狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★ 陸軍の3人の「A級戦犯」と台北会議、ペーパーテスト至上主義の生み出した陸軍の狂気

2022-08-23 09:04:29 | 政治

ペーパーテスト至上主義の生み出した陸軍の狂気

辻政信の真実 ~失踪60年--伝説の作戦参謀の謎を追う~(小学館新書)
大学入試を「人物重視」にしようという話がよくあるが、日本が近代化に成功した大きな原因はペーパーテストである。明治の元勲は、自分の子にその地位を世襲させなかった。伊藤博文の子も山県有朋の子も、政権には入らなかった。これは彼らが下級武士からの成り上がりで、世襲制度の不公平を実感していたからだろう。

このため帝国大学も高等文官も陸軍士官学校も、試験だけで選抜する厳格な客観テストを採用したので、人材が流動化した。特に陸士は学費が無料だったので、貧乏人の頭のいい子が入学したが、彼らは強い上昇志向と暗記力をもっていたため、日本軍の暴走する原因となった
 

その失敗例が、陸軍最悪の愚将として有名な辻政信である。彼は石川県の山奥の炭焼きの子として生まれた。炭焼きは農地をもたない極貧の職業で、子供のころはガリガリにやせていたという。

だが小学校では優秀な成績だったので、教師のすすめで名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。これは当時としては異例だったが、辻は首席で卒業した。東京の陸士も首席で卒業し、陸大は3位で卒業した。これで彼の出世は約束され、関東軍に赴任した。
 
                 ★
 
彼らは強い上昇志向と暗記力をもっていた
 
現在の官僚と軍人の秀才の違いは背広を着ているか軍服を着ているかの違いだけである。

台湾慰霊の旅を機会に、沖縄戦と台湾、そして「台北会議」について考えてみた。

筆者がしばしば引用する名言に「事件は現場で起きている。会議室で起きているのではない」という青島刑事がテレビドラマで叫ぶコメントがある。

戦時中の大本営にはペーパーテストで優秀な偏差値秀才が現場の戦場を無視し机上の空論で日本を敗戦に導いていった例が多数ある。

偏差値秀才が日本の針路を過つのは現在の財務官僚と言われているが、戦時中の秀才軍人は、軍服を着た官僚と言われていた。

5年前台湾慰霊の旅をしたとき、台湾会議に沖縄第32軍の参謀を呼びつけ、沖縄戦を窮地に追い込んだ服部卓四郎のことを回想して見た。

★ 陸軍の3人の「A級戦犯」と台北会議 2017-12-06

 

太平洋戦争(大東亜戦争)は、軍服を着た官僚と言われる佐官級の優等生の作戦で主導したといわれる。

台湾最南端のバシー海峡の荒波を目前にし、はるかに望むフィリピン諸島を眺めたとき、偏差値秀才服部卓四朗の名が脳裏を過った。

 

服部卓四郎を瀬島龍三、辻正信と並べて日本陸軍の三大A級戦犯と呼ぶ人がいる。 

瀬島は、作家の山崎豊子の著『不毛地帯』で極端に美化して描かれており、戦後伊藤忠に入社し、副社長にまで登りつめ、中曽根康弘の顧問を務めるなど社会的に著名な人物。

辻は、戦後バンコックにいたが僧侶に身をやつして各地を逃げ回った。48年戦犯が解除されるや日本に帰り、衆参議員に当選した。61年出国したがラオスで行方不明になり、波乱万丈の一生が新聞ダネとなった。

この三人に共通するのはいずれも士官学校、陸軍大学校では優等生であり、作戦の中枢部にいた「優秀な」若手佐官であること。

後に沖縄戦の作戦に関与する服部卓四郎は、開戦直前に起きたノモンハン事件の作戦責任者で、戦線拡大の強硬派であった。

ノモンハン事件とは、1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件のこと。

結果は,日本軍の惨敗に終った。

ノモンハンは満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。

5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。

8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。

 

服部と辻はノモンハン事件のときの関東軍の作戦主任と作戦参謀、彼らは、ソ連軍の武器の質と量で大敗北を喫したがその反省は全くなかった。 新知識を否定し、近代兵器よりも38式歩兵銃しか持たぬ歩兵に頼り、敗戦の責任を前線の指揮官に押し付けた。

 

2人はノモンハンの敗戦後、しばらく閑職にいたが1941年3月末までに東京の陸軍参謀本部に栄転する。

 

日米開戦時、服部は作戦課長、敗戦時は部長、辻は開戦時、参謀本部作戦班長だった。
 
服部卓四郎
 
そしてフィリピン・レイテの敗北やサイパン陥落を受け、服部は作戦指導のためフィリピン、台湾へ出張。
 
沖縄防衛のため訓練中の第32軍に電報を打ち、八原博通32軍高級参謀を「台北会議」に呼びつける。
 
服部は米軍が攻撃するのは沖縄の前に台湾と判断し、沖縄防衛の最強の兵団8師団を台湾へ引き抜くことを決定する。
 
この服部の判断ミスが、台湾上陸を避け沖縄上陸を図った米軍により「鉄の暴風」の悲劇が生じることになる。
 
つまり日米開戦直前のノモンハン事件惨敗の責任者である服部卓四郎がその責任を取ることなく大本営参謀の中枢に栄転したのが沖縄戦の悲劇の始まりだった。
 
服部は、終戦間際の沖縄で、沖縄防衛軍の三分の一に及ぶ最強軍団を台湾に引き抜くという間違った判断で、沖縄戦の悲劇を招いた。
 

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朝日の捏造だった皇居前の号泣写真、終戦の日

2022-08-23 07:29:25 | マスコミ批判

 

