池田 平和ボケの戦後第一世代からはずっと下なのに、ウクライナ戦争でトンチンカンなことを言って炎上したのは橋下徹さんです。大阪で政治家をやって日本維新の会を作ったころは、むしろ護憲派を批判するリアリストとして振る舞っていたのに、今回は「戦争で民間人が犠牲になるのはよくないから、ウクライナは降伏した方がいい」とか「戦争しないで『政治的妥結』すべきだ」などとTVやツイッターで繰り返しました。
ところが多くの人に批判されたら主張を180度急変させて、「ウクライナに『戦え』と言うなら、NATOは自ら参戦しろ」とか「政治家を民間人の人質と交換しろ」とか言い出す。支離滅裂で、何がいいたいのかわからない。
與那覇 私は今回の言動のおかげで、逆に橋下さんに一貫性を見出せるようになりました(笑)。最初は無抵抗主義の超ハト派で、途中から核戦争も辞さない超タカ派になったわけですが、これは「俺に後ろめたい思いをさせんなよ!」というメッセージでは一貫していると思うんですよ。
毎日ニュースで戦場となったウクライナの映像が飛び込んできても、なにもできない私たちとしてはただ後ろめたさを感じるしかない。そうした罪責感を消す方法の一つが、ウクライナが降伏して戦争が終わってくれること。もう一つが自分たちも直接参戦して当事者になり、「他の人に不条理を押しつけてはいませんよ」というポジションを獲得すること。その点ではハト・タカの垣根を超えて、彼が提示した二つの選択肢は一致しているわけです。
橋下さんはかつて、政策の面でも日本には珍しい「新自由主義」の政治家でしたが、多くの日本人が「新自由主義的」と見なして嫌っているのは、むしろそうしたエートスの方だと思うんですよね。とにかく自分が後ろめたく感じるのが嫌で、だからあらゆる詭弁や罵詈雑言を駆使して「俺は完璧に正しく、なにひとつ悪くない!」と強弁する。困窮している人を見たら「どうせ自己責任だ」、自分を批判する意見に対しては「利権で言ってるだけだろ」みたいな。
池田 彼に一貫性があるかどうかは疑問だけど、伝統的な左翼の護憲派とは違うという一方で、自民党の右派とも違うという差別化を考えてるんじゃないですか。かつて仲のよかった百田尚樹さんとか有本香さんのようなネトウヨとも決別してしまった。今度の選挙で野党第一党になるかもしれない維新がどういう立ち位置で戦うかを、彼なりに考えていたと思うんです。
ところが悲しいかな、外交・防衛についてはまるで予備知識がないものだから、テレビで行き当たりばったりに「そこは違う」などとコメントしているうちに、右でも左でも真ん中でもない、訳のわからない話になってしまった。日本維新の会の党としての見解は常識的なものですが、多くの人が橋下さんの意見を維新の方針だと思って、コアなファンが離れてしまった。これは維新としては大きな損失だと思います。
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『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。
当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。
新川明
新川明氏は、一人の論者を集団で袋叩きにする「沖縄イニシアティブ方式」という言論封殺方式の主導者として当日記に登場している。
新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。
これに関しては当日記で過去に再三エントリーしたが、今でも一日に100件近くアクセスのある人気エントリーである。
ちなみに「1フィート運動」は左翼集団に乗っ取られイデオロギー化したため、創始者の上原正稔氏は現在これに関わってはいない。
以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。
◇
米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。
中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。
その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。
うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!
白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。
「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。
少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。
手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)
後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。
以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。
白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。
■新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作
白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。
白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。
読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。
米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。
だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。
記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。
新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。
そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。
兵隊たちがいいあらそいをはじめました。
「おとなしく出れば殺さないはずだよ」
「では、だれがさいしょに出るのか」
「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」
ほかの人たちもいいあらそっています。
「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」
りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと
隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。
「ためしに子どもをさきに出してみよう!」
ゆっくりと目をあけると
すきとおるひかりのむこうに
アメリカ兵のすがたがみえました。
戦車のかげで鉄砲をかまえたまま
白い歯をみせてわらっています。
ふりかえると、日本兵たちが
両手をあげてついてきました。
おじいさんや女の人も
よろよろとつづいていました。
そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。
同書の「あとがき」には次のように書かれている。
<さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。
また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。
絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。
■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言
記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。
それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。
1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。
それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。
そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。
比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。
そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。
<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>
比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。
不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。
「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていた語であろう。
ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。
だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。
記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。
だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。
では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。
否、そうではない。
相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。
デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。
●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている
過去ブログで最近アクセスが急上昇の記事を、一部編集の上再掲します。
今回はこれ。
続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11 06
なお、本稿の前編は追って再掲の予定です。
■究極の逆転向者ー富村順一■
沖縄タイムスは、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』に記載の「不都合な」記事を人目を避けるように削除し、その歴史に致命的汚点を残した。
口止め料として沖縄タイムスから50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。ちなみに沖縄タイムスの御用作家として、沖縄タイムスから複数のサヨク書籍を出版している富村氏が沖縄タイムスを恐喝した理由は『鉄の暴風』で「不明死した」と記述された座間味村の元戦隊長梅澤裕氏が生存しているという事実の口止め料だ。
現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子で大阪地裁まで来て、沖縄タイムスの「軍命説」を180度変更し、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。
富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。
富村氏は、左翼集団の暴力により、足のみならず手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。
■富村氏が極左作家になった経緯■
富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。
15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。
以後全国を放浪するがその間も犯罪を重ね、各地の刑務所の出入獄をくり返す。
1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。
その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。
「日本人よ、君たちは沖縄のことに口をだすな」
「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」
「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」
結局富村は、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成されり。
獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄』(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。
『わんがうまりあ沖縄』は、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。
理由は、出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそったのだろう。
ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。
<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。
○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。
○送りガナはあえて統一しませんでした。
○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。
○原文中、「 」の部分を傍点をつけ、「 」をはずしました。>
支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。
富村は、同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続けた。
沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。
富村氏の著作を拾ってみると、沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。
『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書
『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。
『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。
『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。
『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。
『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。
『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。
『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。
『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。
『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。
◇
富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。
毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。
*
03/11: 東京タワー事件
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある。若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html
沖縄タイムス 唐獅子
意識した熱狂を
わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。
60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。
マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。
ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。
先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。
さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。
沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 このアイテムの詳細を見る |
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■恐喝された沖縄タイムス■
沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自身のブログで、「大江・岩波集団自決訴訟」の判決文を誇らしげに引用し、『うらそえ文藝』に掲載の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。
ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場の目取真氏も困るはずだ。
そこで目取真氏は沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、これ以上の発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。
