爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

Untrue Love(28)

2012年10月12日 | Untrue Love
Untrue Love(28)

 久代さんの眼のまわりの化粧を眺めていた。真ん中の瞳は潤んでおり、周りが黒く細く縁取られている。それが彼女に可憐な印象を与え、かつ静謐な表情も際立たせている結果となった。ぼくは彼女の言葉を忘れる。いや、彼女の声を忘れる。いつみさんのいくらかハスキーな声は覚えやすかった。逆に久代さんは黙っている印象が濃く、それで声の存在を思い出しづらいのだろう。

 しかし、黙りつづけて欲しいのだろうか。そのようなことは決してない。ぼくは彼女の優しい言葉も信じていた。適切なときにささやかれる言葉こそ、彼女の信条のようだった。

「なに、黙っているの?」
「久代さんの声って、なぜだか忘れてしまう」
「どういうこと?」
「黙っているのが魅力的だからですよ」
「何それ。え、わたし、なまってる? ねえ、方言が出てる?」
「出てないですよ」
「良かった。でも、どういうこと? 黙ってろってことなの?」

「まさか。笑顔が似合うひともいれば、真剣に何かに取り組んでいる表情が美しいひともいる。両方がきれいなひともいる。話すと大らかに見えて開放的に感じられるひともいる。静かにしているとお人形のように美しいひともいる」
「順平くんは女性を分析できるのね。それで、わたしはどれに当てはまるの?」
「静かな女性。こういう暗い店内にほのかな明かりが灯ったなかにいると際立つ」
「わたし、普段は明るい場所で靴を販売しているんだけど・・・」彼女は困ったように笑う。おでこから眉間に数本のすじが入る。その計算されていない表情に幼さが紛れ込んでいた。「黙ったままだったら、いろいろなひとに迷惑がかかるよ」
「靴も売れないし」
「そう。わたしのお給料も出なくなっちゃうし」

 しかし、ぼくはその様子を黙って見ていたかった。それで何が生まれるわけでもない。だが、生まれる必要もないのだ。既に完成されていた。ぼくは将来、彼女がどう変化するなど考えてもいなかった。幼いときの愛らしさなども未発見だった。それで何の支障もないのだ。ぼくは一部だがいまの彼女を所有している。所有じゃないかもしれない。ただの時間の共有だ。でも充分だった。

「すると困りますね、生活が」
「黙って静かにしている仕事なんかあるかしら? あれば、やってみたいけど」その会話はもう空想の範疇に入っていた。
「絵のモデルとか。美容室のモデルとか」
「順平くん、絵が描ける?」
「まったく。才能なし。だから、売れる見込みもなし」

「美容院でカットか。そうだ、たまに見かける可愛い子いるよね? 駅から歩いていると」それは、どうやらユミのことを指しているようだった。ぼくはなぜだか彼女と関連付けられることを恐れた。それは一抹のやましさが自分の内部にあるからだろうか。
「いますかね・・・」
「いるじゃない? たまに奇抜な格好をしているけど、とても似合っている子が」
「見つけます」
「ああいう子は、お人形さんじゃないよね。自分でしっかりと生き方を見つけて、それに向かって邁進して」
「そういうひとなのか・・・」
「ごめんね、飽きた? 話題をかえるね」そう述べたが、かといって他の話題に移ることもなかった。ぼくが切り出すのを久代さんは待っているようだった。しかし、ぼくはユミのことを思い出してしまっていた。冬の朝。彼女はぼくの横で寝ている。奇抜な格好も躍動感も一切、関係なく布団にくるまれて眠っていた。その思いを中断させるかのように久代さんが話した。「勉強もしてるの?」

「ぼくですか? してますよ。それが仕事だから」
「今日みたいな気分転換が長過ぎない?」
「大人になったらみんなできなくなるって言ってますから。久代さんはまじめな学生生活を送ったんでしょう」
「そう、もったいない。でも、地元じゃおかしなことをすると目立っちゃうからね。両親はいろいろ忠告するの?」
「さあ、少しぐらい羽目をはずすことは許容範囲じゃないですか」

「わたしみたいなひとより、同学年の可愛い子といっしょに居るほうが両親の望みかな?」
「どうでしょう。でも、ぼくの人生ですし、好みもありますから」
「そういうことを言っていると、あとで取り返しがつかなくなるよ」
「久代さんは、本を読みすぎですよ」
「そうかもね」

 しかし、取り返しのつかない、というセリフに憧れを抱き、それを取り込もうとしている自分がいた。だが、どうなったらそういう状態になるのか見当もつかなかった。ただ、自分のこころを自由にさせ過ぎ、好きな女性が多すぎるという結果には既になっていた。だが、それでまだ困ったことにはなっていない。いつかそれで自分の首が絞まる予感もなかった。なればなったで、そのときに考え、解決すれば良いのだ。その日が取り返しのつかないという立場になっていなければよかったのだ。それほど、ぼくは好かれないだろう。これまでの人生がそれをはっきりと証明している。たまたま、いま、久代さんは暇なだけなのだ。だから、ぼくに関わっている時間があるのだ。その暇な時間が根底から崩れれば、今度は、ぼくが本でも読めばいい。寝転がって。その前に数冊、本でも借りておこうか。ぼくは服も本も誰かを経由する可能性があることを知る。その確認のためまた自分の服の裾を引っ張る。