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

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※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 

朝日の捏造だった皇居前の号泣写真、終戦の日

2010-08-14 07:20:39 | 歴史

 

朝日新聞が捏造したウソの記事が、後にそれがウソであることが論証されても「歴史」として一人歩きする。

捏造報道が歴史になる例は「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」等など枚挙に暇が無いほどである。

捏造記事の帝王とも言える朝日新聞の子会社テレビ朝日が「8月15日の捏造写真を暴く」と大上段に構えてはみたが、それが親会社のブーメランとなるオソマツ劇だったとは、とんだ大笑いである。

コメンテーターの 山口一臣さん、あなたは、朝日のOBでしょうが。

昨日(13日)のテレ朝「スーパーモーニング」は、「終戦は本当に8月15日だったのか、その真相に迫った」と題する終戦特集番組を組んだ。

6月15日の玉音放送に聞き入りながら号泣する国民の写真。 終戦の象徴ともいえる心に迫る有名な光景である。

ところが、「スーパーモーニング」によると、それがねつ造だった可能性があるというのだ。

番組は昭和20年8月15日付「北海道新聞」に掲載された「玉音放送に、頭を垂れて聴き入る坊主頭の子供の写真」から本人を付きとめ、カメラマンに頼まれ意味も分からないまま写真のようなポーズを取ったいう証言を引き出している。

8月15日の「捏造写真」の後、番組は終戦の日以降も戦争が行われていたという占守島で、ソ連と戦った元日本兵の武蔵哲さんの証言を放映している。

占守島の戦争は、ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って、一方的に仕掛けてきた理不尽な戦いであることはいうまでも無い。

コメンテーターの 山口一臣氏や大谷昭宏氏が、戦後行われたソ連の理不尽な攻撃に怒って見せ、もっと国民に知らせるべきだと主張していたが、

何を今頃寝ゴトを云っているのだ。

ソ連の理不尽さを意識的に報道しなかったのは彼らサヨクマスコミではなかったのか。

終戦後、粛々と武装解除した日本兵をシベリヤ抑留し、多くの犠牲者をだしたのは理不尽なソ連軍ではなかったのか。 

同じ外地でも台湾には残留孤児が出なかったのに、満州には多くの残留孤児が出たのは戦後のソ連の理不尽な攻撃のせいではなかったのか。

そして、そのソ連の狼藉を口をつぐんで批判しなかったのはサヨクマスコミではなかったのか。

ソ連軍の対日宣戦布告の理不尽さは、ここでの主題ではないので、これくらいにしておく。

捏造写真に戻る。

「8月15日の捏造写真」で、テレ朝「スーパーモーニング」は鬼の首を取ったように北海道新聞の「写真」を画面に見せていた。

終戦の日の象徴といえば朝日新聞が掲載した「皇居前の号泣写真」こそ、最も全国に知られた写真であり、これは教科書にも掲載されている。

だがこの朝日新聞が報道した終戦の日、6月15日の皇居前の「号泣写真」が捏造であったことを朝日新聞の子会社のテレビ朝日が知らなかったとなると、とんだ大笑いである。

手元に2005年発行の「文藝春秋」「戦後60周年総力特集」(2月号)があるが、その特集の中で、外交評論家の加瀬英明氏が、「捏造された『宮城前号泣記事』」と題する記事を書いている。 その年2005年から31年前の1974年には、既に朝日新聞の「終戦の日の皇居前の捏造記事」に気が付いていたと記している。

加瀬氏は今から36年前の昭和49年5月から翌年4月にかけて「週刊新潮」に、終戦の日から始まるノンフィクションを連載したが、資料として見た敗戦の日、8月15日の朝日新聞縮小版で、奇妙なことに気がついたという。

同誌から引用する。

<昭和20年8月15日の朝日新聞の1面は、「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。 2面には二重橋の写真の下に「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙 嗚呼(ああ)・胸底抉(えぐ)る6年の戦ひ」と見出しが、組まれている。
記事は「溢(あふ)れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙、ああけふ昭和20年8月15日」と始まっている。 記者は「歩を宮城前にとどめたそのとき、最早私は立ってはおられなかった、抑へ抑へて来た涙が、いまは堰(せき)もなく頬を伝った、崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、しゃくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、激しく泣いた」・・・>