目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしている。
だが、これこそが大問題なのだ。
富村氏の恐喝は、沖縄タイムスが『鉄の暴風』の記事のデタラメな記事を指摘したに過ぎず、沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点になる。
いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃でもある。
先ず恐喝した富山氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な「識者」言われる左翼作家であること。
そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。
恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件(50万円恐喝)には沖縄タイムスOBを含む複数の証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。
そして脅し取った50万円(当時の50万円は現在の数百万円に相当)は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。
さらに恐喝した当人の富山氏が78歳の高齢ながら当時は(現在は故人)大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。
目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。
そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。
まさに、沖縄版・言論封殺魔の登場である。
■証言の信憑性■
「集団自決訴訟」の特徴は、70数年前の体験者の証言と、数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。
しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。
いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。
証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。
■証言者のバックグラウンド■
アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。
ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。
①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人
②「援護金」とは無関係な証人
この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。
①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、
②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。
通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。
だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。
その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。
■証言者のプラス派とマイナス派■
裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。
①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など
②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔、安里巡査、知念少尉
外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、
中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得た。
その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。
更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。
おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。
一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、
経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。
例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。
いや現在も受けているときく。
照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。
最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。
■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■
もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。
自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。
富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。
■天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こした男
富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。
服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。
勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、
『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。
沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。
そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。
ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。
特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。
元隊員や多くの人脈を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪の梅田で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。
富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。
その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。
梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。
そのとき梅沢氏はこう語った。
「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。(援護法に該当) またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」
「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)
富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受ける。
沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。
通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。
だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。
従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいない。
ましてや富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで「捏造記事」をネタに恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)
何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。
だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。
それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。
おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。
富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。
従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。
『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。
それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。
富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。
おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。
だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。
富村氏も良くやるね。
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「私は辺野古移設容認だ」佐喜真氏が表明 沖縄知事選、対立軸が明確に
[知事選9・11]
25日告示、9月11日投開票の沖縄県知事選で、自民党県連が擁立する前宜野湾市長の佐喜真淳氏(57)が5日、那覇市内のホテルで記者会見し、米軍普天間飛行場の早期返還を実現するために名護市辺野古移設を容認すると表明した。
佐喜真氏は4年前の知事選に立候補した際、普天間飛行場返還を公約に掲げていたが、新基地建設の賛否には言及していなかった。選挙戦が有力3氏の争いとなる見込みの中、辺野古を巡る対立軸が明確になった。
同日の会見で佐喜真氏は「返還合意から26年たったがいまだ実現していない。私の力で終止符を打つ」と強調。政府の移設計画については「早期返還を実現するため現在の移設計画は現実的だ。その意味で私は辺野古移設容認だ」とした。
再選を目指す現職の玉城デニー知事(62)は6月に開いた出馬会見で、政府が進める辺野古新基地建設について「断固として認められない」と強調。普天間の県外・国外移設や返還を政府に求める姿勢を示した。玉城氏は公約でも「新たな基地は造らせない」と辺野古阻止を打ち出している。
知事選には下地幹郎前衆院議員(60)も出馬を表明。7月の政策発表では、辺野古移設について「軟弱地盤は埋め立てない」とし、埋め立てが既に終わった区域は格納庫用地にする考えを示すなどの独自案を表明。普天間の危険性除去に向けた具体策として、鹿児島県西之表市の馬毛島への訓練移転を訴えている。(知事選取材班・又吉俊充)
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sas*****1時間前
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辺野古での新基地建設に反対するのだったらどこであったらいいのだろうか。先日、台湾海域で中国の軍事演習が大規模で行われ、ミサイルがEEZ内に5発も落下したという事実がある。実際に、台湾有事となった際に日本を守れるのは沖縄にある軍事基地である。尖閣や沖縄を守りたいのであれば、基地の建設は不可欠であって、国を相手取り訴訟を起こすというのは本末転倒なのではないかと思う。沖縄は台湾とも非常に近い位置にあり、万が一台湾有事になった場合、沖縄は一番に巻き込まれる恐れがある。その際の防衛力を持っているというのは非常に大事だと思うのだが、それでも沖縄知事さんは基地建設に反対なのだろうか。国を守るということがどういうことなのかということをもう一度冷静になって考えてほしい。
you*****13時間前
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最近の地方自治体の長の独裁ぶりが目立つよね。国政では野党が弱者の声を聞けとか言うが同じ党の人間が地方の首長選に勝った途端に政府に地方の事に口出しするなとばかりの強権を発動しだすのには呆れるしかない。静岡県のリニアモーターカーのトンネル掘削を認めない川勝知事もそうだが全国的な国防やリニアのような日本の国威発揚を誇るインフラ整備を一地方が邪魔できるような地方分権を全国の民意が認めれば独裁がまかり通ることになり日本の弱体化が進む悲劇でしかない。日本全体の発展や防衛に関することは国の専権事項で地方の口出しを認めない法整備をやらなければ日本は終わるよ。
くろ2時間前
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日本の安全保障に関して何度反対しても,沖縄県知事の権限ではどうにもならない事が明白なのに,何度も繰り返して,普天間基地の返還を遅らせるだけだ。台湾や香港の現状からすれば,尖閣だけでなく沖縄そのものが危うい状況にある。沖縄の基地配備は,決して日本本土の犠牲になっているだけではないのだ。基地の根絶を主張して知事に当選しているので,不都合な事として直視しないようにしているのだろうか。沖縄から基地が無くなれば平和が維持できるというのは,中国に対して考えが甘すぎる。もし本気で米軍基地を無くしたいなら,沖縄独立くらいの気概を持って政治活動をしてもらいたい。沖縄が独立すれば米軍基地も自衛隊基地も無くせる。ただし沖縄の独立を維持するには,中国の脅威から沖縄を守るための軍隊を,莫大な費用を掛けて独自に維持する必要になり,現在のような日本政府からの補償や優遇は受けられなくなるが。
猫編集室13時間前
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現在の周辺国の状況を考えているのだろうか?ww2の記憶で戦争アレルギーが強いのは理解出来るが何十年と言う時の流れで国際情勢は驚く程変化している。
まだ市民活動家が反対するの分かるが知事は現実的に問題に対応しなくてはならない。
結局は支持基盤の為何だろうが本当に国民、県民の為になることを考えるべき。
やっている事が韓国に似ていて場当たり的で声を大にしてれば正義みたいな姿勢に感じられる。
yo1*****2時間前
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知事選近いから、有権者にわかりやすい政策に振り切ってるのだと思う。今回の知事選も辺野古が争点になりそうだけど、いまの国際情勢、特に中国を見ると、沖縄県の総意は前回とは変わっていると思う。ただし、多くの有権者は国防についてはアレルギーがありそうだし、国と対峙する政策の方が分かりやすいかも知れないから、このスタンスを続けてるだけだと思う
res*****2時間前
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辺野古は無人地帯ではないが、普天間に比べれば遥かに安全性は高い。海に面しているわけだし。
なので、普天間よりは辺野古の方が良いだろう。本島の防衛に関しても、最近はあの国の艦船が太平洋側に抜ける事があるので、西側だけではなく東側に基地があるのもバランスは良くなる。西側は嘉手納基地からカバーし、東側は辺野古で。
しかし個人的には、あの海域のサンゴを潰すのは惜しいと思っている。
ベストな選択は、普天間を尖閣に移転する事だと思うけどね〜
veg*****11時間前
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国から出る予算は黙って受け取るが、国の決定には従わない・・・・健全な地方自治体の在り方だろうか。
仮に台湾有事が始まったら、デニー知事と基地反対派はどうやって県民を守るのか。
具体的な案を提示できるのか?
基地が無ければ攻撃されないという保障などどこにもない。
最悪の場合、県民を守るのは国であり、自衛隊である。
知事や反対派は県民を守れない。
しかも、移設反対ということは危険度の高い普天間継続ということになる。
それで良いのか。
あくあ2時間前
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米軍基地があって大変だとは思いますが、露の戦争を見る限り万が一中との争いになっても基地が無ければ攻撃されないってのは無いと思う。もちろん現地の方の言い分も間違ってはいないから難しい問題だと思う。でもやっぱり最前線が沖縄近くである以上基地が無いと守れないと思います。
audo******13時間前
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玉城知事の独裁ぶりは一県民としても目に余るもの。
いまや多くの県民がコロナ禍で仕事も収入も減り、暮らしていくのもやっとの中、莫大な予算を私権限で次から次へと反基地活動に費やしているが、任期中に玉城知事が直接県民のために費やす政策は無かったと言えよう。
県民の暮らしを見ていないのか。
働き盛りの若者達が苦しんでいる声が聞こえないのか。
沖縄県知事としてあるまじき行為だ、全く納得いかない。
wwh*****3時間前
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普天間基地周辺の住民も知事が守るべき県民ではないのか?
