Untrue Love(26)
ぼくはいつみさんの背中を見ている。彼女の髪型が自然にカットされていることを確認する。それは誰が切るのだろうと考えてもいる。自分の肉体的な癖があり、髪の生え方や、爪の伸び方や形など、そのひと自信をあらわす癖、いや、それよりも個性の範疇に入るものもあった。ぼくはその髪質や触り心地のことにも思いを馳せた。無骨さなどない女性の肉体が目の前で動いている。
「それで、全部かな」彼女は放り出した戦利品のようなものを他人行儀にながめていた。いまから所有者が変わるのだ。そもそも、いつみさんのものでもなかった。一時的な居留地のようにそこに保管されていただけなのだった。彼女が考えていたか、悩んでいたかの時効が過ぎ、それは手放される運命になった。ぼくは自分がいまなぜその服を見ているのかも謎だった。彼女のほんとうの気持ちも確かめることは不可能だった。「着てみれば。背丈も合うと思うよ」それは誰かのことを思い出している証拠だった。ぼくは彼女が好きそうな身長をもっているのだろうか。身体の厚みを有しているのだろうかと想像した。
「ここでですか?」
「そうだよ」
「恥ずかしいですね。なら、引き取る手数料か、もしくは処分するご褒美みたいなものがほしいですね」
「ただで洋服がもらえるのに? 贅沢にできてるんだな、順平くんは」彼女はその提案のことについて一瞬だけ思案しているような表情をした。そして、直ぐに思い掛けないことを言った。「いいよ、一着ごとに、一回ずつキスしてあげる」
「誰がですか?」ぼくは驚いている。だが、実際は嬉しい気持ちがぼく自身を覆っていた。
「ふたりしかここにいないじゃん。それを、言ったのはわたししかいない。さ、脱いで」
いつみさんはぼくの前にまわり、両手を上げさせ服をもちあげた。手首や顔をぬけるときに、いくらか手間取ったがそれほどに時間を費やす仕事でもなかった。それで、ぼくは上半身、裸になる。
「急に脱ぐと、寒いですね」
「いいから。はい、一着目」彼女はシャツをぼくの身体に羽織らせた。二、三個のボタンを簡単に留め、身体を少し離してぼくのことを見た。「なかなか、似合うよ。はい」彼女はぼくの唇に近寄る。お酒の酔いが手伝わなければしなかったかもしれない。ぼくは満足しながらも、少しだけ不服にも感じていたのだろう。それは、彼女が一方的に決めたものだった。ぼくのこころは関与すらしていなかった。「はい、次」
「義務的ですね」
「だって、義務的に処分するんだもん」彼女はいま脱いだものをたたみ、横のテーブルに置いた。「次、これ」
ぼくは着せ替え人形のように手を伸ばす。そうされると、彼女の愛の一端が感じられるのだ。それが、ぼくへの愛なのか、むかしの男性への愛の喪失を手伝うだけなのか、本当のところは分からなかった。だが、分からなくて当然だとも思っていた。ぼくは、ただの意識もない人形なのだ。着せ替えられるのを待つ意志もない人形なのだと思おうとした。だが、彼女の唇が近寄るたびに、ぼくは人形ではないことを知る。生身の、無防備な生身の姿をもつ人間なのだ。その人間であるぼくは、永遠に着る物があればよいとも思っていた。だが、服の枚数は底をついてしまうのだろう。いずれ。それほど遠くない未来に。
「残念ですね」
「それで、最後だよ。もう、脱がなくていい。それ、着たままにしな」
「いやですよ。自分のを着て帰ります」
「じゃあ、脱いで。うるさいな。酔い覚ましのお茶でも入れてあげるよ」
「これを着たら、最後にキスがまってますよ」
「その服、順平くんのだろう?」
「だって、約束ですよ」
「そんな約束入ってないよ」彼女は流しでヤカンに水を入れていた。まわした蛇口から出る水の音がかなり大きな音で響いた。ぼくは最後の服を着て、彼女のそばに近寄った。
「はい、着ました」
「分かったよ。最後」ぼくは、五、六回だけ彼女の唇に接したことになる。「これで、終了。コーヒー入れるよ」
「思い出話もしてくださいよ」
「それも約束に入っていないからダメ」
ぼくはキッチンのテーブルに向かって座った。いつみさんが戸棚を開けたり、スプーンを探したりしている様子をそこで眺めた。カタコト言わせながらふたつのコーヒーが用意された。彼女もぼくの斜め前に座った。そこで、ぼくのテーブルの上に置いた手の上に自分の手の平を軽やかにのせた。「ありがとう」と、そっとそれからささやいた。
「こちらこそ。新しい服が手に入った」
「忘れるって、わたしみたいなのが忘れるのって、誰かのことをペンキみたいに上塗りさせることしかできないのかも。そういう作業が必要なのかも。手伝う?」
「どういうことですか?」
「ロマンチックじゃないな、順平くん」ぼくはコーヒーを飲み干す。彼女はそれよりか早く飲み終わっていた。大きな袋を用意して洋服をそこに入れた。
「もう一回、試着しようかな」と、ぼくはこの時間の重い空気を嫌い、無邪気をよそおいそう言った。
「バカだな、順平くん。でも、いいよ」彼女は微笑み、長い時間、今度はキスしてくれた。それはあまりにも長く、先ほど見た映画より長く感じた。それに彼女の唇は移動して、ぼくの首のほうにまですすんだ。ぼくは服の入った袋につまずきそうになり、倒れるのを避けるためより一層、彼女に近付く口実を見つけたように喜んだ。
