狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

メチル禍もコロナ禍も日本軍の責任?

2022-08-09 15:10:34 | 政治

 

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何があっても故安倍首相のせいだとする「アベガー」と叫ぶのは日本のサヨクメディア。

沖縄では、ジュゴン、サンゴの絶滅、いやヤンバルクイナやウミガメの減少も「米軍ガ―」と叫ぶ地元マスコミ。

ところが、戦時中の事となると、何でもかんでも「日本軍ガ―」と日本軍のせいにする。

まさか、メチル禍も残虐非道な日本軍の責任とは・・・・

メチル禍も日本軍の責任? <史実封殺>届かぬ沖縄の心 1

2007-07-06 11:47:21 | 未分類

活字離れと言われ出してから久しい。

昔の学生は本を読むのが本分で、♪ 友を選ばば書を読みて・・♪と唄にも詠われていた。

最近の大学生は書は読まず、マンガやアニメでこれに代えると聞く。

我が家にも大学生が一人いるが、ご多聞に漏れず新聞はテレビ欄とスポーツ面で充分らしい。

となると、当日記が地元新聞の偏向ぶりにムキになるのも杞憂とも思われるが。

その点、敵もサルもの引っかくもの。

記事は読まれなくとも「見出し」で勝負をかけてくる。

たかが新聞、されど新聞だ。

 

さて、今日から始まった琉球新報の連載特集の第一回目。

この特集の説明は次のように記されている。

教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」の日本軍の強制の記述が修正・削除された件で、県代表団の撤回要求が“門前払い”された。

沖縄戦の史実の歪曲が踏みにじられた。 各界の関係者に自らの体験を交えて語ってもらうという。

社会面トップを飾る大げさな見出しは・・・。

<史実封殺> ーーーー届かぬ沖縄の心 1


戦後命絶った父

家族裂く戦  歪曲許さぬ

 

その第一回目だが、まがまがしい見出しとともに、写真入で小渡ハル子さん(76歳・県婦連会長)の証言を紹介している。

紙面構成からは日本軍の残虐性に対する証言者の怒りが滲み出している。

だがよく読んでみると、・・・。

「終戦後 命を絶った父」・・・父君は戦時中は神奈川に在住し、沖縄戦とは直接関わってはいない。

増してや「命を絶った」のは、敗戦後の日本で流行した「メチル禍」(★下記解説)が原因であり、これも日本軍の残虐性とは全く関係ない。

新報記事では次のように記されている。

・・・終戦後の46年2月。 神奈川で「沖縄は玉砕した」と友人から聞かされた父は、沖縄にいる全てを失ったと思い込み、友人とメチルアルコールを飲み、自らの命を絶った。>

「自らの命を絶った」という見出しとは如何しても重ならない。

「家族裂く」・・・も偶々運悪く、父君一人を神奈川に残して一家で里帰りした為、結果的に家族が引き裂かれる不運にあったわけで、これも日本軍の残虐性とは無関係。

 「歪曲許さぬ」・・・も、証言者は何一つ「日本軍の残虐性」を証明する証言をしていない。

にも関わらず、記事は最後は次のような小渡ハル子さんの怒りの言葉で結ばれている。

<「これでは『集団自決』した人たちが浮かばれない。母親集団として、検定意見を絶対に撤回させる。何度でも何度でも撤回するまでやる」と語気を強めた。今後県民大会が開かれれば、要請団の一人として文科省に出向き、多くの沖縄戦証言資料を沖縄の資料を突きつけるつもりだ。>

次々と新たに登場する年老いた証言者たちは、「教科書検定意見が集団自決そのものを否定・削除している」とでも思い込まされているのでしょう。

お気の毒に。

★メチル禍http://yabusaka.moo.jp/kai1945.htm

・・・日本では終戦直後から軍が放出したものが闇市場に流れ、猛毒性を知りながらメチル入り酒の販売が行なわれていた。そのため1年間で、報告されただけでも2000件のメチル禍が起こっており、1500人以上が死亡するという大惨禍をひき起こしていた。1946年になってもメチル入り酒は野放し状態で、死亡者はさらに急増した。46年1月から9月までの総被害者439名中292名(70%)が死亡、60名(13%)が失明したため警視庁では警鐘を鳴らす談話を発表した。ちなみに失明することから「目散るアルコール」とも言われていた。
 こうしたメチルアルコール中毒死事件は戦後の混乱期に多発したが、人々の暮らしが落ちついてくるとともになくなっていった。
 また同様の中毒死事件は04年5月に中国・広州でも起こっている。その後の捜査でやはりメチル入りの偽造酒が押収された。

