爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(30)

2012年10月14日 | Untrue Love
Untrue Love(30)

「そろそろ、起きた方がいいんじゃない?」ぼくは油断していたのか、そう声を掛けられてもその場所が直ぐには分からなかった。ただ、心地良いことだけは感付いている。それで、辺りを見回す。声のした方を見る。そこには、木下久代さんが一日をはじめるにあたり見事なぐらいに、ほぼ完成形に近付いた格好でいた。あとは靴を履くだけの姿で。それだけが彼女に足りない。「眠気覚ましのコーヒーを飲みたかったら、どうぞ。でも、顔ぐらい洗ってね」

「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。大学、今日は遅いんでしょう? 昨日、何度も言ってたけど・・・」久代さんはなぜだか思い出し笑いをした。昨日?
「ゆっくりです」ぼくは布団をめくる。足が地面に接地する。「なんだか恥ずかしい格好ですね。ぼくの服はどこにあるんだろう」独り言のようにぼくはささやく。

「ごめんね、ここだ」彼女はそれをぼくの横にわざわざ持ってきて置いてくれた。「洗濯も自分でしてるの?」
「まあ、週に1回か、2回ぐらいですけど」

「偉いね。さ、コーヒー」彼女はなぜだか執拗にそれを飲ませたがっていた。「いっしょに出よう。わたし、遅刻は厳禁だから」
「すいません、直ぐに服を着ますね」ぼくはズボンに足を突っ込み、簡単に顔を洗った。そのタオルにも久代さんの匂いがしみ込んでいた。一日で、わずか一日で覚えた匂い。だが、永久に覚えてしまうような匂いでもあった。ぼくはそれからコーヒーを八分目ぐらい飲み、いくらか黒い液体が残っているカップを流しに置いた。仕度も済んだ。髪はぼさぼさのままだったが。名残惜しいがそこは去るべき場所だった。確認したくもなかったが、玄関に無雑作に並べられた自分のスニーカーは憐れさを感じるぐらいくたびれていた。新しい服は貰ったが、靴までひとのものを履くわけにもいかない。これぐらいは親にねだるかと考えていた。最近、家に寄りつかないので何度も電話がかかってきていた。なんだか、別な用件もありそうだった。

 久代さんと駅まで歩き、ぼくはホームの反対側で彼女を見送る。経済の成り立ちの一端に加わるひと。まだ、学生としてそのチームに入ることを猶予されているひと。つまりは、自分と久代さんの立場の違いが、その駅で明らかになった。

 これが、ぼくの大学の一年目で勝ち得た、いや、譲りえた、いや、幸運をみつけた生活だった。ぼくは、大学に通えば同年代の子と新たな生活をはじめるのだという漠然とした期待があった。高校時代の理解し合えなかったあの同級生のことも過去に押し込められるのだ。だが、結果はまるで違っていた。バイトと、その通う町を通してぼくの生活が定められていった。それを不満に思うかといえば、まったくの反対だった。ぼくは向かい合ったすれ違うホームで次に来る電車を待ちながら、そう考えていた。だから、田舎から知り合いが来るので世話をするようにと父と母に頼まれても、自分の自由な時間を譲る気も、提供する気もまったくなかった。わずかな時間は惜しく、わずかな小遣いはもっと逼迫するほど惜しかった。それを断る自分には、正当なたくさんの理由があると思っていた。つまりは三人の女性に関連したことなのだが。

 ぼくは家に着く。古い湿気たようなアパート。閉め切った部屋の匂いは先ほどまでいた木下さんの部屋とはまったく異なっていた。自分が分類的にオスという存在でしかないことに気付かされるようなものだった。だから、彼女たちを求めるのは仕方がないことなのだと自分を正当化させるような考えも働いた。窓を開け、自分でもコーヒーを入れてみた。それに費やす時間はたくさんあったが、それでも慌ただしく立ったまま飲んだ久代さんの入れてくれたものより桁外れにまずかった。すると、電話が鳴る。出ると、母の聞き覚えのある声がした。

「昨日の夜から何回もかけているんだけど、うちの息子は旅にでも出たのかと思っていた」母は、単純な言葉遣いを嫌い、それが父との接点でもあり、また隙間を作る原因でもあった。「どっかに行ってたの?」
「友だちの家だよ」
「随分と優雅なこと」
「なんか緊急な用事でもあったの?」
「普通、お腹を痛めた息子に連絡するのに、そんなに緊急な用件が必要なの?」
「そうでもないけど、ただ、眠いんだよ」