ぼくはいつみさんの背中を見ている。彼女の髪型が自然にカットされていることを確認する。それは誰が切るのだろうと考えてもいる。自分の肉体的な癖があり、髪の生え方や、爪の伸び方や形など、そのひと自信をあらわす癖、いや、それよりも個性の範疇に入るものもあった。ぼくはその髪質や触り心地のことにも思いを馳せた。無骨さなどない女性の肉体が目の前で動いている。
「それで、全部かな」彼女は放り出した戦利品のようなものを他人行儀にながめていた。いまから所有者が変わるのだ。そもそも、いつみさんのものでもなかった。一時的な居留地のようにそこに保管されていただけなのだった。彼女が考えていたか、悩んでいたかの時効が過ぎ、それは手放される運命になった。ぼくは自分がいまなぜその服を見ているのかも謎だった。彼女のほんとうの気持ちも確かめることは不可能だった。「着てみれば。背丈も合うと思うよ」それは誰かのことを思い出している証拠だった。ぼくは彼女が好きそうな身長をもっているのだろうか。身体の厚みを有しているのだろうかと想像した。
「ここでですか?」
「そうだよ」
「恥ずかしいですね。なら、引き取る手数料か、もしくは処分するご褒美みたいなものがほしいですね」
「ただで洋服がもらえるのに? 贅沢にできてるんだな、順平くんは」彼女はその提案のことについて一瞬だけ思案しているような表情をした。そして、直ぐに思い掛けないことを言った。「いいよ、一着ごとに、一回ずつキスしてあげる」
「誰がですか?」ぼくは驚いている。だが、実際は嬉しい気持ちがぼく自身を覆っていた。
「ふたりしかここにいないじゃん。それを、言ったのはわたししかいない。さ、脱いで」
いつみさんはぼくの前にまわり、両手を上げさせ服をもちあげた。手首や顔をぬけるときに、いくらか手間取ったがそれほどに時間を費やす仕事でもなかった。それで、ぼくは上半身、裸になる。
「急に脱ぐと、寒いですね」
「いいから。はい、一着目」彼女はシャツをぼくの身体に羽織らせた。二、三個のボタンを簡単に留め、身体を少し離してぼくのことを見た。「なかなか、似合うよ。はい」彼女はぼくの唇に近寄る。お酒の酔いが手伝わなければしなかったかもしれない。ぼくは満足しながらも、少しだけ不服にも感じていたのだろう。それは、彼女が一方的に決めたものだった。ぼくのこころは関与すらしていなかった。「はい、次」
「義務的ですね」
「だって、義務的に処分するんだもん」彼女はいま脱いだものをたたみ、横のテーブルに置いた。「次、これ」
ぼくは着せ替え人形のように手を伸ばす。そうされると、彼女の愛の一端が感じられるのだ。それが、ぼくへの愛なのか、むかしの男性への愛の喪失を手伝うだけなのか、本当のところは分からなかった。だが、分からなくて当然だとも思っていた。ぼくは、ただの意識もない人形なのだ。着せ替えられるのを待つ意志もない人形なのだと思おうとした。だが、彼女の唇が近寄るたびに、ぼくは人形ではないことを知る。生身の、無防備な生身の姿をもつ人間なのだ。その人間であるぼくは、永遠に着る物があればよいとも思っていた。だが、服の枚数は底をついてしまうのだろう。いずれ。それほど遠くない未来に。
「残念ですね」
「それで、最後だよ。もう、脱がなくていい。それ、着たままにしな」
「いやですよ。自分のを着て帰ります」
「じゃあ、脱いで。うるさいな。酔い覚ましのお茶でも入れてあげるよ」
「これを着たら、最後にキスがまってますよ」
「その服、順平くんのだろう?」
「だって、約束ですよ」
「そんな約束入ってないよ」彼女は流しでヤカンに水を入れていた。まわした蛇口から出る水の音がかなり大きな音で響いた。ぼくは最後の服を着て、彼女のそばに近寄った。
「はい、着ました」
「分かったよ。最後」ぼくは、五、六回だけ彼女の唇に接したことになる。「これで、終了。コーヒー入れるよ」
「思い出話もしてくださいよ」
「それも約束に入っていないからダメ」
ぼくはキッチンのテーブルに向かって座った。いつみさんが戸棚を開けたり、スプーンを探したりしている様子をそこで眺めた。カタコト言わせながらふたつのコーヒーが用意された。彼女もぼくの斜め前に座った。そこで、ぼくのテーブルの上に置いた手の上に自分の手の平を軽やかにのせた。「ありがとう」と、そっとそれからささやいた。
「こちらこそ。新しい服が手に入った」
「忘れるって、わたしみたいなのが忘れるのって、誰かのことをペンキみたいに上塗りさせることしかできないのかも。そういう作業が必要なのかも。手伝う?」
「どういうことですか?」
「ロマンチックじゃないな、順平くん」ぼくはコーヒーを飲み干す。彼女はそれよりか早く飲み終わっていた。大きな袋を用意して洋服をそこに入れた。
「もう一回、試着しようかな」と、ぼくはこの時間の重い空気を嫌い、無邪気をよそおいそう言った。
「バカだな、順平くん。でも、いいよ」彼女は微笑み、長い時間、今度はキスしてくれた。それはあまりにも長く、先ほど見た映画より長く感じた。それに彼女の唇は移動して、ぼくの首のほうにまですすんだ。ぼくは服の入った袋につまずきそうになり、倒れるのを避けるためより一層、彼女に近付く口実を見つけたように喜んだ。