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手りゅう弾軍命説の破綻、日本兵に手りゅう弾渡す、 [戦後76年]秘した沖縄戦 

2022-08-09 10:45:38 | 資料保管庫

 

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沖縄タイムス紙面掲載記事

[戦後76年]秘した沖縄戦 今こそ 渡口彦信さん(94)読谷村

2021年6月22日 05:00有料

 【読谷】県内外で沖縄戦体験を語ってきた読谷村の渡口彦信さん(94)は21日、本紙の取材で、自責の念に駆られてこれまで語ってこなかった戦争体験を明かした。旧日本軍の同じ部隊の負傷兵に手りゅう弾を渡したこと、水を求めて懇願する女性の前を素通りしたこと。「人が人でなくなる戦争は二度としてはいけない」と言葉をつなぐ。

 1945年3月、当時18歳の渡口さんは高射砲隊に配属され、戦地で砲弾運びや水くみをしていた。米軍の機銃掃射や艦砲射撃などの攻撃に、上官や兵士が次々と死傷した。

 同じ隊員で奄美大島出身の桜田1等兵もけがを負った。「ほぼ毎夜、別の壕にいる彼におにぎり一つ渡しに行って元気づけた」。ある日、上官から命じられ、おにぎりの代わりに手りゅう弾を渡した。「自決用の手りゅう弾。渡す時はお互い、何も言わなかった」

 圧倒的な米軍の戦力を目の当たりにし、皆死ぬと思っていた。皇民化教育で「国のために死ぬもの」と信じ込んでいた。

 「私だけ生き残ってしまった」。胸につかえる思いを抱えながら、65年に奄美大島で桜田さんの兄弟を捜して訪ね、桜田さんの戦死を知った。自決したかどうかは定かではないが、遺族には「何と言っていいか分からなかった」。

 腰に水筒を掛けながら本島南部へ後退する道中、「水を下さい」と手を差し伸べてきた女性も忘れられない。視線は合ったが、そのまま通り過ぎた。なぜ、あのとき水を分けなかったのか。南部の道を通ると、女性のか細い声が聞こえてくるような気がする。

 戦後76年を迎え、戦争体験を語れる人が減る中、風化を懸念する渡口さん。生き残った者の宿命として「地獄よりひどい戦争を、後世に伝えていく」と誓った。(中部報道部・宮里美紀)

(写図説明)これまで語ってこなかった沖縄戦体験を語る渡口彦信さん=21日、読谷村内の自宅

                 ★

「手りゅう弾軍命説」の破綻!兵事主任富山真順の悲しい嘘2008-03-27

悲劇の日、「集団自決」犠牲者に史実継承誓う/座間味

 「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
 集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。

 裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。

 被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。

 最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。

                                                ◇

判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。

タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。

「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。

大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない

そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。

 

裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。

これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。

その結果出てきたのが、「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。

これでは話にならない。

そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」

「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。

この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。

だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
   
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。

3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
  ※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
   『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
    《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
   「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
    しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面http://osj.jugem.jp/?eid=28

                     ◇

このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。

「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。

源氏は、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。

年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。

「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」

以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。 

「論壇」

「真実」は消せない  軍命による集団自決

源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)

(前略)

住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。 
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷部落の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)

 

わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。

富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ

という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。

戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝氏もこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあった。

その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。

富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。

 

「真実」は墓の中まで 「虚偽」と「真実」の戦い 「集団自決」訴訟2007-09-09 

「軍強制」を証言へ 廷岩波「集団自決」訴訟  

 沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
 原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
 金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
 9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。

