Untrue Love(31)
四月の終わりか、五月のはじめの頃だった。ぼくは突然、風邪を引いた。誰も予定して風邪にかかるわけでもないので、真っ当なできごとでもあった。何度か直りそうになったが、また体調が悪くなった。食生活が一年で変わったことの結果がいまごろになってあらわれたのかもしれない。そろそろ二度目の山も終えそうになったころに玄関のチャイムが鳴った。何かの集金か配達にしか使われない、いつもながらの安っぽい音。ぼくはそこまで歩きながら自分の体調が戻りかけていることも感じていた。
玄関を開けると、ぼくは見知らぬ顔を見る。同年代の女性。近所のひととも印象が違うし、なにかを配達するような制服を着てもいない。だが、彼女はぼくのことを知っているような様子も一瞬だがした。当然のこと、誰だろうとぼくは謎を解くように考える。
「これ、頼まれたので持って来ました。お母さんから」彼女は右手に袋をぶら提げている。だが、それを直ぐに渡してくれそうになかった。だから、ぼくは手を伸ばせずにいた。「あ、わたし、咲子です」
「ああ、君か」ぼくは十年ぐらいの時間の距離を縮める必要があった。「そうだ、ここ、直ぐに分かった?」
「地図を書いてもらいました。あとは、どの電車に乗ったらいいかも」
「ごめん、ありがとう」それ以上、言葉がつづいて出てこなかった。しばらくしてから、「そうだよね、受け取って終わりという訳にもいかないよね。どうぞ」とぼくは付け加えた。
彼女は靴を脱ぎ、玄関に散らばっているぼくの靴も丁寧にそろえて並べた。
それから、部屋に入り、袋からタッパーを取り出して冷蔵庫にしまった。冷蔵庫のなかも散らかり放題だった。彼女は並べ替え、必要もなさそうなものを見つけ、袋に入れた。ぼくはその許可を与えたつもりもないが、断る必然性もまったく感じていなかった。それは何度も誘われたが家に寄りつくことを断り、彼女と対面する機会を先延ばしにした懺悔のような気持ちがあったからだろう。彼女は、膝まずいて黙々と作業をしていた。
「まだ、きちんと完治していなかったら、寝ててもいいですよ」
「もう、ほとんど治っているんだよ。完治といっても自然に治るたぐいのものだから」ぼくはベッドの端に座ったまま彼女の動きを眺めていた。でも、ぼくと彼女の関係性はどういうものなのだろう? と、不思議にも思っていた。田舎のおじさんの妻の親類。それは赤の他人とも呼べた。だが、都会にいるからそう考えているだけで、もし、そこに住んでいればもっと密接な関係の糸が見えてくるのだろうか。すると、彼女は買ったばかりのりんごのジュースをコップに入れた。
「これで、きれいなコップも最後。流しのもの、洗ってもいいですか?」
「うん。してもらえると助かる」ぼくは、彼女になぜだかさからうことができなかった。
「汗もいっぱいかいたでしょう?」
「うん。特効薬みたいなものもないからね」
彼女は歩き、洗濯機のなかに無雑作に放られているものを発見する。そこにはここ数日でたまった衣類やタオルが清潔にされることを待ち望んでいた。その使者の到来を待ち兼ねているみたいだった。
「これも、洗います」彼女は洗剤の箱を見つけ、スイッチを入れて、適量を落とした。「ベランダに干せるんですよね?」
「小さいけど、そこ」ぼくは窓側を指差す。
「それが済んだら帰ります」そう言い終えて彼女はスポンジを取り、食器を洗った。最後に流しの周りの水滴も拭いた。
それで、いまぼくは窓を少し開け、風に揺れている洗濯物を見ていた。咲子はもう帰っていた。彼女が不慣れな路線にふたたび乗り、ぼくの実家のそばまで帰る様子に思いを馳せた。それで、ぼくは彼女が帰る前に母に電話をかけておこうと思いついた。
「洗い物もしてもらって、汚れた衣類も洗濯してもらった」
「お殿様みたい。ね、いい子でしょう?」
「そうだね、少なくとも悪い子じゃない」
「我が子ながら、嫌な言い方。それで、あなたには借りがあるんだから、相談に乗ったり、どっかに行くのに付き合ってあげて。こっちに友だちができるまでの間だから」
「そういう作戦だったの? 今日、来たのも」
「そんな冷たい子に育てた覚えはないのに」母なりの悲哀の演技をした。
「分かったよ。たまには、そうするよ」
「作戦成功」急におどけた声をする。
「やっぱり、下心があったんじゃないか?」
「田舎に帰ったときに世話になったんだから、そのお返し。咲子ちゃんの電話番号も教えるから、今日のお礼もきちんと言ってね。しないと、わたしの面子がつぶれると覚悟して」
「分かったよ」ぼくは仕方なくその告げられた数字をメモする。それをクリップで壁にとめた。それから、冷蔵庫からさっきのタッパーを出して皿に盛った。母の味がする。その伝承を多分、ぼくはすることがないのだろう。もしかしたら、母は自分の家のキッチンで咲子といっしょに料理をしているのかもしれない。若い女性は古いが新たな料理のレパートリーを増やし、活用する日々も来るのかもしれない。春の陽気は衣類を乾かすのに大して手間取らない。ぼくの風邪も退散する時期を見つけたようだった。最後にわざとらしく空咳をした。だが、それですべて終わりだった。
