渡嘉敷島の戦隊長赤松元大尉が、渡嘉敷島で行われる25周年めの戦没者慰霊祭に参加すべく、那覇空港に降り立った昭和45年3月、空港で展開された“沖縄の青年たち”と赤松氏とのいざこざについて大江健三郎氏は『沖縄ノート』で次のように記している。
《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである》
◆実際に現場に立ち会ったと思われる人物の書いた「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社)には次のような過激な表現もある。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/48129761.html
「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社=P150ーP153)
赤松元隊長は、住民329人が死んだ集団「自決」の下命人として、遺族がまとめた 戦記にその名をとどめてきた元大尉である。
その男が、戦後25年たった春ひょっこり沖縄にやってきた。
渡嘉敷島で行われる「自決」者たちの慰霊祭参列のためだという。
ところが、彼は那覇空港でたいそう手荒な出迎えを受けることになった。
「何しに来たか!帰れ」
「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」
「渡嘉敷島のあるおばあさんは、赤松がきたら発狂するから来てくれるな、と言って いるんだ」
「帰ってくれ。慰霊祭にでてもらいたくないし、あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」
男を取り巻いたのは教員、歴史家、キリスト教牧師、平和運動家ら50人。
「虐殺者、帰れ!」と書いたのぼりが立ち、抗議のシュプレキコールが夕闇迫る空港 ターミナルに響いた。
厳しい追及に男は終始口をつぐんでいたが、抗議の人たちの口から「軍国主義」「日本の右翼化」という言葉が飛び出すと、
「わたしのところは平和だし、、、、わたしが来島したからといって、、、、」と切 り出した。
この一言が、取り巻いた人たちをいっそう刺激した。沖縄は戦後このかた他国の軍事 基地に圧迫され、事件・事故の絶える事がない,「平和」とはおよそ無縁の島である。
その人たちを前にして「私のところは平和だし、、、」と言ってのけるヤマトンチュ とは何だろう。
・・・・・・
「彼が島に来たら発狂する」老女さえいる渡嘉敷島の人たちがこの元守備隊長に求め ているのは、「以前のままの赤松」からの脱皮であり、久米島の人たち同様、真摯な 反省と謝罪、そして軍の論理の放棄である。(P150ーP153)
引用終了
何と、赤松元大尉が渡嘉敷島を訪問したら島の老女が発狂するというのだ。
「あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」
空港で待機した左翼集団が「県民」を代表していないことは同行の沖縄タイムスは百も承知のはずだがそれは伏せて、敢えて県民の遺族代表のように報じた。(後述)
このような捏造された「物語」が次々と一人歩きして島の住人たちは赤松元大尉を「発狂するほど憎悪している」という神話が地元新聞を通じて沖縄地元の人々さえ「鬼の赤松」を信じるようになっているのである。
だが、実際は空港に集結した「団体」の中に渡嘉敷島の人は一人もおらず、島の外部の「民主団体」だったことは昨日エントリーの村長の手記が物語っている。
◆昭和45年3月の那覇空港での出来事を客観的に記した『Media Watch: 悪意の幻想 ~ 沖縄戦「住民自決命令」の神話』から引用して当時の状況を振り返って見る。http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog472.html
(前略)
■7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」■
昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺 族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席 しようと那覇空港に降り立った。 空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤 松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰 れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」 と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は 「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。 結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達 は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。 那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で 赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言っ た。
≪責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。 大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が かかるんだ。言えない。[『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』,p38] ≫
冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けら れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて 同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が かかるからだった。 遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔 のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁 明もせずに過ごしてきたのだった。
■8.「悪意の幻想」と闘う裁判■
赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」 と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ ート』にこう書いている。