(琉球新報 9/9 9:51)

                     ◇

大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。 

この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。

これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。

                    

出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。

2007年4月1日付の「筆洗」より。

東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)

以下引用。

 六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。

(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」)

                     ◇

偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。

その該当部分を抜粋次に引用する。

≪・・・戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。

②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)

長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。

戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。

奥茂治氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。

>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。

しかし、当時16歳の金城重明氏は「手りゅう弾は貰っていない」と証言している。 そのため二つ歳上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。

手榴弾を貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。

当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。

だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。

源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。

富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。

計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。

してみると源哲夫氏の「論壇」の、「真実」は消せない 軍命による集団自決というタイトルが妙に意味深に思える

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手りゅう弾軍命説の破綻、富山眞順氏の本音 ミニコミ誌で吐露  愚者の楽園

2022-08-09 07:33:12 | 資料保管庫

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 

沖縄戦と米軍のジェノサイド

■「東京裁判」と『鉄の暴風』の共通点

本章に入る前に「東京裁判」と『鉄の暴風』との関係について述べておかねばならない。しかし、戦勝国が敗戦国を戦時国際法で裁く「東京裁判」と、敗戦国日本の一地域である沖縄、それも離島で起きた事件に言及した『鉄の暴風』を関連付けるのは、いささか強引すぎるという意見もあるだろう。

ところが、両者には二つの大きな類似点がある。

先ず第一に両者はGHQ最高司令官マッカーサーの強大な支配下の下に行われた。 次に両者は最初から結論ありきの「残虐非道な日本軍」を断罪する目的で行われた。

「東京裁判」とマッカーサーの関係については数多くの研究書があるので、ここでは省略して、『鉄の暴風』とマッカーサーの関係について検証して見よう。

■マッカーサーが介入した『鉄の暴風』

『鉄の暴風』の発刊は、現地沖縄の米軍司令官の企画というより、沖縄の米軍を支配する上部組織の指示であったという証拠を挙げてみよう。

 例えば、『鉄の暴風』出版当時の沖縄タイムス紙は、日刊2頁建月ぎめ30円である。先発のうるま新報と違い、ほとんど自己資本が無かった沖縄タイムス社が、一冊200円売りの新書を初版からいきなり、20,000冊(朝日新聞社と各1万)を製作した。また、本土で調達してきた印刷資材の値段は、800万円の輪転機の他、平板印刷機、オフセット版、ジンク版、鋳造機、母型、等々、到底当時の沖縄タイムス社が調達出来る金額ではない。さらに、沖縄タイムスが当初紙や資金不足のため『鉄の暴風』の初版出版を朝日新聞に持ち込み断られたが、沖縄タイムスの座安専務がマッカーサーと面談し、出版に難渋していると訴えたところ、朝日新聞が出版を了承した。

 朝日の掌返しの出版協力の裏に、電話一本で済むマッカーサーの強力な介入があった。 

GHQの介入を示唆した決定的な新聞報道がある。これは、1950年6月5日付けの沖縄新民報(B)面の記事だ。原文のまま紹介しよう。

 ・・沖縄戦記〃鉄の暴風〃 沖縄タイムス社が沖縄戦の、なまなましい記録をひろいあつめたもの、―― 人間生死の血みどろな戦史として綴られ、万人に平和の尊さを説く、得がたき快著であり原稿は同社座安理事が空路携行し、朝日新聞出版局長嘉冶隆一氏が渡米にさきだち、親しく目を通し同社杉山出版部長山中刊行部長や杉山業務部次長等が協力してその筋と出版うちあわせ中であり、諸般の準備を整えて朝日新聞社から7月初頭堂々と出版される筈である、B6版三百頁を予定され、・・・。

 文中のその筋とは当時のGHQを指す隠語である。同様の隠語には、「関係各方面」などがある。『鉄の暴風』が発売される前日の1950年8月14日付け沖縄タイム紙には、同書が出来上がるまでの経緯を座談会で語り合っている記事がある。そこには、座安氏のコメントとして、GHQとの関わりを推認できる次のような表現がある。