辺野古移転以外に住民の安全を守る方法が現実的にないのに移転に反対するなら、知事は移転とは分けて、普天間基地周辺の住民の安全対策を実現するべきだが、知事も沖縄のマスコミも全く具体策も提案もなく、反対運動には熱心だが、今ある普天間基地周辺の住民の安全には関心がないようだ。
「人間って遊園地の1日券を持って生まれてくるようなものだと思うんです」 カジノで106億円失った大王製紙元会長が“絶望しなかった”ワケ
「主婦が消費者金融からお金を借りるのと一緒ですよ」106億円を“溶かして”逮捕の大王製紙元会長は、出所後なぜカジノに戻ったのか? から続く
2011年に106億8000万円という大金をカジノで溶かし、会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕された大王製紙元会長の井川意高氏。
4年の刑期を終えたのち、彼が向かったのはなんと韓国のカジノだった。3000万円を元手に一度は9億円まで増やしたというが最終的には0円に。その後、今度はシンガポールのカジノを訪れ、1か月ぶっ通しでバカラをし続けた。そこで4000万円負け、ついに「飽き」がきたという。
現在は、アルコール度数96%のスピリタスを「毎晩飲むのが日課」だという井川氏。ギャンブルから離れた井川氏はどこに向かうのか――。
◆◆◆
大金を運用して増やしても欲しいものがない
井川氏は「小さい頃から凝り性な性格だった」と自身のこれまでを振り返る。 「子どもの頃は切手を集めたりとか。刑務所で車を買い漁っていたときもそうだったし、一時期はワインにはまって買い集めたりもしたんです。でもある程度ハマると先が見えちゃうんですよね。『自分の資金力だとこれくらいが限界だよな』って。結局どんなに集めたところで世界の石油王には勝てないわけです。そうすると、一気に冷めちゃうんですよ」
――そういう意味だとギャンブルは終わりがないですよね。
井川 まぁさすがにバカラはやり尽くしたなとは思っているんで。いまはもうやらなくていいかなと思っています。結局100億円以上のお金をギャンブルで失いましたけど、例えばその100億円で不動産を買って、うまいこと運用して150億円にしたところで、ほしいものがないんですよね。ハワイにコンドミニアムを買いたいとか、そういうことは思わない。
仕事は楽しいというよりも義務感が強かった
――ギャンブルで失ったのはお金だけではなく、大王製紙の元会長という肩書や社会的地位もあったと思います。それを失った後悔はありますか?
井川 逮捕されたことで迷惑をかけてしまった人たちには申し訳ないことをしてしまったなと思っています。ただ、大王製紙の会長という座を失ったことに対する未練は一切ないですね。会社の経営者として、「これからどうすんだ」って頭を悩ませ続けるくらいなら、今みたいに毎晩酒を飲んでるほうがよっぽど気楽でいいですよ。時間が一番有限じゃないですか。自分のためだけに時間を使えるのが一番の幸せですよ。
――経営者としての仕事自体はお好きだったんですか?
井川 正直、経営者時代は砂を噛むような思いでしたからね。ただ、創業者の家族というだけで役員になった、社長になったとは言われたくはなかったので、誰よりも仕事はしました。マーケティングの会議に出れば、誰よりもアイディアを出せるように、必死で「ああでもない、こうでもない」と考えていました。 だから楽しいというよりも……義務感が強かったですね。「やって当たり前だろう」というか。周囲もそういう目で見てきますしね。
刑務所に服役したのはいい経験だった
――創業家出身ならではのご苦労ですね。 井川 父親がめちゃくちゃ理不尽な存在でしたから。子供の頃から「あれやれ、これやれ」と言われ続けていました。私が大王製紙にいたころ、父親がいる顧問室に呼ばれたら、灰皿や湯呑が飛んでこないか、いつもひやひやしていました。
そんな親父だけに、2011年に私が逮捕されるとなったときは、1時間以上も罵詈雑言を浴びせられました。でも、父は2019年に亡くなったんですが、そのときに怒られたっきりで「意高のせいで会社がこんなことになった」とか、私の悪口や愚痴は一言も言わなかったと聞きました。
――大企業の会長から、刑務所に収監されたわけですから、まさにジェットコースターのような経験ですよね。
井川 刑務所に服役したのは、僕自身はいい経験をしたなと思っています。人間って遊園地の1日券を持って生まれてくるようなものだと思うんですよね。「並ぶのがめんどくさいから、ジェットコースターにも乗らずに過ごす」よりは、「並ぶのはしんどいけど、その先におもしろい経験があるならそれを経験してみたい」と思うじゃないですか。
今までの人脈や経験を活かして、できる範囲で人助けができたら
ラテン語に「メメント・モリ」って言葉がありますよね。「死を忘れるな」という意味なんですけど、続きがあって「カルペ・ディエム」=「今を楽しめ」と続くんです。要は、いつ死ぬかわからないんだから、今を楽しめってことなんです。僕はそうやって生きていきたいなと思ってます。
――最後に今後の目標を教えてください。
井川 経営者をやっていたのでいまはその時の経験を活かして、知り合いの会社のコンサルティングをしています。そうやっていままで自分が築いてきたもので、周りの人の役に立てることがあるならそれをやっていきたいなという感じですね。
経営者をやっているときは「自分のことは自分でやれよ」と思ってたんですが、刑務所に入ったらいろんな人が心配してきてくれて。その時に「ああ、人に頼っていいんだな」と思ったんですよね。それから、人に何か頼まれても「いいですよ」と言えるようになったんです。人に助けられるのも、助けるのもいいものだなって。だから自分も今までの人脈だったり経験を活かして、できる範囲で人助けができたらうれしいなと思っています。 インタビュー撮影=釜谷洋史/文藝春秋
★
rrr*****
優秀な血脈には、時々こうした浮世離れした人というか、天性の詩人のような人が生まれることがある。彼に迷惑を被った人には申し訳ないが、個人的にはこういう変な人は嫌いではない。 たまたま興味の対象が博打だったので、こういう残念な結果になってはいるが、その対象が芸術だったら、ちょっと面白い芸術家か、あるいは芸術家のパトロンやコレクターとして、ペギー・グッケンハイムのように名を成したかもしれない、と思うとちょっと残念。 たぶん、彼は他の何よりも自分自身に一番興味があって、「自分自身が作品」という価値観の人なんじゃないかな。大王製紙元会長はギャンブル依存症から脱皮し、現在アルコール依存症。
最終的に人間は何かに依存して生きていくもの。
この事実に気が付いただけでも大きな進歩でしょ。
江戸から明治にかけて
日本各地で活躍した近江商人。
彼らが信用を得るために
大切にしていたのが、
買い手よし
売り手よし
世間よし
という「三方よし」の精神でした。
その一方で、あまり知られていないのは、アメリカの30代男性の年中の中央値が、74年から04年までの間に12%も下がっていることです。平均値は上がっているのに、中央値が下がっている。その意味するところは、格差の拡大です。
GDPが増えて国の経済が成長し、富裕層への富の集中が加速する陰で、中間層から下に位置する人たちの収入は減り続けているのです。
CEOの報酬はうなぎ上りなのに、一般従業員の給料は下がり、雇用も失われていく。これが、英米発のグローバル化と金融の自由化がもたらした現実です。」
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■1983年6月8日付沖縄タイムスの記事は、典型的な「歪曲報道」である。
故赤松大尉直筆の手紙を届ける
衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に
住民に「申し訳ない」
虐殺については否定?
【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。
手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。(1983年6月8日付)
☆
上記記事の次の結語に、沖縄タイムスの歴史捏造の大嘘が表れている。
「日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である」
歴史が新聞記事で決まるわけではないし、県民大会や県議会決議で決まるわけではない。
勿論、歴史が裁判で決るわけではないが、大江岩波訴訟で、挙証責任のある被告大江側は一審、二審を通じて「軍命」を立証できず、その後も軍命を立証する証拠・証人は一件もない。
沖縄タイムスが言う「歴史の事実」は同紙の願望に過ぎない。
ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。
徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し『鉄の暴風』、『秘録沖縄戦』(山川泰邦)、『沖縄ノート』(大江健三郎)などの沖縄戦関連の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当て、ことの真相を問いただす。
ちなみに『鉄の暴風』が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、『沖縄ノート』はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 『秘録沖縄戦』も、『鉄の暴風』の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。
復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。
優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚と思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。
今年は沖縄の日本復帰の51周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、の出来事である。
徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。
徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては『鉄の暴風』や『沖縄ノート』がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。
沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。
猫に鰹節とはまさにこのこと。
手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。
それが上記引用の記事である。
この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。
沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。
手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。
その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。
■比嘉喜順氏の手紙
徳嵩様 謹んで申しあげます。
あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。
敬具
昭和五十八年六月八日午後十一時三十分
沖縄県北中城字大城の自宅にて
旧姓 安里 比嘉喜順拝
徳嵩力 様
タイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。
当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。
だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。
1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。
赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。
赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。
翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。
たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。
渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。
なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。
赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。
なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。
《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》
赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。
赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。
組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。
「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」
集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。
①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。
②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。
③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。
④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。
これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。
2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。
卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。
玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。
手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪
同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある
だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。
これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。
玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。
実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。
(つづく)
【おまけ】
タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。
一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。
もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。
■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事
戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。
勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。
『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。
1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。
その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。
その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。
忘れられぬ戦争の悪夢
<赤松元海軍大尉が来島>
空港に“怒りの声”
”非難したくない”
出迎えの玉井村長語る
抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。
赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。
「赤松帰れ」
「今頃沖縄に来てなんになる」
「県民に謝罪しろ」
「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」
「慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」
この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。
わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。
実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。
赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。
肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。
先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。
「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。
結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。
星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。
星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。
慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。
だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。
■沖縄戦史を歪曲した記事■
1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。
先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。
「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」
赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。
またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。
戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。
そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、
金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。
■渡嘉敷村民の真意は?
それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。
そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。
以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。
遺族会発足当時を想ふ
渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八
(略)
遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。
引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会
赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。
沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。
これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。
赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、
そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。
「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。
だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。
ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。
その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、
赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている。
ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。
その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。
実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。
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首里城指定管理者は「違法」 住民訴訟の原告が指摘
2019年10月31日未明に発生した首里城火災から間もなく3年になる。火災の責任所在が明確にならないまま再建が進められていることが住民訴訟に発展しているが、首里城指定管理者の一般社団法人沖縄美(ちゅ)ら島財団が必要な防災要件を満たしていなかったことが原告の調べで明らかになっている。(沖縄支局・豊田 剛、写真も)
防災要件を満たさず
被告の県、管理マニュアル未提示
沖縄県は、具体的な再発防止策を検討する首里城公園管理体制構築検討委員会を設置し、1日に初会合が開かれた。
蓑茂壽太郎東京農業大学名誉教授を委員長に、関澤愛東京理科大教授ら防災を専門とする学者や弁護士ら委員7人、内閣府沖縄総合事務局、沖縄県、那覇市の幹部クラス9人が協力委員に名を連ねている。
会合では再発防止策の具体的な取り組みを検討するため現状の課題について確認。首里城公園の管理運営の仕組みについては、予定されている26年の正殿完成時に現在の指定管理者制度を見直すことを検討中。具体的には、防災・防火対策の実効性を担保できるように、現行の指定管理業務から防災関連の業務を分離することを検討している。
またこの日、首里城公園には国と県が管理するエリアがあり、防災対策の体制のばらつきが課題とされていることが報告され、横のつながりを構築し公園全体での仕組みや役割分担を明確化できるかどうかが議論された。
首里城火災の管理責任をめぐって、「沖縄県が、発災責任を負う指定管理者・美ら島財団に約2億円の損害賠償を請求しないのは違法」として、8人の沖縄県民が、玉城デニー沖縄県知事を相手取った住民訴訟を起こし、昨年11月に口頭弁論が始まった。これまで4度の口頭弁論が行われている。原告は、初動対応の不手際を立証するため管理マニュアルの提出を求めているが、被告はこれまで応じていないため、裁判は膠着(こうちゃく)状態にある。
那覇市消防局の調査報告書にはどう書かれているのか。電気異常や放火など火の気のない建物に火災が発生した原因を列挙した上で、一つ一つ否定している。最後に残された疑わしい火元は、出火場所と特定された正殿1階北東の一角にあるLED照明の電源コードまわり一つしかないことを明らかにした。これは美ら島財団が設置したもの。
ところが、消防局はそれを原因と断定しなかった。あまりの火災の強さに着火物などの物証が焼失あるいは損傷してしまっているという理由からだ。
原告が訴訟を進めていく中で、決定的な問題が見つかった。原告団の共同代表、石岡裕氏によると、美ら島財団は電気の保安規定に違反し、指定管理者の要件を満たしていないというのだ。
指定管理者の要件として、電気を日常的に管理し、非常時に対応する有資格者の主任技術者が必要で、火災時には直ちにブレーカーを遮断し、本人不在の場合は現場の担当者が対応できるよう訓練することを義務付けている。火災当時、これらが実施されていないことが、「保安規定違反に該当する」と石岡氏は指摘する。
首里城の場合、非常時の対応責任は電力会社ではなく首里城そのものにあり、①保安規定の制定②経済産業省への届け出③順守義務――が課されているという。石岡氏は「首里城が電気設備の『みなし設置者』としての必要な義務を果たしていなかった」とし、管理者の美ら島財団、管理委託した沖縄県、所有権を持つ国のすべてに責任が問われることになると指摘した。
被告の沖縄県は答弁書で、火災責任について、煙が正殿内に拡散して警備員が火元に近づけなかったことをもって、「警備員らによる活動に問題はない」と述べている。
首里城公園管理体制構築検討委員会の設置要項
1.警備員・監視員は異常を感知しながら、初期消火等の適切な対応をとらなかった。
2.通報を受けて駆けつけた那覇市消防局を警備員・監視員は適切に誘導できず、消火活動に移るまでに時間を要した。
3.正殿周囲に設置されていた放水銃が、翌日のイベントのために組まれた足場などに遮られ、活用できなかった。
4.首里城公園にある消火用貯水槽がすぐに枯渇し、放水活動が一時中断した。
5.首里城城郭内には、重要文化財を含む歴史的価値の高い美術品が展示または収蔵されていたが、それに見合うだけの防火設備が設置されていなかった。
6.火災の2年前(2017年12月22日)に、那覇市消防局から首里城正殿等の防災上の欠陥を指摘されていたにもかかわらず、適切な是正措置を怠った。
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翁長知事が県民に対して12億円の支払い義務が発生するのだ。
翁長知事と県を被告として提訴された宜野湾住民訴訟について論考する。
被告側は国と全面対決の状況にあり、法廷闘争に突入するのは時間の問題とされている。
当然、翁長知事にとって国との法廷闘争は想定内であり、今回の住民訴訟が提訴されても、国に比べて小さな同種の訴訟が増えた程度で特に驚くことではない、という声もある。
確かに大型弁護団が予測される国との法廷闘争にくらべ、弁護団が三人の住民訴訟は形式上は「小さな訴訟」かもしれない。
ただ、宜野湾住民訴訟が、被告側にとって致命的訴訟になる可能性が極めて大きいと指摘する向きもある。
それは12億円の損害賠償金を誰が払うかに掛かっている。
宜野湾住民訴訟のポイントはこうだ。
(1)被告を翁長知事と沖縄県の二件にしている。
(2)原告は現在12名だが12月に予想される口頭弁論の時には120人程度の集団訴訟の予定。
(3)損害賠償の請求原因が「普天間問題の原点である危険性の除去が、翁長知事の取り消しで頓挫する」としている。⇒「生存権の侵害」
■沖縄2紙の応援記事
国との法廷闘争では勝ち目がないと判断した沖縄2紙は「世論に期待」などと、法律論では敗訴しても感情論で「権力者の国が県知事を苛めた」などの世論作りの作戦を吐露している。
だが、注目すべきは、今回の宜野湾住民訴訟では、国との法廷闘争のように一方的な「原告悪玉」の世論操作が出来ないことだ。
理由は、上記(3)に記載した請求原因にある。
常日頃、沖縄2紙が「住宅密集地に隣接した世界一危険な米軍基地」と報じている記事そのものだからだ。
つまり沖縄2紙が原告の主張を批判する記事を書けば、それがそっくりブーメランとなって沖縄2紙や左翼集団を直撃することなる。
かくして、沖縄2紙は宜野湾住民訴訟を罵倒することは出来ず、切歯扼腕しながら裁判の成り行きを見守ることになる。
これしかなす術がないのだ。
■賠償金支払いの義務は誰?
