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やってもいないことを、やっただろうと難癖をつける。
これをヤクザの言掛かりと人はいう。
終わったはずの「幻の曽野綾子誤字・誤読事件」を、
いまだに叫んでいる人がいる。
ウソでも言い続けると、それを信用する人が出てくるのも困ったもの。
「幻の事件」にしがみつき、
「反論せずに逃げるとは卑怯なり」
と叫ぶ姿はドンキ・ホーテか、はたまたホラ男爵か。
いや、「売れない評論家」山崎某と人は呼ぶらしい。
「悪魔の証明 」でも、この幻は小学生でも簡単に証明出来る。
図書館にでも行って調べれば済むこと。
暇と興味のある方はどうぞ図書館へ・・・
いや、行く必要もなかろう。
過去ブログを以下に再掲するので、これを読めば足りる。
しかし、改めて古いエントリーを読んでみると、
三回に渡って「売れない評論家」の「論文」を連載した琉球新報の、
ウケを狙ったとしか思えない紙面構成に、
又しても爆笑させてもらった。
何しろ第一日目の大見出しで、本のタイトルを誤記し、
二日目にはその著者名を誤記。
そして最終回の三日目には、これも大見出しで、
「誤記・誤読を放置」
とオチをつけるミゴトな構成には、
ただただ脱帽するばかりだ(爆笑)。
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3月30日の琉球新報オピニオン面「論壇」を見て驚いた。
ネット上では「幻の誤字・誤読事件」として誰にも相手にされない「事件」がまことしやかな大見出しで出ているではないか。
思わずエイプリルフールには未だ二日早いのに、と思ったくらいだ。
この「事件」は過去に2チャンネルで「某評論家」を中心にスレッドが立ち、散々論破、揶揄され幻の事件として決着が付いていたはずだ。
それが今頃琉球新報の「論壇」に亡霊のように掲載されるとは・・・。
<保守派・反左翼派の山崎氏に紙面を提供した本紙(新報)の良識に感謝する・・・>(3月30日付け琉球新報「論壇」 H・Y・ 66歳)
おやおや、新報は紙面を提供したことを今頃後悔していると思うがね。
琉球新報の記者は図書館にでも行って自分の目で検証する手間を惜しんだ。
そして琉球新報は、自社の記事を読んでこんな誤解をした読者HY氏(66歳)の意見を恥知らずにも掲載した。
「論壇」の見出しいわく、
<岩波訴訟、山崎論文の検証>
不可解な「巨魂」 「巨魁」
宜野湾市にお住まいのHY氏は某評論家のトンデモ論文とこれを掲載した琉球新報を頭から信じ込んでしまったようだ。
「論壇」本文は某評論家の文を引用しているが、引用文自体が巧みに曽野氏が誤字・誤読があったように印象操作している。
更なる誤解を生むのでので敢て某評論家の文には触れない。
この手の論争は「誰がこういった」、「某評論家先生がこういった」という言葉を引用するより自分の目で確かめるのが一番。
何よりも現物を自分の目で確かめて曽野氏の初版本には誤字も誤読も存在しないことを確かめるべきだろう。 少なくとも琉球新報の記者はこの労を怠るべきではなかった。
ちなみに筆者が2ヶ月前に確かめた浦添図書館には初版本は蔵書されている。
この幻の「誤字誤読事件」は過去の「事件」として一度書いた記事をボツにしていたが、今頃この事件の片棒を担いだ琉球新報が読者の誤解をまねくような記事を掲載するのでは、ボツネタを拾い上げ改めてエントリーせざるを得ない。
やれ、やれ難儀なことだ。
◇
マッチポンプとは「マッチで火をつけておきながら、それをポンプで消す」というように、自分でわざわざ問題を作り出しておきながら、そ知らぬ顔で、自分がそれに対する解決で賞賛を得たり、利益を得たりするあくどい自作自演の手法をいう。
火をつけるどころか、手元が狂って自分に火をつけた男がいる。
これは自作自演の「誤字事件」で自分に火が付き、それをけすため次から次へと喜劇を演じた男の物語である。
■喜劇第一幕 「曽野綾子誤字・誤読事件」
「曽野綾子誤読・誤字事件」というものがネット上を彷徨い、それにつられた琉球新報がこれに近づき三回にわたる連載を掲載した。
ところがこの「誤字事件」は元々実態のないもので、マッチで火遊びをした本人に火がつくに留まらず、火遊びに付き合った新聞社にさえ飛び火しかねない有様。
新聞の「誤字追求」をテーマにしたはずの「ご高説」掲載文が、追求する相手曽野氏の名前を「曽根」と誤記する大笑いネタまで紙面に晒すドタバタ劇。
