Untrue Love(25)
いつみさんがいつになく女性らしくなっていく。ぼくの視線も同じようにまどろんでくる。変化が最初のうちは見えないところで、そのうちに外部にもあらわれてくる。お互いの境界線がおぼろげになり、接点を見つけやすくなる。だが、別々の存在であることも承知していた。
「洋服とか最近、買った? 順平くん」彼女の右手の二本の指先がグラスを触っている。
「そこまで、まわらないですね。小遣いが」
「親のもとに帰る?」
「帰りたくないですよ。やっと、自由になったのに」
「そうだよね。でも、お母さんなんていついなくなっちゃうか分からないんだよ」
「淋しいですか?」
「何となくね」彼女の母は亡くなっていた。その母が残した店をふたりの子どもが引き継いでいた。あまり弱気な部分を彼女は見せないが、はじめてぐらいに見るととても魅力的にうつった。「優しくしてあげるといいよ」
「そうします」
「そうだ。それで、お願いしようと思った」
「なんですか?」
「言いにくいんだけど、いらない服がいくつかうちにあるんだ。なかなか良いものもあると思うので、引き取ってもらうか、いらなかったら捨ててもらってもいい。処分してくれないかなって。多分、わたし、酔ってきたのかな」
「それを、着てたひとがいる?」
「いた」
「いまは着ない?」
「そう」
「でも、もうこれからも着ない?」
「しつこいね、順平くん。時間が経って着ないものは、そのひとはもう着ないよ。いやなら、いいんだよ。何となくお願いしてみただけだから」
「でも、見てみないと」
「それは、見せるよ。着てもいいよ。でも、見たら、どっかに持って行って」
「それを、もしぼくが着てたら不愉快にはならない?」
「ならないよ。洋服に魂かなんかがある訳じゃないから」
「そうですけどね」
ぼくは少しだけ黙る。すると様子を見るようにいつみさんも口を閉ざした。ぼくの機嫌を損ねたのではないのかという心配も微かだが混じっているようでもあった。それはぼくが勘繰っているだけなのかもしれない。
「役に立ってよ」といつみさんが話を戻した。
「どれぐらい前なんですか?」
「なにが?」彼女はきょとんとした表情をする。
「それを着なくなってしまったのは」
「もう1年ぐらい前だよ。やだな、順平くんだって好きな女の子がいたんでしょう。わたしの方がずっと、大人の女だよ。ずっと大人。経験もたくさんした大人」そう言いつづける彼女は逆に子どもっぽく見えた。主張をすればするほど振り子は反対側に揺られたからだ。
「嫌いになったんですか、そのひとのこと?」
「さあ。え? この話の主導権を握ろうとしているの? 子どもなのに」
ぼくはぶすっと膨れっ面をする。ささやかな抵抗がそうした幼稚な表情を敢えて作らせた。
「そうですよ、好奇心があふれる子どもですよ」
「大人って、意外と大嫌いとかにならないんじゃないの。別れるための理由をたくさんみつけて、それでも、意気がくじかれて、それで、なんとなく終わりにしようと試してみて」
「後悔しているみたいに聞こえますね」
「別にしてないよ。だから、服もあげるって言ってるんじゃない」
「じゃあ、貰います。毎日、着て、それで、その格好で毎日、目の前にあらわれます」
「はい、決まった。男の子は自分の言葉を撤回しちゃダメ。絶対に。さ、飲み干して」彼女はぼくの目の前にあるグラスを持ち上げ、ぼくに握らせようとした。
「え、もう、これから行くんですか」
「そうだよ。約束は守ってもらわなきゃ」ぼくは勧められるままそれを飲んだ。彼女は微笑み、より一層子どもらしい表情になった。ぼくは短い人生ながら、誰からよりも、このひとがぼくに与える影響を恐れ、また信じようとしていた。それは矛盾でもなく、ぼくの脳とこころが分離しながらも、それぞれの部位が彼女を理解しようとしている経過と結果でもあるようだった。
ぼくらは外に出る。「ここから、歩けるの。順平くんちは?」といつみさんが言った。ぼくはうなずいた。それから彼女は通り過ぎようとしたタクシーを呼び、ぼくらは後ろに乗った。いつみさんの家のそばで車を降り、「危ないから掴まってもいい?」と言って彼女はぼくの腕に自分の腕をからめた。ぼくは彼女のいまだけを知っているということに自分を納得させようとした。納得させる理由があるという事実が次から次へと浮かんだ。彼女が過去に好きになった男性がいた。未来にはぼくは嫉妬をしないが、過去には簡単に嫉妬をした。それはあまりにも容易だった。だが、このいまの彼女を知っているという優越さも、未来の誰かが嫉妬するかもしれないという無駄な想像にも時間を費やした。ぼくは、ただどうにかしていた。
部屋に入り、彼女は部屋のタンスを開き、引き出しも開けた。投げ出すように男物の服を放った。ぼくはその姿を棒立ちになって見つめる。それが過去の集積であり、彼女の愛の名残りであった。やどかりは別の殻を見つける。ぼくはその捨て去られた殻を発見する。一年前の自分は勉強のため机に向かっていた。そのときに彼女の愛は破綻するきっかけを探し、手に入れたのかもしれない。時間というものの難しさをぼくは感じている。だが、何が難しいのかは分からなかった。ぼくは彼女の背中を見る。いつもの店でその姿を何遍も見たはずなのに、ぼくは自分がこれほど焦がれているとは知らなかったのだった。