先ず120人の原告が勝訴した場合(この可能性が大)、単純計算だと総額12億円の損害賠償金を被告が支払うことになる。
その場合被告の翁長知事と県とがどの割合で分担するかは、判決を見なければわからない面もある。
だが、本訴訟は仲井真前知事当時、当時の県職員が防衛局の埋め立て申請を何度も検証した結果、「法的瑕疵はない」として承認した案件を、翁長知事の「ごり押し」で、独断的に取り消しされたもの。
訴訟で被告側が敗訴した場合、責任の重さは県というよりすべて翁長知事にある、といえるだろう。
百パーセント責任は知事にある、ということも可能だが、百歩譲って7対3の割合で知事の責任を検証してみよう。
判決に従がえば12億の賠償金を知事が8億4千万円、県が3億6千万円を支払うことになる。
常識では知事個人が8億4千万円もの現金を持っているとは考えにくいので、一旦県が総額の12億円を支払ったとしよう。
ただ、ここで注目すべきは12億円のすべては国民・県民の血税であるということ。
翁長知事の違法な取り消しで提訴された裁判の損害賠償は、県の分担支払金も含む12億円の支払い義務は翁長知事1人に掛かってくる、ということになる。
そこで、県は、翁長知事個人に対し総額12億円の求償権をもつことになる。
一方、翁長知事は県に対し支払い義務を持つ。
理由は翁長知事が違法行為により、県に12億円の損害を被らせたからだ。
宜野湾住民訴訟は翁長知事の長い悪夢の始に過ぎない。
【追記】
宜野湾住民訴訟の素因の上記(3)の「普天間問題に原点」に関し、仲井真前知事は産経新聞のインタビューに答えてこう答えている。
--これから沖縄と日本をどうすべきか
「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」
⇒【仲井真・沖縄前知事が「そこまで言うか!」(2)】
翁長知事の国連演説「いちいちしゃくに障った。差別、先住民論」
--(基地問題の)総合的な対策に「オール沖縄」で取り組む必要があるという考えは
「『オール沖縄』という言葉は(翁長氏の)選挙のプロパガンダに使われたから、僕は絶対その言葉を使う気はない。オールでもないのに」
--仲井真県政でレールを敷いた鉄道建設などに翁長知事も目を向ける時期が来る。仲井真氏の遺産が動くときが来る。「これはこういう意味だ」と発信し続けてもらいたい
「私の役目があるかどうかは自分では分からない。ただ、今の翁長知事のやり方、どんな風に収まっていくのかのイメージがわかない」
--翁長知事は9月、国連人権理事会で行った演説で、県民を先住民だと位置付けた
「もういちいちね、しゃくに障りましたよ。端的には『基地問題は人権問題だ』という話だと思うが、国連へ行って、自分たちだけの考えのストーリーを、しかも『先住民だ。ずーっと差別されてる。被差別民族だ』とかね。2分間でやっていい話じゃない。県民はおそらく、そんなことをいちいち知事に頼んだ覚えもない。一体、いつからわれわれは先住民に(なったのか)。いろんな人が何百年にわたって内地や中国から沖縄に来てミックスしている。『即、ウチナンチューになってしまう』とわれわれは言っている。いろんな考え方がある中で、ああいう差別、先住民論は、とてもとても受け入れられない」
--これから沖縄と日本をどうすべきか
「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」
「第2に、沖縄に米軍基地が非常に集中している。米軍専用施設が74%。自衛隊との共用は22%だが、それでも非常に大きい。徐々に徐々に負担を軽減してもらいたい。さらに基地問題といっても事件事故など、いろいろなトラブルがある。これも可能な限りゼロにする。日米地位協定も、日本国が独立国として、もう少しきちっと処理すべきだ。特に(米軍が)何か事件・事故を起こしたときの裁判権の話だ。このあたりはぜひ政府にも取り組んでいただきたい。いろんな問題がある。辺野古だけじゃない。翁長知事が辺野古だけやっていても、基地問題全体はまだまだたくさんある。本土の皆さんにも、ここはじっくり我慢して、必要だということを理解いただければと思う」
「もう1つどうしても申し上げたい。『本土対沖縄』という構図は現実的でないし、おかしいと思う。沖縄県は非常に貧乏県でもあったし、(県民は)北海道から鹿児島に至るまで、いろいろなところに働きにいった。非常に優しくヘルプしていただいた。非常にみんな感謝している。沖縄県ももう少し頑張って一人前になり、ご恩をお返しできるような時期がすぐくると思っている。ぜひ沖縄に、観光も含めて、歌も泡盛もいいですから、ぜひおいでください。もう1つ言わせていただくと、やはり沖縄は経済力を付けないといけない。力を貸していただきたい」
【追記】
【おまけ】
ますます、不利になる翁長知事!
辺野古移設承認取り消しに疑問の声 「辺野古住民の8割は容認」「法廷闘争で県の勝ち目薄い」
沖縄県の翁長雄志知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先である名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことで、政府と沖縄県は法廷闘争に突入する公算が大きくなった。だが、政府との対決色を強める翁長氏の姿勢には地元の移設容認派や有識者から疑問の声が上がる。
「国防は国の専権事項で地方が口を出す問題ではない。承認取り消しは理解できず非常に残念だ」。辺野古移設推進派の島袋吉和前名護市長は翁長氏の対応をこう批判した。島袋氏は「県民すべてが反対のように報道されているが、地元の辺野古の住民は8割以上が条件付きで移設を容認している」と強調。「沖縄は基地問題だけではない。国と協力しなければ振興は進まない」と説明し、政府との関係悪化による沖縄振興の遅れに懸念を示した。
一方、安全保障に詳しい神保謙慶応大准教授は「埋め立て承認プロセスは法的に非常に固い。法廷闘争で県が勝つ可能性は限りなく低く、それは翁長氏も理解しているはずだ」と指摘。「工事をさせない期間を引き延ばし、公約実行をアピールすることが翁長氏の目的になっている」との見方を示した。
そのうえで「翁長氏に勝算があるとすれば、県民の支持の盛り上がりだ。『世論戦』が最大のポイントになる」と分析。「政府は沖縄に『上から目線』の失礼な態度を取ってはいけない。感情的な反発を招けば本当に沖縄が反政府で一致してしまう」と述べた。
「無責任に辺野古反対とは言えない」 民主・岡田代表
朝日新聞 2015年10月20日19時34分
(米軍普天間飛行場の沖縄県名護市辺野古への移設について)沖縄のみなさんが反対するのは分かる。我々としては、対案がない状況で無責任に「辺野古反対」とは言えない。与党時代に国内で様々な案を検討したが(移設先は)見つからなかった。対案を見つけるとしたら、政府しかできない。政府には努力はしてもらいたいと思うが、簡単ではないことは、我々は分かっている。(沖縄県の翁長雄志知事と会談後、記者会見で)
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沖縄「集団自決」否定された軍命! 2015-11-26
2007年9月29日に行われた「教科書検定の撤回を要請する県民大会」(”11万人集会”)の前後、沖縄戦を巡る三つの裁判が行われた。
一つは慶良間島の元戦隊長梅澤さんらが大江健三郎よ岩波書店を名誉毀損で提訴した「大江岩波集団自決訴訟」。
そして靖国合祀の取り消しを沖縄戦の遺族が求めた「沖縄靖国合祀取消訴訟」と、ドキュメンタリー作家上原正稔氏が有給新報を訴えた「パンドラの箱掲載訴訟」である。
ちなみに「パンドラ訴訟」は、第二審で被告の琉球新報が逆転敗訴を喫したが、上告を断念したため、琉球新報の敗訴が確定した。
ところが沖縄2紙は琉球新報の敗訴確定を一行も報道せず,県民の耳目から隠蔽した。
琉球新報の敗訴確定を報じたのは本土メディアだけであった。(【おまけ】参照)
慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴しているので、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われている。
だが、事実は違う。
沖縄2紙の印象操作による大きな誤解である。
たしかに「大江岩波集団自決訴訟」は、最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。
だが、最大の争点である「軍命」については挙証責任のある被告大江・岩波側は裁判を通じて立証することが出来なかった。
「軍命説」を流布させた張本人の大江氏と岩波は法廷で「軍命」の挙証義務があるが、それが立証できなかったため事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。
法廷では「軍命説」を立証できなかったが、裁判官は問題の大江健三郎著『沖縄ノート』が出版された当時の歴史研究では、大江氏が「軍命説」を真実として信じても仕方がなかった、という「真実相当性」を適用し、大江・岩波の「名誉毀損」は免責とした。
ただ名誉毀損が請求原因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。
この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。
「パンドラ訴訟」でも原告上原さんが陳述書で強調されているように、集団自決には「援護法」が大きく関わっている。
集団自決の真相を解明しようとすると、その適用を受けるため申請書を偽造したという点に触れねばならない。
この援護法の「秘密」を隠蔽しようとする勢力との壮絶な戦いが裁判という舞台で展開されることになるのである。
沖縄2紙を筆頭に反日サヨク勢力は、「援護法カラクリ」を必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになりる。
その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと故赤松さんということになる。
上原正稔さんが、琉球新報を提訴した記者会見の冒頭で、梅澤さんと故赤松さんに沖縄県民として謝罪した理由は、すべて「援護法と集団自決」の複雑な関係にある。
集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。
より直截にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄県人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している。
■石原教授のトンデモ発言
反日サヨクの急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。
「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」。
だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。
したがって「本人(遺族)が知らない間に」とは真っ赤な嘘である。 それどころか遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、石原教授は「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無い。
ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。(チビチリガマには1人の軍人もいなかった)
大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。
石原昌家教授「沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)
■政府主導の「公金詐取」■
