Untrue Love(27)
木下さんと最近、話していなかった。顔はときどき、見かけていた。向こうが話す必要もないと思っているのか、ぼくのことを忘れてしまったのかも判断できなかった。忘れるという表現すら似つかわしくないのかもしれない。ぼくらには一定の関係が構築されているのでもないのだ。だが、ぼくの視線は彼女を探すようにもできていた。
ぼくはたくさんの女性を知っている訳でもない。学校の同級生がいて、それに付随するクラブとか部活動や塾で知り合った女性がいただけだ。その数人とは親しく話すが、混み入ったことを話すこともない。そもそもひとりと交際し、ひとりと別れただけの高校時代があるだけなのだ。それも、すべてが順調にすすんだのでもなく、途中で終わりになった。それが女性のデータを集めるための情報やサンプルになるには、あまりにも桁外れに少ないものだった。だが、最近は変わった。ぼくの前にはユミがいて、いつみさんが加わった。その変化にいちばん驚いているのは自分だった。ぼくは「この町」と呼びながら、勝手にバイトをしている町を自分の青春と一致させ、また定義づけさせようとしていた。この町で数人の生きた女性のことを知る。頭で知った訳でもない。すべて体験という体当たり的なものだった。
ぼくは働きながらその階に用があれば、木下さんの横顔を見た。彼女は裏に回り、何かを探している。多分、靴の在庫であろう。
「山本くん、これ、手が空いたら片付けてくれる? ごめんね」彼女は忙しなくそう言って売り場に戻った。ぼくは言われたまま箱を潰し、奥に持っていった。しかし、彼女は忙しくしながらも、いつも、ヒューマンな感じを忘れていなかった。ぼくらがまるで対等な人間でもあるかのように優しく接してくれた。
「さっきはごめんね。ありがとう」終わりがけに彼女が声をかける。ぼくは首を左右に振り、その言葉をもらう必要もないことを身体の動きを通して告げる。「口がきけなくなっちゃったの? どうしたの? 後で付き合う?」と言って最後の時間まで懸命に働く素振りをした。その前に、壁に向かってある方角を指差した。多分、待っててか、待っているという合図だろう。
ぼくは着替え、いつもと違うルートに行く。いつみさんの店の前は通らない。ぼくは彼女の唇を思い出す。そのいくらかハスキーな声も思い出していた。だが、いまは木下さんに会おうとしていた。
木下さんはある通りの前で待っていてくれた。
「元気ないみたいね、順平くん・・・」彼女は下からのぞくようにぼくの顔を見て、様子をうかがった。
「そんなことはないですよ。ただ、久代さんはいつも優しいなって」
「どうして?」
「特に理由はないですけど・・」
「そんなことはないでしょう。何か理由があるから、そう言うんでしょう? ごめん、何か食べながら話そうっか」彼女は黙って歩きはじめた。ぼくがついていくことを知って。ぼくは木下さんの背中を見る。いつみさんの背中とも違う。それは意志があるように真っ直ぐ伸びていた。歩幅もきちんと計算されているようだった。だが、そんなことはない。ぼくが勝手に思い込んでいるだけなのだ。
ある店に入る。暗い店内。木下さんのタイプとは違う。壁面から古いブルースが流れている。ユミが聴くソウル・ミュージックよりもさらに古い年代のものだろう。彼女はこういう音楽も聴くのだろうか。そして、造詣を深めているのだろうか。
「あれ、なんか服装がいつもと違うね? 買ったの?」
「あ、これ。もらったんです」
「そう。いい友人がいるのね」ぼくは指で服を引っ張り、それを眺めて、素材の感触も試した。「そうだ、わたしが優しいということを説明してもらわなくちゃ」
「いいですよ。みんな忙しそうにして、ぼくらのことなんかにかまっている時間などないように思えるけど、久代さんだけは対応がいつも丁寧で・・・」
「順平くんにだけだよ」
「そんなことないでしょう?」
「うん、そんなこともない」彼女は照れたように笑った。「お母さんがきびしかったんだ。むかしのひとみたいに、にっこりとして挨拶しなさいとか、自分だけで生活しているような振りをしちゃだめだよ、とか。そういうことに対してね」
「反抗しない?」
「考えたこともなかった。でも、順平くんもきちんと勉強して卒業したら、わたしのことなんか忘れちゃうぐらい偉くなるんでしょう?」
「ならないですよ」
「なるよ。忘れちゃう」
「ならないぐらい思い出をたくさん作ってください」
「命令してるの? でも、間違いがひとつ。思い出って関係が途絶えたひとに使う言葉だよ」彼女はまたしても笑う。
「そうかもしれないけど、久代さんだってお母さんの思い出の話をしたでしょう?」
「思い出じゃないよ。しつけの話。それに、その結果のいまのわたしの状態の話」
ぼくは高校時代の交際相手のことを思い出していた。彼女ともっと密接に話すこともできたのだという後悔がそこに含まれ、また、彼女とのあまり良くない記憶の部類も、思い出と呼ぶのが相応しいのかという記憶との葛藤のことについてだ。そのようにするにはぼくはまだ子どもに過ぎた。経験も不足している。まだまだ、言い訳は多く見つかりそうだった。だが、正直にぼくと彼女の関係は絶たれ、未来にはなにひとつ結びつかない。だが、ぼくは久代さんとの思い出をなぜだか無性に作りたがっていた。