いつみさんがいつになく女性らしくなっていく。ぼくの視線も同じようにまどろんでくる。変化が最初のうちは見えないところで、そのうちに外部にもあらわれてくる。お互いの境界線がおぼろげになり、接点を見つけやすくなる。だが、別々の存在であることも承知していた。
「洋服とか最近、買った? 順平くん」彼女の右手の二本の指先がグラスを触っている。
「そこまで、まわらないですね。小遣いが」
「親のもとに帰る?」
「帰りたくないですよ。やっと、自由になったのに」
「そうだよね。でも、お母さんなんていついなくなっちゃうか分からないんだよ」
「淋しいですか?」
「何となくね」彼女の母は亡くなっていた。その母が残した店をふたりの子どもが引き継いでいた。あまり弱気な部分を彼女は見せないが、はじめてぐらいに見るととても魅力的にうつった。「優しくしてあげるといいよ」
「そうします」
「そうだ。それで、お願いしようと思った」
「なんですか?」
「言いにくいんだけど、いらない服がいくつかうちにあるんだ。なかなか良いものもあると思うので、引き取ってもらうか、いらなかったら捨ててもらってもいい。処分してくれないかなって。多分、わたし、酔ってきたのかな」
「それを、着てたひとがいる?」
「いた」
「いまは着ない?」
「そう」
「でも、もうこれからも着ない?」
「しつこいね、順平くん。時間が経って着ないものは、そのひとはもう着ないよ。いやなら、いいんだよ。何となくお願いしてみただけだから」
「でも、見てみないと」
「それは、見せるよ。着てもいいよ。でも、見たら、どっかに持って行って」
「それを、もしぼくが着てたら不愉快にはならない?」
「ならないよ。洋服に魂かなんかがある訳じゃないから」
「そうですけどね」
ぼくは少しだけ黙る。すると様子を見るようにいつみさんも口を閉ざした。ぼくの機嫌を損ねたのではないのかという心配も微かだが混じっているようでもあった。それはぼくが勘繰っているだけなのかもしれない。
「役に立ってよ」といつみさんが話を戻した。
「どれぐらい前なんですか?」
「なにが?」彼女はきょとんとした表情をする。
「それを着なくなってしまったのは」
「もう1年ぐらい前だよ。やだな、順平くんだって好きな女の子がいたんでしょう。わたしの方がずっと、大人の女だよ。ずっと大人。経験もたくさんした大人」そう言いつづける彼女は逆に子どもっぽく見えた。主張をすればするほど振り子は反対側に揺られたからだ。
「嫌いになったんですか、そのひとのこと?」
「さあ。え? この話の主導権を握ろうとしているの? 子どもなのに」
ぼくはぶすっと膨れっ面をする。ささやかな抵抗がそうした幼稚な表情を敢えて作らせた。
「そうですよ、好奇心があふれる子どもですよ」
「大人って、意外と大嫌いとかにならないんじゃないの。別れるための理由をたくさんみつけて、それでも、意気がくじかれて、それで、なんとなく終わりにしようと試してみて」
「後悔しているみたいに聞こえますね」
「別にしてないよ。だから、服もあげるって言ってるんじゃない」
「じゃあ、貰います。毎日、着て、それで、その格好で毎日、目の前にあらわれます」
「はい、決まった。男の子は自分の言葉を撤回しちゃダメ。絶対に。さ、飲み干して」彼女はぼくの目の前にあるグラスを持ち上げ、ぼくに握らせようとした。
「え、もう、これから行くんですか」
「そうだよ。約束は守ってもらわなきゃ」ぼくは勧められるままそれを飲んだ。彼女は微笑み、より一層子どもらしい表情になった。ぼくは短い人生ながら、誰からよりも、このひとがぼくに与える影響を恐れ、また信じようとしていた。それは矛盾でもなく、ぼくの脳とこころが分離しながらも、それぞれの部位が彼女を理解しようとしている経過と結果でもあるようだった。
ぼくらは外に出る。「ここから、歩けるの。順平くんちは?」といつみさんが言った。ぼくはうなずいた。それから彼女は通り過ぎようとしたタクシーを呼び、ぼくらは後ろに乗った。いつみさんの家のそばで車を降り、「危ないから掴まってもいい?」と言って彼女はぼくの腕に自分の腕をからめた。ぼくは彼女のいまだけを知っているということに自分を納得させようとした。納得させる理由があるという事実が次から次へと浮かんだ。彼女が過去に好きになった男性がいた。未来にはぼくは嫉妬をしないが、過去には簡単に嫉妬をした。それはあまりにも容易だった。だが、このいまの彼女を知っているという優越さも、未来の誰かが嫉妬するかもしれないという無駄な想像にも時間を費やした。ぼくは、ただどうにかしていた。
部屋に入り、彼女は部屋のタンスを開き、引き出しも開けた。投げ出すように男物の服を放った。ぼくはその姿を棒立ちになって見つめる。それが過去の集積であり、彼女の愛の名残りであった。やどかりは別の殻を見つける。ぼくはその捨て去られた殻を発見する。一年前の自分は勉強のため机に向かっていた。そのときに彼女の愛は破綻するきっかけを探し、手に入れたのかもしれない。時間というものの難しさをぼくは感じている。だが、何が難しいのかは分からなかった。ぼくは彼女の背中を見る。いつもの店でその姿を何遍も見たはずなのに、ぼくは自分がこれほど焦がれているとは知らなかったのだった。