四月の終わりか、五月のはじめの頃だった。ぼくは突然、風邪を引いた。誰も予定して風邪にかかるわけでもないので、真っ当なできごとでもあった。何度か直りそうになったが、また体調が悪くなった。食生活が一年で変わったことの結果がいまごろになってあらわれたのかもしれない。そろそろ二度目の山も終えそうになったころに玄関のチャイムが鳴った。何かの集金か配達にしか使われない、いつもながらの安っぽい音。ぼくはそこまで歩きながら自分の体調が戻りかけていることも感じていた。
玄関を開けると、ぼくは見知らぬ顔を見る。同年代の女性。近所のひととも印象が違うし、なにかを配達するような制服を着てもいない。だが、彼女はぼくのことを知っているような様子も一瞬だがした。当然のこと、誰だろうとぼくは謎を解くように考える。
「これ、頼まれたので持って来ました。お母さんから」彼女は右手に袋をぶら提げている。だが、それを直ぐに渡してくれそうになかった。だから、ぼくは手を伸ばせずにいた。「あ、わたし、咲子です」
「ああ、君か」ぼくは十年ぐらいの時間の距離を縮める必要があった。「そうだ、ここ、直ぐに分かった?」
「地図を書いてもらいました。あとは、どの電車に乗ったらいいかも」
「ごめん、ありがとう」それ以上、言葉がつづいて出てこなかった。しばらくしてから、「そうだよね、受け取って終わりという訳にもいかないよね。どうぞ」とぼくは付け加えた。
彼女は靴を脱ぎ、玄関に散らばっているぼくの靴も丁寧にそろえて並べた。
それから、部屋に入り、袋からタッパーを取り出して冷蔵庫にしまった。冷蔵庫のなかも散らかり放題だった。彼女は並べ替え、必要もなさそうなものを見つけ、袋に入れた。ぼくはその許可を与えたつもりもないが、断る必然性もまったく感じていなかった。それは何度も誘われたが家に寄りつくことを断り、彼女と対面する機会を先延ばしにした懺悔のような気持ちがあったからだろう。彼女は、膝まずいて黙々と作業をしていた。
「まだ、きちんと完治していなかったら、寝ててもいいですよ」
「もう、ほとんど治っているんだよ。完治といっても自然に治るたぐいのものだから」ぼくはベッドの端に座ったまま彼女の動きを眺めていた。でも、ぼくと彼女の関係性はどういうものなのだろう? と、不思議にも思っていた。田舎のおじさんの妻の親類。それは赤の他人とも呼べた。だが、都会にいるからそう考えているだけで、もし、そこに住んでいればもっと密接な関係の糸が見えてくるのだろうか。すると、彼女は買ったばかりのりんごのジュースをコップに入れた。
「これで、きれいなコップも最後。流しのもの、洗ってもいいですか?」
「うん。してもらえると助かる」ぼくは、彼女になぜだかさからうことができなかった。
「汗もいっぱいかいたでしょう?」
「うん。特効薬みたいなものもないからね」
彼女は歩き、洗濯機のなかに無雑作に放られているものを発見する。そこにはここ数日でたまった衣類やタオルが清潔にされることを待ち望んでいた。その使者の到来を待ち兼ねているみたいだった。
「これも、洗います」彼女は洗剤の箱を見つけ、スイッチを入れて、適量を落とした。「ベランダに干せるんですよね?」
「小さいけど、そこ」ぼくは窓側を指差す。
「それが済んだら帰ります」そう言い終えて彼女はスポンジを取り、食器を洗った。最後に流しの周りの水滴も拭いた。
それで、いまぼくは窓を少し開け、風に揺れている洗濯物を見ていた。咲子はもう帰っていた。彼女が不慣れな路線にふたたび乗り、ぼくの実家のそばまで帰る様子に思いを馳せた。それで、ぼくは彼女が帰る前に母に電話をかけておこうと思いついた。
「洗い物もしてもらって、汚れた衣類も洗濯してもらった」
「お殿様みたい。ね、いい子でしょう?」
「そうだね、少なくとも悪い子じゃない」
「我が子ながら、嫌な言い方。それで、あなたには借りがあるんだから、相談に乗ったり、どっかに行くのに付き合ってあげて。こっちに友だちができるまでの間だから」
「そういう作戦だったの? 今日、来たのも」
「そんな冷たい子に育てた覚えはないのに」母なりの悲哀の演技をした。
「分かったよ。たまには、そうするよ」
「作戦成功」急におどけた声をする。
「やっぱり、下心があったんじゃないか?」
「田舎に帰ったときに世話になったんだから、そのお返し。咲子ちゃんの電話番号も教えるから、今日のお礼もきちんと言ってね。しないと、わたしの面子がつぶれると覚悟して」
「分かったよ」ぼくは仕方なくその告げられた数字をメモする。それをクリップで壁にとめた。それから、冷蔵庫からさっきのタッパーを出して皿に盛った。母の味がする。その伝承を多分、ぼくはすることがないのだろう。もしかしたら、母は自分の家のキッチンで咲子といっしょに料理をしているのかもしれない。若い女性は古いが新たな料理のレパートリーを増やし、活用する日々も来るのかもしれない。春の陽気は衣類を乾かすのに大して手間取らない。ぼくの風邪も退散する時期を見つけたようだった。最後にわざとらしく空咳をした。だが、それですべて終わりだった。