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Untrue Love(29)

2012年10月13日 | Untrue Love
Untrue Love(29)

「本を読み終わったら、どうしているんですか? 手狭な場所だと荷物になるでしょう? 実家に送るとか?」ぼくは立て続けに質問する。一度、その場所に足を踏み込んだことがある。木下さんの領域。

「まさか。処分しようかと悩んでいるんだけど。ゴミに出すのももったいないし、古本屋さんも近くにないしね」彼女は困ったような表情をする。「何かいい解決法はないのかね・・・」
「捨てちゃうのも、困りもんですね」ぼくは、わざとらしく頬杖をつく。
「じゃあ、重い荷物を運んでくれる?」彼女は両手で大きなバックを持ち上げるような仕種をした。重さを軽量するような肩の動きで。

「いいですけど、それより、お勧めのものはぼくが読みますよ」
「そう?」久代さんは解決策を思いついたひとのように、漫画なら頭上に電球が灯ったような顔をした。「でも、どれもこれも大事な思い出が詰まってるから、お勧めもいっぱいある」
「それじゃ、いっぱい読みます。通学途中とか、バイトに来るときとかを使って」
「有効利用ね」

「何かひとつ、そのなかのひとつのあらすじを話して教えてくださいよ」
「どれにしようかな。でも、甘えん坊ね。寝る前にベッドの横でお母さんに本を読んでもらったとか?」
「全然。母はキッチンで毎晩のように泥酔してましたから。皿やグラスを放りながら、わめき散らして」
「ほんと?」久代さんの驚いた表情は魅力的だった。

「まさか。まじめなひとです。ちょっと、おっちょこちょいだけど」
「そう、安心した」彼女の安堵の様子は世界平和がついに訪れたような表情だった。その為に嘘をついたことを後悔しつつも、その表情を得られたことで自分の嘘にも満足した。「ところで順平くんは、自分の顔とかに不満がある?」
「とくにはないけど、そんなに好きでもない」
「でも、それが自分でしょう?」
「まあ、そうですね。こころの深い部分を示して、これが自分ですと言っても誰も理解しない。普通、みな外見で判断しているから」

「そうよね。でも、そこそこには人気があったでしょう?」
「どうなんでしょう。そこそこと言われると納得するか否定するか困りますけど」
「ごめんね。つまりは、顔全体がにきびに覆われるとか、自分のことにいわゆるコンプレックスを感じたとか、そんなこともないわけでしょう?」

「ないかもしれないですね。でも、みんな70点ぐらいとか、自分のことを思って生きているんじゃないですか。そうじゃないと川が自殺したひとたちで埋め尽くされる。久代さんだって、人気があったでしょう?」
「わたしたちの周りは、みな男性がまじめなのか口にして言わないから」
「きれいですよ」

「そういう言葉は将来の大切なときに取っておいて」ぼくは、赤い布に突き進みながらも、ひらりと優雅な布切れで颯爽とかわされる牛なのだ。「わたしはひとりで、そういう悩みをもつ男性の告白のような文章を読むのが好きなの。自分自身で確固とした価値観をつくればいいのに、作れる才能ももっているのに、それでも、女性たちに好かれたいと単純に思っている。わたしたちって、そんなに素敵? 魅力的? 価値がある?」店のなかの誰にも聞かれないように段々と声のトーンを落として久代さんが言った。

「そう言われると困りますけど、女性は鏡なんですかね。そこに写さないことには自分の存在も認められない」
「鏡なら無口でもいいのね?」
「多分、いいと思いますよ。その本、貸してくれるんですか?」
「貸してあげるよ。もっと、いっぱい」
「取りに行きます。これから」
「取りに来て。え?」
「誘導尋問です。引っ掛かりました」
「いいよ。みんな、持って行って。それに、うちまで送ってよ。もう、疲れて、酔ったから」彼女は華奢な時計を見る。文字盤は限りなく小さく、二つの針もあまりにも小さなものだった。顕微鏡でも使わなければ、正しい時間すら分からないもののようだった。

 ぼくは、一時間にも満たないうちに久代さんの部屋にいる。壁に設置されている低くもない本棚を前にしてたたずんでいる。靴が保管されている玄関の一角の場所も立派なものだった。だが、部屋と比較してバランスが悪いものだった。全体的に久代さんの完成されていない人間像を表してもいるようだった。まだ、ぼくは本棚を見ている。背丈の合った文庫たち。そうしていると彼女がぼくの背中にもたれかかった。その仕方が不慣れなひとのようだった。ぼくでさえ、そのような機会も経験もなかったが、彼女のまじめな感じと衝動が自然と伝わってきた。ぼくは、わざとその棚からどうでもいい一冊を引き抜き、彼女の方に振り返った。靴を売る女性。だが、いまは裸足の女性。そのいつもより低くなった身体をぼくは受け止める。なぜ、ぼくは、こうも簡単に女性たちの魅力に負けてしまうのだろう。父や友人の早間は、こうした体験をどう乗り切ってきたのか、ぼくは久代さんを前にして考えている。だが、直ぐに考えることも止める。彼女はにきびにも覆われていない。昨夜、寝静まったときに深々と積もった純白の雪のような肌だった。それが少し赤らむ。眼のまわりを眺める。口にしないたくさんのことがそこに在る気もしたし、また何もない気もした。あの惑星に生物はいるのだろうか? というひとりの科学者のような疑問を考える。その証明の如く、彼女の吐息がぼくの頬にかかる。ぼくの頬が月の表面で、彼女の吐息が滋養分を含んだ雨。ならば科学も簡単に答えを見出せそうなある夜の終着だった。
コメント
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