≪人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の 巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが う。かは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の 余地をこじあけるたに、過去の事実の改変に力を尽くす。 ・・・ このようなエゴサントリック(JOG注:自己中心的)な希 求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、 かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお りがきたとみなしたのだ。[『沖縄ノート』,p210] ≫
さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事 実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として 赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはと どめがない」のは大江氏自身である。 現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見 てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴 風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾 することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと した「悪意の幻想」の産物なのである。 この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本 国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対 する裁判が闘われているのである。[4] (文責:伊勢雅臣)
引用終了
◆草莽崛起さんは更に詳しくこう記している。http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-1023.html
やがて赤松元大尉の耳にも、シュブレヒコールが聞こえる。「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」 聞こえて来るのはシュプレヒコールばかりではない。
「今ごろ沖縄に来て何になる!」
「県民に謝罪しろ!」
「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」
赤松氏は立ち止まる。直立不動の姿勢になり、彼は人々の怒号にさらされた。
那覇市職労の山田義時氏が、(★)抗議団(平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部)を代表して「渡嘉敷島の集団自決と虐殺の責任者赤松元陸軍大尉の来県に抗議する」という抗議文を読み上げる間、元大尉はじっと無言で立ちつくす。 (★渡嘉敷島の住民は一人もいなかったー引用者注)
やがて朗読が終わり、抗議団から再び声があがる。
「三〇〇人の住人を死においやった責任はどうする」
「罪のない住民をスパイ容疑で惨殺したのにオメオメと来島できるか」
そこでやっと赤松元大尉は口を開く。
「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった。捕虜になった住民に死刑を言い渡した覚えもない。」
このような那覇での抗議のため、赤松元大尉は渡嘉敷島には渡れなかった。その渡嘉敷島での様子は、『琉球新報』
に次のように書かれている。
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。
赤松元隊長が本島まで来ていることを知らされても、『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』
と言った言葉が返ってくるだけ。本島でくり広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二五回忌の慰霊祭-」
この新聞記事は、実に正直に、島民達が抗議団体の人達よりも冷静に、赤松隊の慰霊祭出席を受け入れていることを報道している。それはそうであろう。
命令はなかったのだから。そして、関係者は皆、放っておいて欲しかったのだ。
しかし『沖縄タイムス』は、こう書く。
「・・・赤松氏の来島によって戦争の傷跡が鋭くえぐり出された。『いまさら傷にふれても仕方がない』と遺族の人達は言う。しかし筆者は、遺族にとっては酷な言い方であろうが、あえて言う。
傷痕から目をそらせず凝視してほしい。血を吐くような苦痛を伴うだろうが、その痛みに耐えてほしい。身悶えするような苦悩をするだろうが、それと真剣に戦ってほしい。
なぜなら、そこからしか真の反戦平和の思想は生まれてこない。戦争の傷痕こそ反戦闘争の原点であるから。(後略)」
真実より何より、反戦闘争ありきなのがよくわかる。ちなみに、曾野さん以外の多くの人が取材もせずに赤松元大尉の糾弾記事を書けたのは、元となる三つの資料があるからで、そのうちの一つはこの沖縄タイムス社編の『鉄の暴風』である。
このような「反戦」活動に熱心な、抗議団体やジャーナリスト、作家達が、赤松元大尉だけでなく、真実を知りながら口にできない島民の方々のことも苦しませてきたのだ。
引用終了
◆そして、その当時の渡嘉敷島の村長はこのような手記を書いていた。(昨日のエントリーより抜粋)
遺族会発足当時を想ふ
渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八
(前略) 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。(略)
◇
巷間流布する「神話」が、いかにデタラメであるかを知る上で、「昭和45年3月26日の那覇空港での出来事」は後世、メディアリテラシーの絶好の教科書として永遠に語り継がれるだろう。
発狂しそうになった老女は「赤松夫人や赤松元大尉の部下が大挙島を訪れた」のを知って、
「たたりじゃ!」とでも叫んで、
きっと狂死したのでしょうね。(爆)
【おまけ】
自分たちに都合の悪い人物が、島を訪れようとすると、ビラを配って「帰れ!」と罵り、いかにも島の「民意」のような素振りを演ずる・・・・それを沖縄タイムスが記事として報道。
どこかで見た光景だと思ったら、タイムスはこんなことをしていた。
⇒沖縄タイムスさん!誤報事件の教訓って?
これもメディアリテラシーの教科書して永久保存版だね。