現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。
当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。
無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしたことになる。違法の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。
当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。
研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。
元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。
通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。
ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用した。
当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。
申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。
沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。
■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■
当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていた。
政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。
< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。
一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。
沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。
大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。
沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。
前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」
当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。
「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」
沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >
◇
「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。
同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。
また、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。
従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。
■石原昌家氏の二枚舌■
集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなのでここでは深く立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。
石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する。
石原氏は「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなど、徹底した「軍命派」である。
その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」(軍命否定)といった自己矛盾の発言をしている。
つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と偽って申請するように示唆したというのだ。
もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。
この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆
参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって
【おまけ】
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■九州と沖縄結ぶ海底トンネル計画 完成すれば鹿児島~沖縄間が約1時間
鉄軌道設置の土地買収を巡る反対運動や経営効率を考慮したら、那覇・名護間の高速トンネル掘削の方が実現性がある。
国の考える沖縄振興 安全保障とリンク 政府が基本方針案 鉄軌道は「調査・研究」
(略)
鉄軌道に関しては、施行した改正沖縄振興特別措置法の付帯決議を念頭に「全国新幹線鉄道整備法を参考とした特例制度を含め、調査・検討を行う」と新たに記述した。
基本方針は県振興計画の指針。政府は方針案を有識者や玉城デニー知事らで構成する沖縄振興審議会に諮問し、答申を踏まえて岸田文雄首相が4月中旬に方針を決定する。方針に沿う形で県は5月中をめどに第6次振計を決定する。(政経部・大野亨恭)
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>鉄軌道に関しては、施行した改正沖縄振興特別措置法の付帯決議を念頭に「全国新幹線鉄道整備法を参考とした特例制度を含め、調査・検討を行う」と新たに記述した。
海底を貫通した青函トンネルは、日本のトンネル技術が世界最高峰であることの証左である。
青函トンネルは、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ延長53.85kmの長大海底鉄道トンネル。昭和29年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進された。
海底部の掘削では4度の大出水事故による水没の危機を初めとした難工事の連続だったが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、昭和58年に先進導坑、昭和60年には本坑が貫通し、昭和63年に津軽海峡線として開業した。
■鉄軌道より、「那覇⇒名護」弾丸トンネルを
鉄軌道の初期投資の土地買収の反対運動や経営採算から判断して、那覇名護間に鉄軌道を設置するより弾丸高速トンネルを作る方が経済効果は大きい。
沖縄の土地は石灰岩が多く、海底を削掘した青函トンネルに比べてトンネル削掘は比較的容易だという。
■ウクライナ戦争の教訓、トンネルは砲撃の避難壕にも
最近話題になっているウクライナ戦争で、ウクライナ市民がロシアの砲撃を病院などの地下中駐車場に避難している映像がある。
地下鉄の無い沖縄で、トンネルは外敵の砲撃を受けた際の防空壕としての用途もあるし、食糧の備蓄庫を併設することも可能だ。
子どもたちに思い描いた夢が形になっていく楽しさを感じてもらいたい。
名護市で、そんな学習会が開かれました。
これは子どもたちに研究者とのふれあいを通して、社会に役立つ研究の大切さを知ってもらおうと企画されたものです。
9日、名護市瀬喜田小学校の5、6年生19人が、琉球大学環境建設工学科の藍壇オメル教授たちから特別授業を受けました。
紹介されたのは、沖縄から鹿児島まで海底トンネルを掘り、リニア新幹線を通すというプロジェクト。
実現すれば、約1時間で沖縄と本土が結ばれるという壮大な夢の計画に子どもたちは胸を弾ませていました。
子どもたちは「鹿児島と道路をつなぐのを聞いて、すごいなと思いました」と話していました。
また別の子どもたちは「9日は鹿児島と沖縄をつなぐことにびっくりしました」と話していました。
また別の子どもたちは「未来にトンネルができたら楽になって、楽に行き来できることがわかりました。先生たちみたいに、みんなを幸せにできる仕事がしたいです」と話していました。
いつか、夢が形になっていくワクワク感を教授たちと一緒に感じた子どもたち。授業は、大盛況でした。
https://www.qab.co.jp/news/20190509114880.html
石嶺 経塚 ときどき「無人駅」 人手不足 1人で両駅巡回 モノ社「支障ない」
沖縄都市モノレールの石嶺、経塚両駅で昨年12月から、営業時間中に駅員が不在の「無人駅」となる時間帯が生じ、利用客や障がい者団体から懸念と戸惑いが上がっている。本来は全ての駅に常駐させるべきだが、2019年の浦添延伸に伴う要員増や採用の難航で配置できていない。今は1人の駅員が両駅を巡回しており、モノ社は「目立った支障はない」とする。一方で障がい者団体は「車いすは少しの段差だけでも乗降が大変。知的障がい者は駅員の案内が必要だ」と常駐の必要性を指摘する。(社会部・城間陽介)
モノ社によると、これまで各駅に駅員1~2人を常駐させ、障がい者が乗降する際のスロープ設置、切符販売の補助、改札口でのトラブル対応に当たってきた。
3年前の首里-てだこ浦西区間の延伸に伴い要員が増えたが、その分の採用が追い付かず、やむなく1人配置が決まったという。
石嶺、経塚駅を対象とした理由は利用客が少なく、スロープ設置が不要など設備面で支障が少ないと判断したため。改札口にインターホンを、券売機横にはモニターを設置し、リモートで対応している。
両駅を往復して対応している駅員は「当初は利用客から『なぜいないのか』と苦情もあったが最近はない」。ただ、券売機に不具合があると数分の待機をお願いし、急行することもある。「お年寄りだとモニター越しのやりとりが難しいこともある」と話す。
モノ社によると、11日時点で要員補充のめどは立っていない。運輸部営業サービス課は「求人を出しているが応募が来ない。やむを得ずこのように対応している。目立った支障があれば要員補充の緊急策も講じたい」と述べた。
(写図説明)カーテンが閉め切られた無人の駅事務室。改札にはインターホンが設置され近隣の駅員が対応する=11日午後5時半ごろ、浦添市の経塚駅
【動画】オランダの高速道路下へのトンネル“敷設”工事(所要時間48時間)の様子が興味深い「よく見ると完全通行止めにしてないところがまた凄い」
↓元ツイートはこちら
Netherlands - a tunnel was inserted under a motorway in 48 hours. pic.twitter.com/sPzQe2NkRh
【速報】日本感染症学会、コロナはただの風邪と正式決定!!!!
記者会見した日本感染症学会の四柳宏理事長は
「順調な場合には、普通の風邪とあまり大きな違いはない。検査を受けられなくても慌てないで、自宅療養をすることが大事」と述べた。
症状が重い例としては、水が飲めなかったり、動けなかったり、呼吸が苦しかったりする状態を挙げた。乳幼児では、顔色が悪い、機嫌が悪くあやしてもおさまらない、といったケースを指摘した。
飲食ができ、呼吸が苦しくない場合は症状は軽いという。発熱や喉の痛みを含む「コロナ疑い」の症状が出た場合は、仕事や学校を休んで外出せずに自宅で静養するように呼びかけた。
https://mainichi.jp/articles/20220802/k00/00m/040/271000c
早い段階からこう言って立候補した奴居なかったっけ?