木下さんと最近、話していなかった。顔はときどき、見かけていた。向こうが話す必要もないと思っているのか、ぼくのことを忘れてしまったのかも判断できなかった。忘れるという表現すら似つかわしくないのかもしれない。ぼくらには一定の関係が構築されているのでもないのだ。だが、ぼくの視線は彼女を探すようにもできていた。
ぼくはたくさんの女性を知っている訳でもない。学校の同級生がいて、それに付随するクラブとか部活動や塾で知り合った女性がいただけだ。その数人とは親しく話すが、混み入ったことを話すこともない。そもそもひとりと交際し、ひとりと別れただけの高校時代があるだけなのだ。それも、すべてが順調にすすんだのでもなく、途中で終わりになった。それが女性のデータを集めるための情報やサンプルになるには、あまりにも桁外れに少ないものだった。だが、最近は変わった。ぼくの前にはユミがいて、いつみさんが加わった。その変化にいちばん驚いているのは自分だった。ぼくは「この町」と呼びながら、勝手にバイトをしている町を自分の青春と一致させ、また定義づけさせようとしていた。この町で数人の生きた女性のことを知る。頭で知った訳でもない。すべて体験という体当たり的なものだった。
ぼくは働きながらその階に用があれば、木下さんの横顔を見た。彼女は裏に回り、何かを探している。多分、靴の在庫であろう。
「山本くん、これ、手が空いたら片付けてくれる? ごめんね」彼女は忙しなくそう言って売り場に戻った。ぼくは言われたまま箱を潰し、奥に持っていった。しかし、彼女は忙しくしながらも、いつも、ヒューマンな感じを忘れていなかった。ぼくらがまるで対等な人間でもあるかのように優しく接してくれた。
「さっきはごめんね。ありがとう」終わりがけに彼女が声をかける。ぼくは首を左右に振り、その言葉をもらう必要もないことを身体の動きを通して告げる。「口がきけなくなっちゃったの? どうしたの? 後で付き合う?」と言って最後の時間まで懸命に働く素振りをした。その前に、壁に向かってある方角を指差した。多分、待っててか、待っているという合図だろう。
ぼくは着替え、いつもと違うルートに行く。いつみさんの店の前は通らない。ぼくは彼女の唇を思い出す。そのいくらかハスキーな声も思い出していた。だが、いまは木下さんに会おうとしていた。
木下さんはある通りの前で待っていてくれた。
「元気ないみたいね、順平くん・・・」彼女は下からのぞくようにぼくの顔を見て、様子をうかがった。
「そんなことはないですよ。ただ、久代さんはいつも優しいなって」
「どうして?」
「特に理由はないですけど・・」
「そんなことはないでしょう。何か理由があるから、そう言うんでしょう? ごめん、何か食べながら話そうっか」彼女は黙って歩きはじめた。ぼくがついていくことを知って。ぼくは木下さんの背中を見る。いつみさんの背中とも違う。それは意志があるように真っ直ぐ伸びていた。歩幅もきちんと計算されているようだった。だが、そんなことはない。ぼくが勝手に思い込んでいるだけなのだ。
ある店に入る。暗い店内。木下さんのタイプとは違う。壁面から古いブルースが流れている。ユミが聴くソウル・ミュージックよりもさらに古い年代のものだろう。彼女はこういう音楽も聴くのだろうか。そして、造詣を深めているのだろうか。
「あれ、なんか服装がいつもと違うね? 買ったの?」
「あ、これ。もらったんです」
「そう。いい友人がいるのね」ぼくは指で服を引っ張り、それを眺めて、素材の感触も試した。「そうだ、わたしが優しいということを説明してもらわなくちゃ」
「いいですよ。みんな忙しそうにして、ぼくらのことなんかにかまっている時間などないように思えるけど、久代さんだけは対応がいつも丁寧で・・・」
「順平くんにだけだよ」
「そんなことないでしょう?」
「うん、そんなこともない」彼女は照れたように笑った。「お母さんがきびしかったんだ。むかしのひとみたいに、にっこりとして挨拶しなさいとか、自分だけで生活しているような振りをしちゃだめだよ、とか。そういうことに対してね」
「反抗しない?」
「考えたこともなかった。でも、順平くんもきちんと勉強して卒業したら、わたしのことなんか忘れちゃうぐらい偉くなるんでしょう?」
「ならないですよ」
「なるよ。忘れちゃう」
「ならないぐらい思い出をたくさん作ってください」
「命令してるの? でも、間違いがひとつ。思い出って関係が途絶えたひとに使う言葉だよ」彼女はまたしても笑う。
「そうかもしれないけど、久代さんだってお母さんの思い出の話をしたでしょう?」
「思い出じゃないよ。しつけの話。それに、その結果のいまのわたしの状態の話」
ぼくは高校時代の交際相手のことを思い出していた。彼女ともっと密接に話すこともできたのだという後悔がそこに含まれ、また、彼女とのあまり良くない記憶の部類も、思い出と呼ぶのが相応しいのかという記憶との葛藤のことについてだ。そのようにするにはぼくはまだ子どもに過ぎた。経験も不足している。まだまだ、言い訳は多く見つかりそうだった。だが、正直にぼくと彼女の関係は絶たれ、未来にはなにひとつ結びつかない。だが、ぼくは久代さんとの思い出をなぜだか無性に作りたがっていた。