爪の先まで神経細やか

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Untrue Love(35)

2012年10月19日 | Untrue Love
Untrue Love(35)

 咲子はいつみさんの店で働くことを嫌がりもせず、また喜ばないまま納得した。渋々とした様子も見せずに、かといって嬉しいという気持ちもぼくには伝わってこなかった。命令されたり指示されたりすることに抵抗がないのか、反抗したりする気持ちもまったくないのか、ぼくには見当がつかなかった。そのことをキヨシさんといつみさんに言うと、取り敢えずは一日だけいっしょに働いてみて任せられそうなら合格ということだった。

「ここだよ」ぼくは店の前まで連れて来る。「そんなに大きな店でもないから安心して」咲子は頷く。
「この子か。いつみです、よろしく」いつみさんが店の前まで出て来て、咲子に握手を求めた。まるで、外国の一都市にいるかのように。「わたしができるぐらいだから、大変じゃないよ、そんなに。な?」今度はいつみさんがぼくに向かって言った。
「でも、咲子はこっちでバイトをしたことがないから」その前に質問してみると、彼女は高校時代に接客をしたことがあるようだった。もちろん、アルコールを出すような店ではないが、それでも、要領ぐらいは分かっているのだろう。

「分かったよ。いいよ。じゃあ、保護者は退散」いつみさんは手でぼくを払い除けるような仕種をした。
「冷たいですね」いつみさんはもうぼくの方を見てもいなかった。「じゃあ、帰りに迎えに来るよ」とぼくは今度は咲子に言った。彼女はいつものように頷くだけだった。

 ぼくはぼくの領域で働いていた。もう大して頭も使わない。手を抜けることも秘かに覚えた。他のひとから見れば、それは秘かどころではないのかもしれない。大っぴらになっているのかもしれない。だが、精密さが求められている仕事でもなかった。寸分の狂いが大問題になる訳でもない。ただ、予定されたことを予定されたルートで、予定内に終わらせれば済むことだった。

 その頃は贈り物のシーズンのため、終わるのが遅かった。ぼくは手や顔を洗い、知人たちに挨拶をして、そこを去った。それから、いつみさんの店の前まで行く。直ぐにドアを開けることはなく、室内の雰囲気をさぐった。すると、いつみさんの顔が見えた。横には咲子がいた。茶色い地味な感じのエプロンを腰に巻きつけていた。

「いらっしゃい。お、順平くんか。どうぞ」いつみさんが端の椅子を指差す。「暇なときに順平くんの幼いときの話もきいたよ。咲子ちゃんに・・・」彼女がすすんで何かの話題を提供することなど考えられなかったが、いつみさんが嘘を吐くことも同じぐらいに考えられなかった。
「そうなんだ。いい話だと気が楽だけど」
 咲子は帰るお客さんの勘定を受け取り、おつりを確認して、わざわざ、いつみさんにその差額をチェックしてもらって、待っているお客さんに返した。

「いつみさん、新しい子を雇ったの?」と、常連とおぼしきひとが声をかけた。「また、近いうちに来るようにしなきゃ」
「わたしが、来週休むから、その期間だけ」
「そうか、残念だな」いつみさんがいなくなるのが残念なのか、その期間しか咲子がいないことが残念なのかが口調からでは分からなかった。
「気に入られたみたいね」いつみさんは、だがそう判断した。「順平くん、合格だよ」
「そう、良かった」
「紹介料で1杯、おごってあげる」

「オレからも、なんか作って出すよ」奥でキヨシさんも言った。「悪い虫がつかないように、順くん迎えにくるんだろう?」
「さあ、キヨシさんの腕の太さを見たら、安全だと思いますよ」
「わたしには、そういう心配しないの?」と、いつみさんがつづけて言う。
「少しぐらいは、ついた方がいいんじゃないか。ナフタリン臭いおばさんになる前に」
「あいつ、ひどくない?」誰に言ったのか分からないが、いつみさんがつぶやく。それにつられて咲子も笑った。
 それから、少し経ってぼくと咲子は店を出る。いつみさんといっしょに帰る訳にはいかなかった。
「どう、できそう?」と、ぼくは歩きながら訊く。

「うん。思ったより、居心地が良かった」だが、彼女はどこにいても、自分の場所を探しえないひとのようにも見えた。「順平くんは、とても仲がいいんだね、あのふたりと?」
「なぜか、しらないけど、よくしてくれる」
「好きなんでしょう?」
 ぼくはその問いかけが、店全体を指しているのか、いつみさんのことを対象にしているのか、キヨシさんのことを告げているのか、その両者のことなのか決めかねていた。だが、答えは決まっていた。
「好きだよ」その答えに咲子は微笑んだ。
「いろいろありがとう。髪も切ったし、お小遣いももらえるようになった。自分で稼いで」

 ホームで別れ際に彼女は言った。もう、友人が増えたので、会う機会も減ると、付け加えて言って欲しかったのかもしれない。同時に、それもさびしいとも思っていた。だが、言葉はそこで途切れた。彼女はその小遣いでなにを買うのかと、ぼくは帰りの電車のなかで考えていた。しかし、なにも思い浮かばない。自分も親に、父や母になにかを買ってもいいのだ、ということには気付いた。「好きなんでしょう?」と、先ほど咲子は問いかけてきた。ぼくが好きなものを今度は考える。そこには先頭にいつみさんがいた。彼女がいつもと違う格好をして友人の披露宴でそばに立っている姿を思い浮かべる。それを見られないことを残念に思っていた。もう一度、咲子の声で、「好きなんでしょう?」と問われたかのように感じた。ぼくは答えはしないが、揺れる吊り革につかまる車内で、当然のこと、答えは決まっていることを知っていた。