Untrue Love(36)
いつみさんは週に一度ある店の定休日以外にもう一日休みたいと思っていたらしい。結局、その穴に埋まるように咲子が一日だけ働くことになった。その話し合いをぼくは知らなかった。ぼくに知らせる必要もほんとうのところはないので、事後報告だった。
「それで、その日にはなにをするんですか?」ぼくは、いつみさんに向かってカウンターから訊いている。
「いろいろ、勉強することがいっぱいあるのよ」
「いつみは友だちが結婚して焦ることになったんだよ。帰ってから、いろいろ考えたみたいで」奥からキヨシさんがそう報告した。
「ほんとですか?」
「あいつ、ああいうところが、ほんと、バカなんだよ」しかし、その言葉には悪意がなかった。愛情すら感じられるような響きだった。「前々から、こういうことは考えていたんだよ。キヨシさえきちんとしていれば、表に立つひとは誰でも大丈夫だって。たまたま、わたしがここに居るだけだから」
「そんなこともないでしょう? 咲子がいたら、ぼくは、ここに来ないと思いますよ」
「それは知り合いだから。お酒を飲むなんてときには身近なひとがいない方が普通なんだよ。付かず離れずの関係ぐらいのね」
社会に出たらそうなのかもしれない。会社からも離れ、家族とも別の居場所。まったくの漂流でもないが、深い関係でもない。ぼくは海に漂う流木のことや、廃線間近の鉄道のレールの下の枕木のことを考えていた。その映像はさびしいものだった。だからといって、いつみさんがどこかの家族の一員として納まっている姿は想像したくもなかった。
「友だちにも赤ちゃんができるんだ。そういうの好き? 順平くんは」
「考えたこともないですね。兄弟もいなかったし、身近なところで小さな子がいなかったから」
「じゃあ、抱っことかもしていないの、いままで?」
「全然」ぼくはその姿の自分をイメージすらできない。それは、どこかの母親か保母さんの役目だった。そして、そのどこかにいるであろう女性のことも一人として具体化させて想像することも不可能だった。「いつみさんは?」
「さあ。でも、女性って、どっかで母性本能を隠し持ってるんだと思うよ。それに、誰かと、夫とか子どもとかといっしょにいる時間を、ずっと永続させる望みみたいなものもあると思うね。わたしの話でもなく、一般論として」
「一般論ね」ぼくはいままでの生活でもっとも多く接した女性であろう母のことを考えた。母が母性本能というものをもっていたのか分からない。ぼくに早く大人になることを望んでいたのかもしれない。弟や妹など、彼女がぼく以外の子どもを可愛がり、また欲しがった気持ちなども見られなかった。それが、一般論というものの範疇の限界かもしれなかった。
キヨシさんの手も空いたのか、表にでてきた。奥にいる分には分からないが、そばによると身体の厚みが威圧感をあたえた。その肉体的な圧迫と、彼の精神がもたらす優しさの反比例が不思議な魅力を作り上げている。
「あの子、可愛いよな」キヨシさんは素朴な口調で咲子を評した。「順くんは興味ないの?」
「ないですね。キヨシさんもないですよね?」
「当然。だから、うちで働いてもその点では安心」彼はなにもないが自分の腕をこすった。「年下の子とかもダメか?」
「さあ、ダメじゃないと思うけど、また、変わりますよ」
「ふうん」
ぼくは彼の日常生活がどういうものなのかまったく知らない。知っているのは、ここにいるだけの間。それにいつみさんの弟であるということのみ。それ以上のことは関心を深められなかった。咲子もともに働くようになれば、あらたな情報をくれるのかもしれない。それほど、彼女に観察力が備わっているのか、情報を収集する能力があるのかも分からない。ただ、興味があるということは好きとか関心があることの、きちんとした証拠なのだろう。
「そろそろ、帰ろうか」と、いつみさんが言った。いつもより排他的な感じもしなければ、どこかに滲み出ていた強引さもなかった。「まずいな、順平くんと帰ることが日課のひとつになって来ている」
「まずいことなんか一切ないですよ」
「そうだよ。いつみは、これでも、ちっちゃいときは恐がりだったんだから・・・」キヨシさんが片付けの手を休めて言った。告げ口をすることだけを楽しみにしている弟のように。
「ほんとですか?」
「恐がりっていうんじゃないよ。想像力が豊かなひとの副産物」
ぼくは外に出ていつみさんを待つ。この瞬間がぼくにとって最も貴い時間だった。最近のぼくにとって。
「ごめんね、順平くん。つまらない話に付き合わせて。つまらない兄弟げんかの仲裁をさせて」重荷を払い除けたようなひとりの普通な女性のようにいつみさんが話しかける。
「全然。ふたりとも好きですから」
「そうなんだ」
ぼくらは同じ電車に乗る。この場面もぼくは好きだった。ドラマにもならない普通の瞬間。この積み重ねが、かといってドラマにならない訳でもなかった。
「うちに寄って、飲むのに付き合うのには賛成する?」
「行ってもいいんですか?」
「二回も言わすなよ。恥ずかしいな」いつみさんは、照れたように服の裾を引っ張る。ぼくは彼女に確固とした家庭を作ることなど許さないだろうとそのときは思っている。だが、これから自分がどのような存在になるのかも、自分も、ましては周りも結論を下してはいないだろう。ただ、ぼくは自分のアパートがあるひとつ前の駅で降り、いつみさんの存在を横に感じている。それだけでぼくには充分な恩恵があった。完璧な世界が、ここにあるのだと、ぼくは簡単に納得するぐらい無邪気な子どもだった。
