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読者の皆様へ
昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。
まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。
最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。
出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。
■出版費用の献金のご協力願い
しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。
出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。
※★前書き★
皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。
献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。
まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。
狼魔人日記
江崎 孝
お振込先
- 金融機関:ゆうちょ銀行
- 名義:江崎 孝
- 記号:17050
- 番号:05557981
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- 金融機関:ゆうちょ銀行
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- 名義:江崎 孝
- 店名:708(読み ナナゼロハチ)
- 店番:708
- 口座番号:0555798
※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
このため帝国大学も高等文官も陸軍士官学校も、試験だけで選抜する厳格な客観テストを採用したので、人材が流動化した。特に陸士は学費が無料だったので、貧乏人の頭のいい子が入学したが、彼らは強い上昇志向と暗記力をもっていたため、日本軍の暴走する原因となった。
その失敗例が、陸軍最悪の愚将として有名な辻政信である。彼は石川県の山奥の炭焼きの子として生まれた。炭焼きは農地をもたない極貧の職業で、子供のころはガリガリにやせていたという。
だが小学校では優秀な成績だったので、教師のすすめで名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。これは当時としては異例だったが、辻は首席で卒業した。東京の陸士も首席で卒業し、陸大は3位で卒業した。これで彼の出世は約束され、関東軍に赴任した。
台湾慰霊の旅を機会に、沖縄戦と台湾、そして「台北会議」について考えてみた。
筆者がしばしば引用する名言に「事件は現場で起きている。会議室で起きているのではない」という青島刑事がテレビドラマで叫ぶコメントがある。
戦時中の大本営にはペーパーテストで優秀な偏差値秀才が現場の戦場を無視し机上の空論で日本を敗戦に導いていった例が多数ある。
偏差値秀才が日本の針路を過つのは現在の財務官僚と言われているが、戦時中の秀才軍人は、軍服を着た官僚と言われていた。
5年前台湾慰霊の旅をしたとき、台湾会議に沖縄第32軍の参謀を呼びつけ、沖縄戦を窮地に追い込んだ服部卓四郎のことを回想して見た。
★ 陸軍の3人の「A級戦犯」と台北会議 2017-12-06
太平洋戦争(大東亜戦争)は、軍服を着た官僚と言われる佐官級の優等生の作戦で主導したといわれる。
台湾最南端のバシー海峡の荒波を目前にし、はるかに望むフィリピン諸島を眺めたとき、偏差値秀才服部卓四朗の名が脳裏を過った。
服部卓四郎を瀬島龍三、辻正信と並べて日本陸軍の三大A級戦犯と呼ぶ人がいる。
瀬島は、作家の山崎豊子の著『不毛地帯』で極端に美化して描かれており、戦後伊藤忠に入社し、副社長にまで登りつめ、中曽根康弘の顧問を務めるなど社会的に著名な人物。
辻は、戦後バンコックにいたが僧侶に身をやつして各地を逃げ回った。48年戦犯が解除されるや日本に帰り、衆参議員に当選した。61年出国したがラオスで行方不明になり、波乱万丈の一生が新聞ダネとなった。
この三人に共通するのはいずれも士官学校、陸軍大学校では優等生であり、作戦の中枢部にいた「優秀な」若手佐官であること。
後に沖縄戦の作戦に関与する服部卓四郎は、開戦直前に起きたノモンハン事件の作戦責任者で、戦線拡大の強硬派であった。
ノモンハン事件とは、1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件のこと。
結果は,日本軍の惨敗に終った。
ノモンハンは満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。
5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。
8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。