いたな、変な奴だった
あいつらは本当に悪だよ。
残されたもんはしわ寄せできついんだよ!
コロナ感染した家族持ちがどんどんコロナで休んでてな・・
とはいっても重症化するような運の悪い人がオフィスに複数いるとなぁ
またたくまに事務所も崩壊する・・・
ちょっと喉痛いんすけど、
って電話するだけで休めるいい時代だろ!
保険金を貰いたいヤツは早く陽性になっとかないとね
コロナは風邪厨に言って聞かせてあげてくれ。
ついでに、喉の痛みもインフルよりキツい
風邪だって言うならもう少し手心を下さい
まぁ、寝込んで無いんだからただの風邪を証明してるな
嘘つけ!! 後遺症酷いだろうが!!
寝てれば治るよ
従来の風邪も人によりけり症状は千差万別なんですけど
栄養付けて寝れば治る
素人がどうやって判断するの???
きつい割によくネットなんかできるね
最初のレスで「きつかった」って書いてるから
今はもう治ってるんだろ。
感染しまくってるのにただの風邪?
ただの風邪ではないな
まだ暫く終わらんから気を付けろよ
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何があっても故安倍首相のせいだとする「アベガー」と叫ぶのは日本のサヨクメディア。
沖縄では、ジュゴン、サンゴの絶滅、いやヤンバルクイナやウミガメの減少も「米軍ガ―」と叫ぶ地元マスコミ。
ところが、戦時中の事となると、何でもかんでも「日本軍ガ―」と日本軍のせいにする。
まさか、メチル禍も残虐非道な日本軍の責任とは・・・・
メチル禍も日本軍の責任? <史実封殺>届かぬ沖縄の心 1
活字離れと言われ出してから久しい。
昔の学生は本を読むのが本分で、♪ 友を選ばば書を読みて・・♪と唄にも詠われていた。
最近の大学生は書は読まず、マンガやアニメでこれに代えると聞く。
我が家にも大学生が一人いるが、ご多聞に漏れず新聞はテレビ欄とスポーツ面で充分らしい。
となると、当日記が地元新聞の偏向ぶりにムキになるのも杞憂とも思われるが。
その点、敵もサルもの引っかくもの。
記事は読まれなくとも「見出し」で勝負をかけてくる。
たかが新聞、されど新聞だ。
さて、今日から始まった琉球新報の連載特集の第一回目。
この特集の説明は次のように記されている。
教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」の日本軍の強制の記述が修正・削除された件で、県代表団の撤回要求が“門前払い”された。
沖縄戦の史実の歪曲が踏みにじられた。 各界の関係者に自らの体験を交えて語ってもらうという。
社会面トップを飾る大げさな見出しは・・・。
<史実封殺> ーーーー届かぬ沖縄の心 1
戦後命絶った父
家族裂く戦 歪曲許さぬ
その第一回目だが、まがまがしい見出しとともに、写真入で小渡ハル子さん(76歳・県婦連会長)の証言を紹介している。
紙面構成からは日本軍の残虐性に対する証言者の怒りが滲み出している。
だがよく読んでみると、・・・。
「終戦後 命を絶った父」・・・父君は戦時中は神奈川に在住し、沖縄戦とは直接関わってはいない。
増してや「命を絶った」のは、敗戦後の日本で流行した「メチル禍」(★下記解説)が原因であり、これも日本軍の残虐性とは全く関係ない。
新報記事では次のように記されている。
<・・・終戦後の46年2月。 神奈川で「沖縄は玉砕した」と友人から聞かされた父は、沖縄にいる全てを失ったと思い込み、友人とメチルアルコールを飲み、自らの命を絶った。>
「自らの命を絶った」という見出しとは如何しても重ならない。
「家族裂く」・・・も偶々運悪く、父君一人を神奈川に残して一家で里帰りした為、結果的に家族が引き裂かれる不運にあったわけで、これも日本軍の残虐性とは無関係。
「歪曲許さぬ」・・・も、証言者は何一つ「日本軍の残虐性」を証明する証言をしていない。
にも関わらず、記事は最後は次のような小渡ハル子さんの怒りの言葉で結ばれている。
<「これでは『集団自決』した人たちが浮かばれない。母親集団として、検定意見を絶対に撤回させる。何度でも何度でも撤回するまでやる」と語気を強めた。今後県民大会が開かれれば、要請団の一人として文科省に出向き、多くの沖縄戦証言資料を沖縄の資料を突きつけるつもりだ。>
次々と新たに登場する年老いた証言者たちは、「教科書検定意見が集団自決そのものを否定・削除している」とでも思い込まされているのでしょう。
お気の毒に。
★メチル禍http://yabusaka.moo.jp/kai1945.htm
・・・日本では終戦直後から軍が放出したものが闇市場に流れ、猛毒性を知りながらメチル入り酒の販売が行なわれていた。そのため1年間で、報告されただけでも2000件のメチル禍が起こっており、1500人以上が死亡するという大惨禍をひき起こしていた。1946年になってもメチル入り酒は野放し状態で、死亡者はさらに急増した。46年1月から9月までの総被害者439名中292名(70%)が死亡、60名(13%)が失明したため警視庁では警鐘を鳴らす談話を発表した。ちなみに失明することから「目散るアルコール」とも言われていた。
こうしたメチルアルコール中毒死事件は戦後の混乱期に多発したが、人々の暮らしが落ちついてくるとともになくなっていった。
また同様の中毒死事件は04年5月に中国・広州でも起こっている。その後の捜査でやはりメチル入りの偽造酒が押収された。
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[戦後76年]秘した沖縄戦 今こそ 渡口彦信さん(94)読谷村
【読谷】県内外で沖縄戦体験を語ってきた読谷村の渡口彦信さん(94)は21日、本紙の取材で、自責の念に駆られてこれまで語ってこなかった戦争体験を明かした。旧日本軍の同じ部隊の負傷兵に手りゅう弾を渡したこと、水を求めて懇願する女性の前を素通りしたこと。「人が人でなくなる戦争は二度としてはいけない」と言葉をつなぐ。
1945年3月、当時18歳の渡口さんは高射砲隊に配属され、戦地で砲弾運びや水くみをしていた。米軍の機銃掃射や艦砲射撃などの攻撃に、上官や兵士が次々と死傷した。
同じ隊員で奄美大島出身の桜田1等兵もけがを負った。「ほぼ毎夜、別の壕にいる彼におにぎり一つ渡しに行って元気づけた」。ある日、上官から命じられ、おにぎりの代わりに手りゅう弾を渡した。「自決用の手りゅう弾。渡す時はお互い、何も言わなかった」
圧倒的な米軍の戦力を目の当たりにし、皆死ぬと思っていた。皇民化教育で「国のために死ぬもの」と信じ込んでいた。
「私だけ生き残ってしまった」。胸につかえる思いを抱えながら、65年に奄美大島で桜田さんの兄弟を捜して訪ね、桜田さんの戦死を知った。自決したかどうかは定かではないが、遺族には「何と言っていいか分からなかった」。
腰に水筒を掛けながら本島南部へ後退する道中、「水を下さい」と手を差し伸べてきた女性も忘れられない。視線は合ったが、そのまま通り過ぎた。なぜ、あのとき水を分けなかったのか。南部の道を通ると、女性のか細い声が聞こえてくるような気がする。
戦後76年を迎え、戦争体験を語れる人が減る中、風化を懸念する渡口さん。生き残った者の宿命として「地獄よりひどい戦争を、後世に伝えていく」と誓った。(中部報道部・宮里美紀)
(写図説明)これまで語ってこなかった沖縄戦体験を語る渡口彦信さん=21日、読谷村内の自宅
★
「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。
裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。
被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。
最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。
◇
判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。
タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。
「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。
>大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない
そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。
裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。
これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。
その結果出てきたのが、「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。
これでは話にならない。
そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」
「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。
この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。
だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。
3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない。
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない。
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面)http://osj.jugem.jp/?eid=28
◇
このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。
「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。
源氏は、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。
年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。
「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」
以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。
「論壇」
「真実」は消せない 軍命による集団自決
源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)
(前略)
住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷部落の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)
わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。
富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ。