それで朝日社が、一万、こちらから一万と話も決まったわけですが今頃出版パニックでせいぜい売れる本が二、三千だと嘉冶出版局長や杉山出版部長もはなしていました、・・中略・・鉄の暴風出版に当たっては種種各方面の援助もあり、有り難く思っている次第です・・。

 当時は、沖縄県でも本土でもまだまだ紙が自由に手に入らない時に、「『せいぜい売れる本が二、三千だ』ましてや今では売れない戦記ものは」と朝日新聞の役員が出版を断ろうとしていたのが、わずか一週間で、下へも置かぬ対応振りで、二万冊やりましょうと変わってしまった訳だから、何処からか「やれ!金は出す」と圧力がかかったと見る以外に解釈のしようは無く、この時代で、このようなことが可能なのは、マッカーサーの介入以外にはあり得ないことである

沖縄の集団自決問題は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』に端を発する。著者の太田良博記者は、那覇から目と鼻の先の慶良間諸島には一度も取材に行かず、伝聞と噂を物語風に書いたのが『鉄の暴風』である。

問題はその伝聞記事を根拠にノーベル賞作家大江健三郎が自著『沖縄ノート』で、名指しこそしていないが、赤松嘉次、梅澤裕両隊長を島民に自決命令を下した極悪人であるかのように描き、両隊長の名誉を著しく棄損した。

そこで梅澤氏と赤松氏の実弟が大江氏らを相手に大江岩波訴訟を提訴したが、軍命の立証は出来ぬまま、大江氏らの名誉棄損は免責され、残念ながら大江氏ら被告の勝訴が確定した。

■「軍命」に対する反証は悪魔の証明

裁判で争われた「軍命の有無」に関し、挙証責任は「軍命はある」と主張する被告大江岩波側にある。

「軍命は無かった」という証明は、原告側にとっては立証は不可能である。「悪魔の証明」と言われる通り、反証は不可能だから。

ちなみに曽野綾子氏の現地聞き取り調査では「軍命があった」という証言は一件もなかった。地元の作家星雅彦氏の現地調査でも「軍命があった」という証言はなかった。・・・続きを読む⇒沖縄戦と米軍のジェノサイド

 

 

 

富山眞順氏の本音 ミニコミ誌で吐露  愚者の楽園

2009-08-31

前稿で、那覇空港で繰り広げられた「赤松隊長vs渡嘉敷村民」という憎悪とウソの構図を紹介した。 

その時、赤松元隊長を空港に出迎えに来ていた玉井喜八渡嘉敷村長が、村内のミニコミ誌に書いていた。こう書いていた。

「赤松隊長が慰霊祭に参加できなかったのは残念だった。 村民と赤松隊員との信頼関係が出来たのは良かった」

同時に「手榴弾証言」で有名な富山眞順氏も別のミニコミ誌に、手記を寄稿していた。

複数の知人からその手記を紹介して欲しいとの要望があった。その手記は次のエントリーで紹介済みであるが、同エントリーを一部編集して再掲する。

続・強制された富山証言 もう一つの富山眞順手記

戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。

地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせる憎悪のシーンであり、このような歪んだ対立構図があってこそ報道価値がある。

「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではない。

京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。

「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

 『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

渡嘉敷港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。

星雅彦氏は、1970年3月27日の渡嘉敷港でおそらくはこれと同じような光景を目撃して、「軍命はなかった」という確信を持ったのだろう。

                                    ◇

富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。

マスコミの呪縛を解かれた富山氏のミニコミに託した「本音」を読み取ってみよう。

同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係」で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。

                     ◇

富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行) ※(29日)等()書きは引用者が挿入

 略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
 私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。(略)
 暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
 赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
 赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません
…以下省略

                     ◇

この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。

いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。

富山氏と赤松隊長の関係は、後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。

吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。

なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明

更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。

 ⇒続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。
 
                                                 ◇

【おまけ】

原告準備書面(4)全文2006年9月1日

3 手榴弾配布=軍命令説の破綻

渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の3月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。

富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。

被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。

同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。

米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。


関連エントリー:

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

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コメント (1)

感染対策「優良県」3知事が専門家の“コロナ愚策”をバッサリ!尾身会長に「まず反省の弁を」

2022-08-09 06:40:09 | 政治

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
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  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 

沖縄戦と米軍のジェノサイド

■「東京裁判」と『鉄の暴風』の共通点

本章に入る前に「東京裁判」と『鉄の暴風』との関係について述べておかねばならない。しかし、戦勝国が敗戦国を戦時国際法で裁く「東京裁判」と、敗戦国日本の一地域である沖縄、それも離島で起きた事件に言及した『鉄の暴風』を関連付けるのは、いささか強引すぎるという意見もあるだろう。

ところが、両者には二つの大きな類似点がある。

先ず第一に両者はGHQ最高司令官マッカーサーの強大な支配下の下に行われた。 次に両者は最初から結論ありきの「残虐非道な日本軍」を断罪する目的で行われた。

「東京裁判」とマッカーサーの関係については数多くの研究書があるので、ここでは省略して、『鉄の暴風』とマッカーサーの関係について検証して見よう。

■マッカーサーが介入した『鉄の暴風』

『鉄の暴風』の発刊は、現地沖縄の米軍司令官の企画というより、沖縄の米軍を支配する上部組織の指示であったという証拠を挙げてみよう。

 例えば、『鉄の暴風』出版当時の沖縄タイムス紙は、日刊2頁建月ぎめ30円である。先発のうるま新報と違い、ほとんど自己資本が無かった沖縄タイムス社が、一冊200円売りの新書を初版からいきなり、20,000冊(朝日新聞社と各1万)を製作した。また、本土で調達してきた印刷資材の値段は、800万円の輪転機の他、平板印刷機、オフセット版、ジンク版、鋳造機、母型、等々、到底当時の沖縄タイムス社が調達出来る金額ではない。さらに、沖縄タイムスが当初紙や資金不足のため『鉄の暴風』の初版出版を朝日新聞に持ち込み断られたが、沖縄タイムスの座安専務がマッカーサーと面談し、出版に難渋していると訴えたところ、朝日新聞が出版を了承した。

 朝日の掌返しの出版協力の裏に、電話一本で済むマッカーサーの強力な介入があった。 

GHQの介入を示唆した決定的な新聞報道がある。これは、1950年6月5日付けの沖縄新民報(B)面の記事だ。原文のまま紹介しよう。

 ・・沖縄戦記〃鉄の暴風〃 沖縄タイムス社が沖縄戦の、なまなましい記録をひろいあつめたもの、―― 人間生死の血みどろな戦史として綴られ、万人に平和の尊さを説く、得がたき快著であり原稿は同社座安理事が空路携行し、朝日新聞出版局長嘉冶隆一氏が渡米にさきだち、親しく目を通し同社杉山出版部長山中刊行部長や杉山業務部次長等が協力してその筋と出版うちあわせ中であり、諸般の準備を整えて朝日新聞社から7月初頭堂々と出版される筈である、B6版三百頁を予定され、・・・。

 文中のその筋とは当時のGHQを指す隠語である。同様の隠語には、「関係各方面」などがある。『鉄の暴風』が発売される前日の1950年8月14日付け沖縄タイム紙には、同書が出来上がるまでの経緯を座談会で語り合っている記事がある。そこには、座安氏のコメントとして、GHQとの関わりを推認できる次のような表現がある。

それで朝日社が、一万、こちらから一万と話も決まったわけですが今頃出版パニックでせいぜい売れる本が二、三千だと嘉冶出版局長や杉山出版部長もはなしていました、・・中略・・鉄の暴風出版に当たっては種種各方面の援助もあり、有り難く思っている次第です・・。

 当時は、沖縄県でも本土でもまだまだ紙が自由に手に入らない時に、「『せいぜい売れる本が二、三千だ』ましてや今では売れない戦記ものは」と朝日新聞の役員が出版を断ろうとしていたのが、わずか一週間で、下へも置かぬ対応振りで、二万冊やりましょうと変わってしまった訳だから、何処からか「やれ!金は出す」と圧力がかかったと見る以外に解釈のしようは無く、この時代で、このようなことが可能なのは、マッカーサーの介入以外にはあり得ないことである