いつみさんは週に一度ある店の定休日以外にもう一日休みたいと思っていたらしい。結局、その穴に埋まるように咲子が一日だけ働くことになった。その話し合いをぼくは知らなかった。ぼくに知らせる必要もほんとうのところはないので、事後報告だった。
「それで、その日にはなにをするんですか?」ぼくは、いつみさんに向かってカウンターから訊いている。
「いろいろ、勉強することがいっぱいあるのよ」
「いつみは友だちが結婚して焦ることになったんだよ。帰ってから、いろいろ考えたみたいで」奥からキヨシさんがそう報告した。
「ほんとですか?」
「あいつ、ああいうところが、ほんと、バカなんだよ」しかし、その言葉には悪意がなかった。愛情すら感じられるような響きだった。「前々から、こういうことは考えていたんだよ。キヨシさえきちんとしていれば、表に立つひとは誰でも大丈夫だって。たまたま、わたしがここに居るだけだから」
「そんなこともないでしょう? 咲子がいたら、ぼくは、ここに来ないと思いますよ」
「それは知り合いだから。お酒を飲むなんてときには身近なひとがいない方が普通なんだよ。付かず離れずの関係ぐらいのね」
社会に出たらそうなのかもしれない。会社からも離れ、家族とも別の居場所。まったくの漂流でもないが、深い関係でもない。ぼくは海に漂う流木のことや、廃線間近の鉄道のレールの下の枕木のことを考えていた。その映像はさびしいものだった。だからといって、いつみさんがどこかの家族の一員として納まっている姿は想像したくもなかった。
「友だちにも赤ちゃんができるんだ。そういうの好き? 順平くんは」
「考えたこともないですね。兄弟もいなかったし、身近なところで小さな子がいなかったから」
「じゃあ、抱っことかもしていないの、いままで?」
「全然」ぼくはその姿の自分をイメージすらできない。それは、どこかの母親か保母さんの役目だった。そして、そのどこかにいるであろう女性のことも一人として具体化させて想像することも不可能だった。「いつみさんは?」
「さあ。でも、女性って、どっかで母性本能を隠し持ってるんだと思うよ。それに、誰かと、夫とか子どもとかといっしょにいる時間を、ずっと永続させる望みみたいなものもあると思うね。わたしの話でもなく、一般論として」
「一般論ね」ぼくはいままでの生活でもっとも多く接した女性であろう母のことを考えた。母が母性本能というものをもっていたのか分からない。ぼくに早く大人になることを望んでいたのかもしれない。弟や妹など、彼女がぼく以外の子どもを可愛がり、また欲しがった気持ちなども見られなかった。それが、一般論というものの範疇の限界かもしれなかった。
キヨシさんの手も空いたのか、表にでてきた。奥にいる分には分からないが、そばによると身体の厚みが威圧感をあたえた。その肉体的な圧迫と、彼の精神がもたらす優しさの反比例が不思議な魅力を作り上げている。
「あの子、可愛いよな」キヨシさんは素朴な口調で咲子を評した。「順くんは興味ないの?」
「ないですね。キヨシさんもないですよね?」
「当然。だから、うちで働いてもその点では安心」彼はなにもないが自分の腕をこすった。「年下の子とかもダメか?」
「さあ、ダメじゃないと思うけど、また、変わりますよ」
「ふうん」
ぼくは彼の日常生活がどういうものなのかまったく知らない。知っているのは、ここにいるだけの間。それにいつみさんの弟であるということのみ。それ以上のことは関心を深められなかった。咲子もともに働くようになれば、あらたな情報をくれるのかもしれない。それほど、彼女に観察力が備わっているのか、情報を収集する能力があるのかも分からない。ただ、興味があるということは好きとか関心があることの、きちんとした証拠なのだろう。
「そろそろ、帰ろうか」と、いつみさんが言った。いつもより排他的な感じもしなければ、どこかに滲み出ていた強引さもなかった。「まずいな、順平くんと帰ることが日課のひとつになって来ている」
「まずいことなんか一切ないですよ」
「そうだよ。いつみは、これでも、ちっちゃいときは恐がりだったんだから・・・」キヨシさんが片付けの手を休めて言った。告げ口をすることだけを楽しみにしている弟のように。
「ほんとですか?」
「恐がりっていうんじゃないよ。想像力が豊かなひとの副産物」
ぼくは外に出ていつみさんを待つ。この瞬間がぼくにとって最も貴い時間だった。最近のぼくにとって。
「ごめんね、順平くん。つまらない話に付き合わせて。つまらない兄弟げんかの仲裁をさせて」重荷を払い除けたようなひとりの普通な女性のようにいつみさんが話しかける。
「全然。ふたりとも好きですから」
「そうなんだ」
ぼくらは同じ電車に乗る。この場面もぼくは好きだった。ドラマにもならない普通の瞬間。この積み重ねが、かといってドラマにならない訳でもなかった。
「うちに寄って、飲むのに付き合うのには賛成する?」
「行ってもいいんですか?」
「二回も言わすなよ。恥ずかしいな」いつみさんは、照れたように服の裾を引っ張る。ぼくは彼女に確固とした家庭を作ることなど許さないだろうとそのときは思っている。だが、これから自分がどのような存在になるのかも、自分も、ましては周りも結論を下してはいないだろう。ただ、ぼくは自分のアパートがあるひとつ前の駅で降り、いつみさんの存在を横に感じている。それだけでぼくには充分な恩恵があった。完璧な世界が、ここにあるのだと、ぼくは簡単に納得するぐらい無邪気な子どもだった。