という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。
戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝氏もこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあった。
その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。
富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。
沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。
(琉球新報 9/9 9:51)
◇
大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。
この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。
これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。
- 実相再確認動き活発化 「沖縄戦、地域問題ではない」 (9/9 9:43)
- 基地「ノー」で連帯を 軍隊を許さない女たちの会 (9/9 9:40)
出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。
2007年4月1日付の「筆洗」より。
東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)
以下引用。
六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。
(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」)
◇
偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。
その該当部分を抜粋次に引用する。
≪・・・戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)
長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。
>戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
奥茂治氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。
>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
しかし、当時16歳の金城重明氏は「手りゅう弾は貰っていない」と証言している。 そのため二つ歳上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。
手榴弾を貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。
当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。
だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。
源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると、富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。
富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。
計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。
してみると源哲夫氏の「論壇」の、「真実」は消せない 軍命による集団自決というタイトルが妙に意味深に思える
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しかし、これまでこれが憲法の「生存権」の侵害にあたるものであるのかどうか、司法の判断ははっきり明示していない。(騒音訴訟の下級審において判決文中、生存権の問題であると暗に認めたに等しい下りもあったと記憶しますが。)
もし、本訴訟で住民側が完敗という事になれば「生存権」までは言えないことになり、移転そのものの意義に疑問符がつくが、経緯やこれまでの判決から見れば、そうはならないことは明らか。
一方、この訴訟のキモは被告を国としないで、翁長知事と沖縄県にしたことである。
当然、被告側としては被告の当事者的確性を争ってくるだろう。
しかし、それはむしろ住民側(原告)の思うつぼに嵌る危険性もはらむ。
なぜなら、翁長登場前までの国や県の努力により、「普天間の危険性の除去」は目と鼻の先のところに来ている事が明らかであり、裁判所は明らかな証拠をもってそれを認めるだろうからである。
こうしたこれまでの努力や経緯を無視し、被告己が一人の判断によってちゃぶ台返しをする事は、当該原告である宜野湾市民らの権利の侵害を行なうものである。
そのことの責任はもはや国ではなく、「知事であり県である」という理論には、論理的整合性も十分でありましょう。
つまり、時間もかかり、(政権によっては)そのやり方に稚拙な面もあったが、事ここに至って国のやるべき事は被告救済の観点から必要十分であり、それをなお阻害するものが宜野湾市民のさらなる被害を助長する者である、という事が明らかとなるでしょう。
また、被告は県民ではなく実際の被害者である宜野湾市民である、というところも肝要ですね。
公正と公平を旨とする司法は、県民全体の多数意思(仮にですが)よりも、宜野湾市民の実際の被害救済を尊重せざるをえません。
誠にうまく考えられていて、翁長氏にとっては実に深刻な訴訟をかかえた、と言えそうです。
また、実に訴訟ウォッチャー延髄の妙味ある訴訟ですね。
例え、翁長知事に8億4千万円の支払い命令が出ても、翁長知事がもっている資産が限度で翁長知事が破産するだけ。
翁長知事が図々しければ、1円も支払わず、そのままもできる。
県は、流石にそんな図々しいことはしないだろうから、県に出された賠償額を支払うだろう。
だとしても、血税には違いないが。
血税はけしからんと言って県職員個人の資産で賄うことはなく、あくまで組織として払う。
もし、知事の分を県が肩代わりしても、知事の財産の範囲内でしか県に返済はない。
それは、知事の負債(払いきれなかった分)まで県が背負うことになり、更に血税を多く使うことになる。
だから、県が肩代わりすることは、ほとんどないと思う。
宜野湾住民訴訟の賠償金を誰が負担するかに関係無く、翁長知事にとって大ダメージであることは、確かだ。
宜野湾市民、GJ。
ふ~~~ん、上から目線ね……。
沖縄県民って、何様?
という世論も喚起してしまうことにも注意よ。
「沖縄県民は被害者」である→国(政府)批判への盛り上がりに欠けると、米国の世論に期待し、それも不発に終わると、今度は独立論者と結託して「民族的な迫害」を受けていると世界に向かって国連で宣伝した。
が、同じ県民から否定された。
翁長知事に投票した人の中からも「独立まで任せた覚えはない」という声がある。
○ 垂涎
他方、翁長知事は、知事という地位を訴えられているのではなく、翁長知事個人が訴えられている。
直接自分の財産、名誉に関係するので、勝訴を目指したいだろう。
県と翁長知事に温度差が出るか。
興味のあるところである。
が、職員は無罪であると、県職員が辺野古移設を反対しているのではなく、翁長知事の指示で反対の色を出しているだけで、職員は本来無色であると主張したら、面白いなぁ。
もし、「職員は本来無色であると主張したら」、組合は辺野古反対運動ができなくなる。
オピニオン面に一般投稿6本(児童生徒限定の「ぼくも私も」除く)。
「防衛費の増大 平和とは真逆」の豊見城市・佐藤悦晴さん(68)は4月5日、5月17日、6月14、26日、7月13日、8月2、16日、9月14日、10月5日に続き今年10回目の掲載。
「万人を尊重し 紛争なくそう」の那覇市・松原須奈子さん(67)は2月5、17日、5月6日、7月30日、9月13、22日に続き今年7回目の掲載。
「ゲート前抗議 子にも見せて」の沖縄市・西原聖一さん(58)は今年初掲載。
「新基地建設で 日米安保強化」の那覇市・大城良司さん(48)は1月5、19日、3月22日、4月1、18、26、28日、5月15、24日、6月9、24日、7月2、15日、8月5、18日、9月1、26日に続き今年18回目の掲載。
「王府時の境界 疑問多い」の宜保安孝さん(38)は今年初掲載。
「感性の多様性」の大宜味村・米須邦雄さん(63)は1月20日に続いて今年2回目の掲載。
カギカッコは投稿欄における見出し。
沖縄市の過激派・西原さんの主張は、ゲート前の暴力行動を児童生徒にも扇動するもので、こういう投稿を新聞に載せてはいけない。
賠償額12億円は程良い金額だと思う。
これが1億2千万円だと安すぎて翁長のダメージは無いし、120億円だと額が大きすぎて支払うという感覚が無くなるだろうし、私個人的に翁長の泥拭いの為の血税を使わせたくない。
賠償額を12億円に設定するとして、勝訴したとしても減額されると思うので、原告の人数をもっともっと増やした方が良いと思います。
狼魔人様、原告団の募集先が分かれば教えて頂けますでしょうか。チラシを作って宜野湾市内にポスティングを行って告知いたします。
宜野湾市の現在の人口は9万4400人。
私は法律に疎いのですが、この裁判に勝った後、更に他の宜野湾市民が同じ訴訟を起こせるのでしょうか? どなたか法律に詳しい方、教えて頂きたいです。
もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。
沖縄県民の敵、売 国 奴 の翁長雄志を1日も早く駆除したいものです。
>もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。
普天間爆音訴訟に見習って1万人訴訟が実現したら「オール沖縄」も粉砕ですね。
>オール沖縄の粉砕、最高です!
沖縄マスゴミも相当な打撃を与えるでしょうね!
賠償について
別の見方をすると、普天間基地の恩恵を受けず不満を持っている市民が大勢いると思います。
近所の豪邸は基地地主で、うちはボロアパートの住人など。
1万人訴訟だと、一人当り訴訟費用が500円として、賠償額が300万円としたら、不満に思っている人や、貧乏の人たちは皆んな飛び付くでしょう。良くも悪くも。
家族5人だと1500万円の儲け(訴訟費用500円は勝訴で戻って来る)
賠償で儲けるという考え方は悪いかもしれませんが、反日左翼やマスゴミを叩く結果となるから沖縄県民や国民にとっては良いと思います。
辺野古住民の皆様もこの訴訟を見習って、名護市と稲嶺市長を訴えましょう!
漁業に何年も居座り続ける反対派テント。
辺野古の方々がテントの撤去を名護市に陳情しても無視し、事もあろうに稲嶺はこの反対派テントに激励に来るぐらいですから。
また、相手が国(国土交通省)になってしまいますが、キャンプシュワーブ前の反対派テントも訴えて欲しい。
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