沖縄の集団自決問題は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』に端を発する。著者の太田良博記者は、那覇から目と鼻の先の慶良間諸島には一度も取材に行かず、伝聞と噂を物語風に書いたのが『鉄の暴風』である。

問題はその伝聞記事を根拠にノーベル賞作家大江健三郎が自著『沖縄ノート』で、名指しこそしていないが、赤松嘉次、梅澤裕両隊長を島民に自決命令を下した極悪人であるかのように描き、両隊長の名誉を著しく棄損した。

そこで梅澤氏と赤松氏の実弟が大江氏らを相手に大江岩波訴訟を提訴したが、軍命の立証は出来ぬまま、大江氏らの名誉棄損は免責され、残念ながら大江氏ら被告の勝訴が確定した。

■「軍命」に対する反証は悪魔の証明

裁判で争われた「軍命の有無」に関し、挙証責任は「軍命はある」と主張する被告大江岩波側にある。

「軍命は無かった」という証明は、原告側にとっては立証は不可能である。「悪魔の証明」と言われる通り、反証は不可能だから。

ちなみに曽野綾子氏の現地聞き取り調査では「軍命があった」という証言は一件もなかった。地元の作家星雅彦氏の現地調査でも「軍命があった」という証言はなかった。・・・続きを読む⇒沖縄戦と米軍のジェノサイド

 

 

感染対策「優良県」3知事が専門家の“コロナ愚策”をバッサリ!尾身会長に「まず反省の弁を」

配信

日刊ゲンダイDIGITAL

説得力のある正論


翼あるもの12時間前
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専門委員会は医学的見地からの政府への助言だけでいいと思う。だから他の分野や予算が足りないとかの他の条件は考慮しなくても良い。医療機関がひっ迫しているからと軽度なら受診しなくても良いなどと医者がいうことではない!軽度でも受診する様に。しないと重症の恐れがあると言うべき。専門委の役割は感染拡大の阻止とコロナの予防と治療のための施策を助言すれば良い。医療崩壊の対策は政府が決めれば良いので感染治療の助言だけで良い!


msn*****12時間前
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鳥取県や和歌山県をコロナ優良県というのはともかく島根県を優良県というのはチョット違うのでは。少なくとも一時は感染者率がかなり高かった。
そもそも対策が良いから結果が良い、とは言えないのではないかと思う。
少なくとも半年ほど前までで言えば日本の感染状況はヨーロッパや南北アメリカより良かったが、それが日本の対策が良かったからか、かなり疑問である。
対策の良し悪しを超えた要因がある、とみた方が素直な見方だと思う。


mik*****13時間前
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>発症時にかかりつけ医に相談し、診断や検査を受けることを呼び掛け、「それが早期治療につながり、重症化を防ぐ」と強調した

これに尽きると思う。

無症状陽性を選り分け濃厚接触で隔離する、そんなん少なくとも現株に効果ないのは明白。
症状ある人が普通に迅速に対処受けれること、つまり過剰な警戒の引き下げ・解除、それが大事。

的外れな対策と、それによって醸成された風潮のせいで、かえって命や健康が脅かされ、さらにたくさんの仕事や夢も無駄に犠牲になった。
これまでの対策の事後検証をちゃんと行い、間違っていたなら反省を表明し、指定内容を至急見直し、感染自体が悪では無いことを強く発信して、狂ってしまった風潮を正すことに全力をあげてほしい。


pu*****13時間前
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分科会は常に総理の傍に居て助言を行う組織では無い。政府から招集を受けて分科会は開催される。

また尾身氏や分科会の感染症専門家の意見がストレートに政府の施策に反映される訳では無い。分科会にも経済分野の専門家はいるし、政府も感染症に加え経済の事も考えバランスを取りながら方針を決定している。

分科会の提言先は岸田総理となっているが、尾身氏個人が感染症専門家として別の意見があったとしても分科会の会長が提言するのは分科会の中で合意が成されたモノに限られる。

