爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(21)

2012年10月04日 | Untrue Love
Untrue Love(21)

 ぼくは玄関の鍵を開ける。その行為を誰かに見られているということは今までなかった。だから、その感覚が自分でもいくらか不自然のようにも思えていた。ぎこちなくなるほどでもないが、いつになく自分自身と、鍵をまわしている姿を他人のようにも感じた。

 それで、部屋に女性がいる。ぼくはユミの部屋にこの前、誘われて入った。しかし、それは彼女の領分での変化で、ぼくのこころには直接には関係ないともいえた。こころではなく領域なのかもしれない。彼女がいることによって部屋自体に変化がせまられている。匂いも変わり、空気も変わる。ぼくが動かなければ日常の部屋の空気は移動しないが、いまはそうではない。彼女が動くと、部屋の空気もぼくのこころの状態も変わった。何かが押し出され、何かがやすやすと入り込んできた。

「2本、開けちゃうよ」ユミは缶を手に取り、二本のビールを開けた。それをきっかけにして少しだけ泡が吹きこぼれる。ユミはひとつをテーブルに置き、もう一本を自分の手の平に握ったままにさせた。それをぼくらは同じ高さに上げて、唇をつけた。「おいしいね」と自然な感想を述べ、それから、彼女はポテト・チップスの袋を開いた。

「皿でも、出そうか?」
「いいよ、このままで」彼女は親指と人差し指でひとつつまんだ。「ここ、誰か女のひとが来たことある?」
「ないよ」ぼくは、その事実を確かめるように首を振って部屋のなかを見回した。
「じゃあ、わたしがはじめてなんだ」

「そうだよ」ぼくはビールを飲む。一年がはじまったばかりの午後。
「嬉しいな」彼女も部屋のなかを見回す。「意外ときれいにしてるんだね」
「大学に行って、バイトに行って、部屋を汚すほど、時間もないのかもしれない」彼女はまじめにきいていたのだと思うが、あくびをした。後先も考えずに遊び、働いたのだろう。そして、ユミは思い出したようにCDを出した。
「なにか、かけられるものあるんだよね? 音楽」
「あそこに、あるよ」ぼくは小さなプレーヤーを指差し、そばに寄り持ち上げた。あいにく、コンセントが抜けていたようで空いている穴に差し込んだ。彼女はCDをセットして、ボタンを押した。予想以上に小さな音で流れたので、彼女はボリュームを上げる。

 彼女は聴き入るように目を瞑り、そのうちに口ずさみはじめた。低音の男性の声に合わせるように彼女も低い音で発声した。ぼくは声というものがこれほど個性があらわれるものだと思っていなかった。それが音楽の声を指しているのか、ユミのことを思っているのか判断できなかった。だが、声が空気をふるわせてぼくの耳に達しているのだから、その熱を帯びた身体を有している方が、より身近に感じるのだろう。

「音楽とか、楽器とか好き?」
「聴くのは楽しいけど、演奏とかはまったく」
「わたしは習っていたけど、もっとつづけていれば良かったな。直ぐにほかのことに関心が向いちゃうタイプだから」
「でも、手に職があるじゃん」
「まだ、これからだよ」そして、ポテト・チップスを口に入れた。

 午後はゆっくりと過ぎる。だが、冬の太陽は足早に仕事を切り上げる。窓の向こうは段々と暗くなってきたと思ったら、次にはもう真っ暗だった。ぼくはカーテンをしめる。またビールの缶を冷蔵庫から取り出して部屋に戻ってくるとユミをまたぐような形になる。部屋はそれほど広くもないのだ。彼女は首を下げていた。音楽を熱心に聴き入っているのかと思ったら、いつの間にか居眠りしているようだった。あくびを連続して繰り返したのも終わり、いまは音のない世界にいるのだった。ぼくは上着を彼女の膝元にのせる。そして、CDを止めて、部屋を無音にさせる。缶をまとめてビニール袋のなかに入れ、流しの横に静かに置いた。ぼくはすることもなくなり、彼女の横顔を眺めた。光線の加減か白黒の世界のようでもあり、立体的な部分もあった。ただ、いつもの躍動的な姿の彼女はそこにはなく、静寂のなかに閉じ込められてしまったようだった。そうしていると、彼女の魅力は減少してしまうのかといぶかったが、まったくそんなことはなかった。杞憂に過ぎなかった。だが、ぼくのことが退屈な人間なのかと疑念もいだいた。そう思っていると彼女は目を開いた。

「やだ、わたし、寝てた?」
「そうでもないよ。ただ、うとうとしているようだったけど。つまんない?」
「ごめんね。全然、そんなことないよ。音楽、聴いてたらリラックスした。部屋も暖かいし、安心を与えてくれるような場所だから」

 彼女は両腕をあげて身体を伸ばす。その自然な振る舞いを見て、ぼくはいつもの彼女との接点を見つける。
「髪、また伸びた。もう、店に来ることないよ。ここで、切ってあげる、今度」彼女はぼくの髪に触れる。カラフルな服を着ていたが、そこだけは爪も短く色もなかった。「女の子の髪も切りたいって、お願いしたと思うんだけど」
「うん。腕は試せたけど、ぼくに女性の友人がいない」
「残念だね」しかし、彼女の口調はそう残念そうにも伝わってこなかった。ぼくは彼女が目を覚ましたのを機に薄暗い部屋の電気のスイッチを着けた。ユミはそれを合図のように、「まぶしい」と言葉を発した。彼女はわざわざぼくの手を取り、自分の目を隠した。ぼくは急にそうされて前のめりになった。「まぶしかった。でも、もう大丈夫」
「誰だ?」ぼくは緊迫した部屋の空気をおそれるようにわざとふざけた。
「眠い女性を部屋に呼んだ大学生」と、彼女はかすれたような声で告げた。