加瀬氏が引用する朝日の、思い入れたっぷりな文章はこの後も情緒連綿と続くが、煩雑なので省略する。

朝日新聞は、終戦の日の一日前まではこのような感情に訴える文言で国民を扇動していたわけだから、終戦の日に一夜にして記者の文体が変るはずも無いが、

加瀬氏が奇妙に思ったのは朝日の誇張した文体ではなく、その描く皇居前の風景が朝日の捏造ではないかということである。

「文藝春秋」の引用を続ける。

<当時の新聞は物資が欠乏していたから、裏表2ページだった。 当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。 この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達されることに、決まっていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた捏造であったのである。(略)

私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三から、この件について経緯を説明した手紙をいただいた。 花田氏は学校教員だったということだが、当時は学生で、工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。 そして上司からいわれて、東京に外注部品を促進するため上京した。
花田氏の手紙から、引用しよう。
「14日、何時ものように栄養失調の足を引き摺(ず)りながら、宮城前の明治生命館6階にあった日立製作所の事務所へ、ネオン管の催促に行った。 (略)
そこを出て、『宮城を前に来たから拝んでいこう』という気持ちで二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、『写真を撮りたいので、そこに」土下座して欲しい』と言われた。 他に写真のように多くの人が座らされ、『撮しますからお辞儀して下さい』といわれて撮られたのです。
後で振り向くと、件(くだん)のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、『何か様子がおかしい』と思い、又、『何かの記念になるかも知れない』と思って、『写真が出来たら譲って欲しい』と頼んでみた。 すると、『この写真は特別のものだから呉れるわけにはいかない。 しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。
妙な気分で、その場を去ったが、それでも、まだ敗戦ということは思い浮かばなかった。(略)

それにしても、私が取材したところでは、玉音放送の数時間後に都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、不思議に思った者がなかった。 当時も今も、従順な読者が多いのだ。 
ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」とルビを振るべきだと思う。>

                       ◇

蛇足ながら加瀬氏の結語の皮肉は、新聞と書いて「やらせ」と読ますべきということ。

テレ朝の親会社の朝日新聞の終戦後第一回の発行紙が「捏造新聞」だったということは、その後の同紙の捏造体質を考えれば、さもありなんと言うべきだが、それを子会社のテレ朝がブーメラン報道したとはとんだ大笑いである。

テレ朝「スーパーモーニング」がブーメラン報道した同じ日(13日)の読売新聞が「捏造」を証明する記事を掲載しているのも皮肉である。

(上) 土下座写真は作られた?
8月15日 玉音放送 
 
 1945年8月15日、終戦の玉音放送を聞き、悲しみに肩を落とす人々を撮影した数々の写真は、終戦の瞬間として長く認識されてきた。しかし、この写真は前日に撮影された「ポーズ写真」との説もある――。

 青森市に住む花田省三さん(79)は、終戦前日の14日、仕事帰りに皇居前で腕章をつけた青年に声をかけられた。「写真を撮りたいので、土下座してください」。突然で訳が分からなったが、そのまま砂利の上で土下座した。19歳の時だった。

 花田さんは、旧制弘前中を卒業し通信技術などを勉強した後、福島市の工場に派遣された。東京大空襲があった45年3月ごろから、東京の工場にいた。

 周りでは、同様に10人ほどが土下座をさせられている。「何に使いますか」。思い切って聞いたが、教えてくれなかった。「写真、くれませんか」と尋ねると、「これは大事な写真。明日の正午を過ぎたらあげられるかもしれない」と意味ありげな言葉が返ってきた。写真を撮り終えて脚立を降りる時、青年は手で涙をぬぐっていた。

 翌15日。玉音放送は、工場のラジオで聞いた。「ニューギニアに連行される」と工場ではデマが飛び交い、逃げるように乗り込んだ路面電車で、乗客が持つ新聞を見て驚いた。午後に発刊されたばかりの新聞が敗戦を報じ、前日に写されたのと同じ「土下座写真」が掲載されていた。脇には、「宮城前にひれ伏す赤子(せきし)」とのキャプションが書かれていた。一瞬、「あの写真がなぜ…」と思ったが、逃げたい一心ですぐに忘れた。帰りの電車では、陸軍と海軍の兵士が「お前が弱いから負けた」と言い合っていた。「戦争はくだらないな」と思った。

 60年がたった今年、花田さんはある新聞記事で、8月15日に皇居前で土下座する人々を撮影した写真が、「前日14日に撮影された『ポーズ写真』の可能性がある」と指摘した記事を読んだ。「やはりあの時、カメラマンの青年は玉音放送が流されることを知っていたのでしょう。敗戦ムードが漂っていましたから」

 終戦の約1か月前、郷土は青森空襲でひどい戦禍を受けていた。その傷跡を目にしたのは戦後3年ほどしてからだ。奇しくも妻哲子さん(74)は青森空襲を経験していた。現在は、空襲を後世に語り継ぐ活動をしている。「彼女は火の下をかいくぐって助かった。その額には焼夷(しょうい)弾の傷跡があるんです」。終戦の日の前日の奇妙な出来事と、戦禍にあえいでいた市民の姿の隔たりが今も心に引っかかったままだ。

                      ◇

読売は「この写真は前日に撮影された『ポーズ写真』との説もある」と慎重な表現にしているが、

加瀬氏が朝日ОBに取材したところ、「その日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された」という。

朝日の捏造であることは間違いない。

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