Untrue Love(37)
駅の改札を抜ける。いままでは縁のなかった街だが、いつみさんが住んでいたことによって、ぼくはその街の輪郭を覚える。最終電車で降りたひとはそれほどいなかった。暗い静かな場所をふたりはゆっくりと歩く。
「冷蔵庫になにもなさそうなんだ。コンビニに寄ってもいい?」いつみさんが訊く。
「そうですね。近くにありますもんね」ぼくは何軒かの店が頭に入っていた。
「お腹空いてる?」
「それほどには」
「いつも、暗い中で順平くんを見てる気がする。もっと、太陽の下で生活したいもんだな」
「じゃあ、仕事を変えないといけませんね」
「大丈夫だよ。一日、余計に休めるようになったから」
「じゃあ、会ってくれるんですか、その日に?」
「用があったら、会ってもいいよ。代わりに咲子ちゃんが働いてくれるもんでね。ここだ」いつみさんは、コンビニに入った。カゴを取り、飲み物やポテト・チップスなどをテキパキと入れる。雑誌をパラパラとめくり、それに飽きたかのようにレジにカゴを持っていった。ぼくは雑誌をめくりながら、ガラスの向こうを見ていた。ぼくと同じような年代の男性が同じような年代の女性と話していた。ぼくは自分が少しだけ大人のようにも感じ、同じ意味で少し背伸びをしている感じもした。「行こう」と言って、いつみさんはぼくの腕を引っ張る。片手にはレジ袋があった。
「ここ、夜はちょっと静か過ぎて危なくないですか?」店の明かりが道をすすめるうちに届かなくなってきた。
「そんな心配もしてくれるんだ」
「しますよ」
「でも、外国では、もっと危ないところもあったから」
その期間の彼女のことをもっと知りたいと思う。だが、自分から話してくれるのを待っているのかもしれない。それはぼくに気持ちを許したという証拠にもなっただろう。もし、話してくれたとしたら。また、早いうちにすべてのことなど知りたくないとも願っていた。その不均衡なバランスの上を楽しみたいとも思っている。
「未体験ですけど、恐そうですね・・・」
「そんなこともないよ。どこに行っても優しいひともいれば、親身になって考えてくれるひともいるから」
「ぼくは、会ったなかで、キヨシさんが優しいと思いますね」
「なんだ、わたしじゃないんだ?」
「もう少し、プラスさせるためには・・・」
「そう。ここに猫がいるんだ」いつみさんは、帰り道にある公園に足を踏み入れた。外灯がぽつんとひとつだけともり、どこからかトイレの匂いがするようなうらぶれた公園だった。「あ、いた」
猫が億劫そうにこちらに近寄ってきた。「なんだ、もうひとりいるのか」という様子を、ぼくを確認することによってしたような気がした。いつみさんはしゃがみ、その猫の頭を撫でた。低いうなるような声で、その猫は応対した。
「いつも、いるんですか?」
「たまにだよ。雨が降ってるときには必ずいないから。どっかに家でもあるんだろうね。ただの夜のパトロール」
「何を監視するんでしょうね」
「わたしみたいな女性がひとりで帰るときに変なのに、引っ掛からないかじゃない」
「じゃあ、オスですかね?」
「うん」いつみさんは撫でる手を止めた。
「でも、今日は引っ掛かっているのに、気にしないみたいだね」
その言葉が、その猫がぼく以外の男性をみた証でもあるようだった。この公園でいつみさんが撫でる様子を誰かが後ろで待っている。
「多分、変じゃないと思っているんでしょう」
「そうかもね」
「荷物、持ちますよ。気付かなかった」ぼくはレジ袋をいつみさんから受け取る。不思議とぼくは自分の家のなかのことを思い出していた。まだ、住んで一年とちょっとしか経過していない。ひとりで勉強をして、そこでユミを抱いた。彼女以外の誰かがいることは想像できない。かといって、いつみさんより愛情を持っているとも思えなかった。自分は、その事実を猫に見破られるように恐れたが、その後は終始無言であった。
「またね」と言って、いつみさんはその公園を去った。ぼくもつづいてそこを出た。猫はぼんやりと足で頬をかいている。ユミも寝起きに頬をかいた。ぼくらはふたりとも大人になるきっかけを作るようにいっしょにいたのだろう。いつみさんは、ぼくを引っ張り上げてくれる感じがあった。それ以外にも、木下さんの存在もあった。だが、最近、時間を多く作っているのは咲子との時間だった。彼女も働き、ボーイ・フレンドもそのうちにできるのだろう。ぼくはしぼんでいく関係だと、咲子のことを考えていた。しぼまないことには、ぼくは別の時間を見出すことはできないのだ。
いつみさんは歩いている。一日、働いて疲れたという印象は、その歩調にはあらわれていなかった。間もなく、彼女の家がみえる。家の前の自動販売機が目印になっていた。ぼくは、その家で先日、彼女の前の男性の服をもらった。今日はそれを着ていない。もしかしたら、そのひとも先ほどの猫を見たかもしれない。どちらもぼくにとっては名前がない。猫もその男性も。だが、名称をつけなくても、どこかにいた。ぼくのこころにある嫉妬というものは、物体としての存在はないかもしれないが、どこかで熱を帯び、自動販売機と同じように暗い中で発光しているようにも感じられていた。