しかもご丁寧に目立つ大見出しで「曽根氏」(注・誤記)と来たから笑いで涙まで出た。
「事件」の発端はこうだ。
過去に人気のあった絶版本を新しい出版社が読者の要望で再版した。
新しい出版社が原本版になかった誤植をした。 これを見つけた「売れない評論家」が狂喜乱舞して「曽野綾子誤読・誤字追求」を自分のブログでぶち上げた。
こんなネットの落書きのような話を曽野氏が見ているはずもなく、例え見たとしてもまともに答えるはずもない。
そもそも「事件」そのもの実体が存在しないのだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の1人相撲。
いや、風車を怪物に見間違えて猪突猛進したドンキホーテに例えた方が言い得ているのかもしれない。
だが捨てる神あれば拾う神、いや、紙があった。
曽野綾子を宿敵とする琉球新報である。
琉球新報は曽野綾子氏を執拗に追求する某評論家の「誤字事件」に飛びついた。
何の検証もなく紙面に某評論家の連載記事を掲載した。
その2月25日から27日に渡る某評論家の三回連載の「ご高説」の内容には敢て触れない。
ありもしない「誤字・誤読」を大上段に振りかざして追求するご本人の文で、相手の名を間違える一例を挙げただけでもその論のデタラメさが自明だから。
興味と暇のある方は琉球新報をご覧頂くとして三回連続の「ご高説」の見出しだけも記しておこう。
琉球新報朝刊
◆2月25日 文化面
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 上
曽野綾子氏の「ある神話の風景」(注:背景を誤記)
歴史記述は信用できず
◆2月26日
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 中
曽根氏の「現地取材万能主義」
客観性無視し結論ありき
◆2月27日
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 下
誤字・誤読を放置
思想的劣化は明らか
いやはや、これに目にした時思わずコーヒーを吹いて紙面を濡らしてしまった。
筆者のミスか編集者の誤植かは知るよしもないが、吉本喜劇も驚くばかりの良く出来たギャグである。
琉球新報もよっぽど追いつめられていたのか、とんだ喜劇の片棒を担がされてしまったようだ。
【追記】
友人から確かに面白い話だがコーヒーを吹いたというのはオーバーだろうとのコメントをもらった。
本文の中の誤字だったらまぁ大目に見たたとしても、大見出しでのド派手な誤字である。
「誤字事件」を追及する「評論」の大見出しが誤字で、おまけに「事件」そのものが幻だったとしたら、
コーヒーを吹いたといっても納得だろう。
縷々説明を聞いた友人、笑いのあまりコーヒーを吹いた上に、涎を垂れ流したと聞く(爆笑)。
【追記終了】
「幻の誤字・誤読事件」の実体を解明しておこう。
①昭和48年5月10日 「ある神話の背景」文芸春秋社刊
「沖縄ノート」の引用、「罪の巨塊」は正確に「塊」と引用されている。(259ページ)
②昭和59年6月18日「曽野綾子全集Ⅱ 第二巻」(「ある神話の背景」収録)読売新聞社刊
「沖縄ノート」の引用、「罪の巨塊」を「魂」と誤記。(354ページ)
③昭和62年6月15日、「ある神話の背景」PHP研究所
「沖縄ノート」の引用を読売新聞社版の誤字を引き継ぐ。(265ページ)
④2006年5月27日、「『集団自決』の真相(改題)」ワック
同じく読売新聞社版の誤字を受け継ぐ(296ページ)
確かに読売新聞社が犯した誤植を後の出版社が引き継いだ。
だが、曽野氏の初版本(昭和48年版)は正確に引用されており、誤字は曽野氏の責任ではなく、再版にした読売新聞社とそれを引き継いだ2出版社に責任はある。
だが裁判証拠に提出された初版本(文芸春秋社版)には何の誤植もなく裁判の論旨に何の関係もない。
裁判には何の関係もなくましてや著者の曽野氏には何の関係もない、後に再版した出版社の誤植を、針小棒大に取り上げた某評論家と、それを鵜呑みにして「曽野氏誤字・誤読事件」を特集記事にした琉球新報こそ風車に突進するドンキホーテとパンチョパンサではないか。
某評論家先生、舞い上がってしまい攻撃する相手を間違えたようだ。
攻撃するなら相手は最初に誤植をした読売新聞社ですよ!