先日の濃厚接触者の待機期間7日間→5日間への短縮の件に関しては、感染症専門家は議論の途中だったにもか拘わらず政府の判断で決定されたとしていた。

コロナ禍最初期の専門家会議が主導していた頃とは違う。そもそも、それを解散し分科会と改めたのは政府主導の体制にする為でもある。


spe*****12時間前
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この3知事はよく頑張ってるし悪く言うつもりはないが、3県は比較的人口や人口密度の低い県なので、東京や大阪と同じようには語れないと思う。3知事が言ってることもよく分かる。ただ、マスコミは、この3県の対策があたかも成功例のようにとりあげるのはいかがなものかと。見習うべきところは見習わないといけないが、都市部でも同じ手法が全て成功するかは分からないと思う。

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son*****
son*****11時間前
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いやいや正しい助言ですよ。感染力がほどほどで毒性が強かった初期段階では、生活制限を強めてワクチン接種に精を出しました。東京五輪には苦言を呈しました。1波から5波は、感染力はほどほどで毒性は非常に強かったから、あれで良いのです。6波から7波は、風向きが変わったのです。感染力が強大で、毒性は弱まったのです。それでも感染者数が多いから、総合的に同じように感じるでしょうが、内容は変わったのです。軽症の方が圧倒的に多くなり、その方達が重症の方達の治療の妨げになって来たのです。だから提言をしたのでしょう。もちろん軽症の人達の中から突然重症化する方もいますし、これから高齢者の感染者が増えますから、それは不幸な転機を取る方も出ます。しかしそれでは全体が乗り切れないから、注意点も加えて提言しているわけです。よくよく内容を吟味して、誤解の無いようにすべきです。


sao*****14時間前
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厚労省官僚が国会答弁などで都合が良いような情報を得る為にハーシスに詳細な情報の書き込みを求めたから保健所の負担が増えてパンクしたんだよ。各都道府県のカルテ情報を一括管理すれば入力情報から一発で感染者の状況が把握出来たはず。これに加えてPCR検査や抗原情報も保険証番号と紐付けされていたら最新の感染者数も把握出来たはずだ。コロナ感染者の全体像が見えていないから愚策しか思い付かないんだろう。これを糧に医療情報システムを再構築すべきだ。


hig*****12時間前
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分科会は意見を求められて提言を出していたが、医療業界への考慮を含む内容を優先していたとの疑念持ちます。政府は提言に経済の状況次第で手を付けたが様子見と業界調整に時間がかかり、先手先手となった施策はひとつもなかった。医療現場の対応はバラバラでもあり打った施策の分析評価をしないままで次の波を迎えることの繰り返しをしていたといえる。ず〜っと健康な暮らしをしてきた人に、かかりつけ医に相談してからでないと検査をしない、と言われてもどうしたら良いのかわからないのが多くの人であることすら思いを馳せないような施策ばかりである。ワクチン接種は効果があったのだろうと思う。。多数の国民による危険からの回避を優先する習性が感染の波が現れると行動自制として働き波を抑える機能となっていただけだと思っています。

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hero19531113時間前
非表示・報告
年齢に拘わらず、基礎疾患がある無しに拘わらず、軽症のうちに治療を受けるか薬の服用により、早期快復をしてもらうのが一番良いに決まっている。それ等の人々が企業戦士ならば、尚更優先して普通の生活に戻ってもらう、即ち経済を回してもらうのが、対策の基本だろう。だから早期発見、早期治療は経済回復の為の戦略となる。中でも37.5度以上4日間の縛りは、一番酷い提言だ。1日目に手当てを受ければ、体質によるがBA.5ならば2日目には快復に向かう可能性がある。ワクチンの効果が残っていれば、その可能性は高いだろう。医療機関の逼迫は分かるが、簡単に治せる可能性を否定するのは本末転倒だ。悪循環に陥るだろうし、敗北宣言に等しい。鳥取県知事の提言は的を得ていると思うが、掛かり付け医のいない人間は困る。発症した人間は皆平等に扱って欲しい。新たな相談センターの開設は無理だろうか。

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