駅の改札を抜ける。いままでは縁のなかった街だが、いつみさんが住んでいたことによって、ぼくはその街の輪郭を覚える。最終電車で降りたひとはそれほどいなかった。暗い静かな場所をふたりはゆっくりと歩く。
「冷蔵庫になにもなさそうなんだ。コンビニに寄ってもいい?」いつみさんが訊く。
「そうですね。近くにありますもんね」ぼくは何軒かの店が頭に入っていた。
「お腹空いてる?」
「それほどには」
「いつも、暗い中で順平くんを見てる気がする。もっと、太陽の下で生活したいもんだな」
「じゃあ、仕事を変えないといけませんね」
「大丈夫だよ。一日、余計に休めるようになったから」
「じゃあ、会ってくれるんですか、その日に?」
「用があったら、会ってもいいよ。代わりに咲子ちゃんが働いてくれるもんでね。ここだ」いつみさんは、コンビニに入った。カゴを取り、飲み物やポテト・チップスなどをテキパキと入れる。雑誌をパラパラとめくり、それに飽きたかのようにレジにカゴを持っていった。ぼくは雑誌をめくりながら、ガラスの向こうを見ていた。ぼくと同じような年代の男性が同じような年代の女性と話していた。ぼくは自分が少しだけ大人のようにも感じ、同じ意味で少し背伸びをしている感じもした。「行こう」と言って、いつみさんはぼくの腕を引っ張る。片手にはレジ袋があった。
「ここ、夜はちょっと静か過ぎて危なくないですか?」店の明かりが道をすすめるうちに届かなくなってきた。
「そんな心配もしてくれるんだ」
「しますよ」
「でも、外国では、もっと危ないところもあったから」
その期間の彼女のことをもっと知りたいと思う。だが、自分から話してくれるのを待っているのかもしれない。それはぼくに気持ちを許したという証拠にもなっただろう。もし、話してくれたとしたら。また、早いうちにすべてのことなど知りたくないとも願っていた。その不均衡なバランスの上を楽しみたいとも思っている。
「未体験ですけど、恐そうですね・・・」
「そんなこともないよ。どこに行っても優しいひともいれば、親身になって考えてくれるひともいるから」
「ぼくは、会ったなかで、キヨシさんが優しいと思いますね」
「なんだ、わたしじゃないんだ?」
「もう少し、プラスさせるためには・・・」
「そう。ここに猫がいるんだ」いつみさんは、帰り道にある公園に足を踏み入れた。外灯がぽつんとひとつだけともり、どこからかトイレの匂いがするようなうらぶれた公園だった。「あ、いた」
猫が億劫そうにこちらに近寄ってきた。「なんだ、もうひとりいるのか」という様子を、ぼくを確認することによってしたような気がした。いつみさんはしゃがみ、その猫の頭を撫でた。低いうなるような声で、その猫は応対した。
「いつも、いるんですか?」
「たまにだよ。雨が降ってるときには必ずいないから。どっかに家でもあるんだろうね。ただの夜のパトロール」
「何を監視するんでしょうね」
「わたしみたいな女性がひとりで帰るときに変なのに、引っ掛からないかじゃない」
「じゃあ、オスですかね?」
「うん」いつみさんは撫でる手を止めた。
「でも、今日は引っ掛かっているのに、気にしないみたいだね」
その言葉が、その猫がぼく以外の男性をみた証でもあるようだった。この公園でいつみさんが撫でる様子を誰かが後ろで待っている。
「多分、変じゃないと思っているんでしょう」
「そうかもね」
「荷物、持ちますよ。気付かなかった」ぼくはレジ袋をいつみさんから受け取る。不思議とぼくは自分の家のなかのことを思い出していた。まだ、住んで一年とちょっとしか経過していない。ひとりで勉強をして、そこでユミを抱いた。彼女以外の誰かがいることは想像できない。かといって、いつみさんより愛情を持っているとも思えなかった。自分は、その事実を猫に見破られるように恐れたが、その後は終始無言であった。
「またね」と言って、いつみさんはその公園を去った。ぼくもつづいてそこを出た。猫はぼんやりと足で頬をかいている。ユミも寝起きに頬をかいた。ぼくらはふたりとも大人になるきっかけを作るようにいっしょにいたのだろう。いつみさんは、ぼくを引っ張り上げてくれる感じがあった。それ以外にも、木下さんの存在もあった。だが、最近、時間を多く作っているのは咲子との時間だった。彼女も働き、ボーイ・フレンドもそのうちにできるのだろう。ぼくはしぼんでいく関係だと、咲子のことを考えていた。しぼまないことには、ぼくは別の時間を見出すことはできないのだ。
いつみさんは歩いている。一日、働いて疲れたという印象は、その歩調にはあらわれていなかった。間もなく、彼女の家がみえる。家の前の自動販売機が目印になっていた。ぼくは、その家で先日、彼女の前の男性の服をもらった。今日はそれを着ていない。もしかしたら、そのひとも先ほどの猫を見たかもしれない。どちらもぼくにとっては名前がない。猫もその男性も。だが、名称をつけなくても、どこかにいた。ぼくのこころにある嫉妬というものは、物体としての存在はないかもしれないが、どこかで熱を帯び、自動販売機と同じように暗い中で発光しているようにも感じられていた。