なお雑誌『SAPIO』の誤植は対談であり「魁」も「塊」も発音は「かい」であり、これも曽野氏の問題と言うより雑誌編集者の責任だろう。
対談の相手の池田信夫氏と某評論家とのやり取りは次のエントリーに詳しい。
佐藤優の「丸投げ評論」(関連記事は後半にあります)
某評論家のご高説はともかく、
新報さん、事件は現場で起きているのですよ!
図書館にでも行って自分の目で確かめては?
「事件」は幻ですよ、新報さん!
【追記】
これもボツネタだったが、2ヶ月前図書館に行ったとき曽野綾子氏の初版本に切り貼りされていた新聞切り抜きを写したもの。
これを「拾遺集」として以下に記す。
日付は1973年7月23日の琉球新報らしき新聞書評。
らしき、というのは新聞名が記されていないが、沖縄タイムスなら自社出版物を批判した書物の書評をこのように好意的に紹介するはずはない。
初版出版当時は沖縄論壇も琉球大学の仲地教授を始め曽野氏の労作を評価する地元学者も多く、琉球新報がこのような好意的書評を掲載してもおかしくはなかった。
その意味で初版本に切り貼りされて「書評」はこの本の評価を巡る貴重な歴史資料でもある。
以下浦添図書館蔵の「ある神話の背景」に切り貼りされていた新聞「書評」(1971年7月23日付け)
「ある神話の背景」(文芸春秋社) 曽野綾子著
これは小説ではないがかつて戦争末期に行われた沖縄戦での集団自決に新しい角度から照明を与えた問題の書である。
通説によれば、当時その方面での軍の指導者であった赤松大尉が島民に自決を命じたということになっている。
この説は戦争にあらわれたもので、軍隊批判の一つの根拠をなしていた。 ところが曽野綾子は、現地での調査や戦記の盲点をつく作業によって、集団自決に行きついた人々の状態を、かなり程度に復元した。
当時現場に関係していた人々がなぜ、真相を語りたがらないのか。
その理由の一つは、軍の命令なしで自決したとなると、遺族への年金がストップするので、そういう生活上の問題も絡んでいるという。
もちろん、曽野綾子は格別の政治的目的をもってこの事件にとり組んだわけではない。
著者の立場が、人間の生死とその孤独という問題に支えられていることは、最後まで読めばはっきりしていることである。
◇
約四十年前の琉球新報の記者がこの書評を書いていたとしたら、現在の新報記者とその資質の差は歴然とするだろう。
もちろん書評筆者は後にこの「本」が火付け役となって訴訟が起きるなんて当時は夢想だにしなかっただろう。
それだけに素直に偏らずに本の本質を語っている。
「当時の通説」が「軍の指導者であった赤松大尉が島民に自決を命じたということになっている」となっているのが、裁判では「命令」が「関与」に摩り替えられるとはこの筆者は考えてもいなかっただろう。
四十年前の新聞社の論調を知る上で貴重な資料だと思う。
今の琉球新報ならトンデモ本扱いだろうが。(笑)
【おまけ】2008年5月10日
くだんの「売れない評論家」先生、琉球新報に自論が掲載されたのに気を良くしたのか、琉球新報に次の原稿が掲載されると掲載予定日まで明示して(4月11日)、長い間自分ブログで告知していた。
・・・が、待てど暮らせどお呼びがかからなかったの、アレから丁度一ヶ月経過した現在、琉球新報に「売れない評論家」の名を二度と見る事はない。
慌ててカスを掴んだ琉球新報、反省したのだろうか。
もっとも時々、琉球新報「声」欄の投稿で、あんなエライ先生の論文をもっと掲載して欲しい云々の投稿があるが・・・。
こんなのもあった。
琉球新報「声」欄:
「山崎論考に共感」 T・K・ (55歳 会社員 東京都)
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