに溢れていたというのは神話に過ぎなかった。
米軍の沖縄占領から数年間の米軍の蛮行はマスコミには封印されたままである。
当時の沖縄住民は米兵の蛮行には目をつぶって耐える以外にはなかった。
現在70歳以上の女性なら、1945年の占領当時から数年間、各集落の入り口にぶら下っていた米兵監視用の「鐘」のことを覚えているはずである。
米兵の蛮行から身を護るために沖縄住民が考えただした「ボンベの鐘」のことを。
<この鐘は部隊に近いところの集落にかけられているものです。収容所のところです。これは夜な夜な集団で米軍の兵隊が集落内に襲ってくるときに、危険を知らしめる鐘だったんです。このボンベを打ち鳴らされる数は、あるいはそれ以上の数が女性たちに性的暴力を奪っていったという、一つのシンボルといいますか、今でもこれは砂辺地区に残っているボンベです。このことを島マスさんは「女性は安心して当時は外出もできなかった。家の中にいても、いつ米兵が入ってくるか分からない。人々は自衛手段としてボンベの鐘を打ち鳴らしました。占領地の沖縄は無法地帯でした」という表現があります。>(「沖縄県収用委員 第8回会審理記録」の一部抜粋)http://www.jca.apc.org/HHK/Kokaishinri/8th/Matayoshi8.html
沖縄には「物(ムヌ)食ィーシドゥ、我ガ御主(ウスー)」(物食わし得る者こそ、我が主人)という有名な人生観がある。
戦前から戦時中にかけて、食料不足に悩まされた沖縄住民は、占領軍が放出する豊富な食べ物に上記の人生観を再確認した。
<「日本世」から「アメリカ世」を生き抜いた、明治12年(1879年)の「琉球処分」の年に生まれた93歳になる祖母に、どちらの時代がよかったかを聞いたところ、〈「日本世」は食べる物も着ける物もなかったが、いまはおいしい物が食べられるし、着ける物だってたくさんあるから「アメリカ世」の方がよかったと真剣に話した〉というエピソードを紹介していた。生活者のリアリズムからみれば「アメリカ世」とは、何よりも圧倒的な物量として体験されたということだろう。>(読売新聞「沖縄企画特集」よりhttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okinawa/kikaku/022/28.htm)
上記の「日本世」は戦前で、「アメリカ世」は戦後の占領時代のこと。
「米軍の蛮行」は封印したまま、占領軍は沖縄の永久占拠を企み、沖縄と日本の精神的分断を考えた。
そのために実施されたのが数々の宣撫工作である。http://www.qab.co.jp/01nw/07-05-11/index7.html
米軍政は五〇年、ペリー来航を記念した「琉米親善の日」を制定、五三年には「百年祭」が盛大に行われた。
琉米親善は占領下の沖縄で行われた殆どの行事に冠詞として付けられ、「琉米親善センター」「「琉米親善・高校バスケット大会」 「琉米親善野球大会」と宣撫工作の一役をかった。
(復帰前の沖縄タイムスの社説について)
<社説は「琉米親善」を祝い、戦前の悪い統治制度からの脱却という表現で日本の軍国時代を批判し、米軍の民主主義に基づく統治を評価する。その論調には解放感さえ漂う。>(沖縄タイムス社説)http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20041020.html
米軍の沖縄住民に対する残虐行為を封印したままの「琉米親善」がくずれ出すのは、戦後10年も経った頃米兵による幼女殺人暴行事件「由美子ちゃん事件」以後である。
【由美子ちゃん事件】 1955年9月3日石川市に住む永山由美子ちゃん(6歳)が米兵に暴行・殺害され、嘉手納海岸で死体となって発見された。米軍軍属の犯罪が大きく取り上げられた最初の事件であった。島ぐるみの土地闘争が高まっている時期に発生したこの事件に住民の怒りは頂点に達した。立法院でも「鬼畜にも劣る残虐な行為」と抗議決議をし、米軍は厳罰に処罰するとの声明を発表、沖縄での軍法会議では死刑判決がでたが、犯人は本国送還となりうやむやにされた。
「由美子ちゃん事件」以後、沖縄のマスコミは米兵の残虐行為を大々的に報じるようになった。
「由美子ちゃん事件」とその数年前から行われた米軍による「強制土地収用」により、
沖縄のマスコミは
<米軍はヒューマニズムに溢れている>、
<米軍は戦前の日本の軍国時代の悪い統治制度から沖縄を解放した>
<米軍の民主主義に基づく統治を評価する>
と言った親米論調は一気に反米へと路線変更していく。
皮肉なことにマスコミの卑屈な路線変更とは関係なく、一般の住民は敗戦直後から「米兵の蛮行」は身をもって知っており、
「ボンベの鐘」で自ら家族を護り続けていた。
写真の「ボンベの鐘」は北谷町砂辺に在るというが、沖縄戦の象徴として、
沖縄県平和祈念資料館の「残虐な日本兵の人形」の隣にでも、
「残虐非道な米兵のシンボル」として展示して欲しいものである。
◆沖縄県平和祈念資料館http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/