「分かったわよ。知り合いの女性がうちのそばに暮らしたから、来ないかなと思って。あなたも田舎で会った子だよ。その子と、いっしょに顔合わせのためにも、うちでご飯でもどうかなと。わざわざ、こんなに息子にまで義理だてるなんて。忙しいの?」
「なかなかね。勉強して、バイトして」
「お友だちと評したひとの家にも泊まって・・・」
「そんなに、うちのお袋って、性格が悪かったのかな・・・」
「これで、いいほうよ。来られるの?」

 ぼくはカレンダーを見る。見なくても分かっていたのだが、もし暇だったとしても、敢えて別の用事を詰め込むように入れただろう。ぼくの動力のネジは巻かれ、いまにも手がその回転を許すように離れようとしていた。だから、世間のつまらない義理なんかよりも、無愛想な息子を演じるしか方法はなかったのだ。母をも仕方がないと納得せざるを得ない回答をするために、妥当なセリフを探した。思いつかないままに、そこにあるコーヒーに頼って口をつけて、電話を引き伸ばそうと策略するも、そのコーヒーは驚くほどぼくに苦さと酸っぱさしか与えてくれなかった。
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Untrue Love(29)

2012年10月13日 | Untrue Love
Untrue Love(29)

「本を読み終わったら、どうしているんですか? 手狭な場所だと荷物になるでしょう? 実家に送るとか?」ぼくは立て続けに質問する。一度、その場所に足を踏み込んだことがある。木下さんの領域。

「まさか。処分しようかと悩んでいるんだけど。ゴミに出すのももったいないし、古本屋さんも近くにないしね」彼女は困ったような表情をする。「何かいい解決法はないのかね・・・」
「捨てちゃうのも、困りもんですね」ぼくは、わざとらしく頬杖をつく。
「じゃあ、重い荷物を運んでくれる?」彼女は両手で大きなバックを持ち上げるような仕種をした。重さを軽量するような肩の動きで。

「いいですけど、それより、お勧めのものはぼくが読みますよ」
「そう?」久代さんは解決策を思いついたひとのように、漫画なら頭上に電球が灯ったような顔をした。「でも、どれもこれも大事な思い出が詰まってるから、お勧めもいっぱいある」
「それじゃ、いっぱい読みます。通学途中とか、バイトに来るときとかを使って」
「有効利用ね」

「何かひとつ、そのなかのひとつのあらすじを話して教えてくださいよ」
「どれにしようかな。でも、甘えん坊ね。寝る前にベッドの横でお母さんに本を読んでもらったとか?」
「全然。母はキッチンで毎晩のように泥酔してましたから。皿やグラスを放りながら、わめき散らして」
「ほんと?」久代さんの驚いた表情は魅力的だった。

「まさか。まじめなひとです。ちょっと、おっちょこちょいだけど」
「そう、安心した」彼女の安堵の様子は世界平和がついに訪れたような表情だった。その為に嘘をついたことを後悔しつつも、その表情を得られたことで自分の嘘にも満足した。「ところで順平くんは、自分の顔とかに不満がある?」
「とくにはないけど、そんなに好きでもない」
「でも、それが自分でしょう?」
「まあ、そうですね。こころの深い部分を示して、これが自分ですと言っても誰も理解しない。普通、みな外見で判断しているから」

「そうよね。でも、そこそこには人気があったでしょう?」
「どうなんでしょう。そこそこと言われると納得するか否定するか困りますけど」
「ごめんね。つまりは、顔全体がにきびに覆われるとか、自分のことにいわゆるコンプレックスを感じたとか、そんなこともないわけでしょう?」

「ないかもしれないですね。でも、みんな70点ぐらいとか、自分のことを思って生きているんじゃないですか。そうじゃないと川が自殺したひとたちで埋め尽くされる。久代さんだって、人気があったでしょう?」
「わたしたちの周りは、みな男性がまじめなのか口にして言わないから」
「きれいですよ」

「そういう言葉は将来の大切なときに取っておいて」ぼくは、赤い布に突き進みながらも、ひらりと優雅な布切れで颯爽とかわされる牛なのだ。「わたしはひとりで、そういう悩みをもつ男性の告白のような文章を読むのが好きなの。自分自身で確固とした価値観をつくればいいのに、作れる才能ももっているのに、それでも、女性たちに好かれたいと単純に思っている。わたしたちって、そんなに素敵? 魅力的? 価値がある?」店のなかの誰にも聞かれないように段々と声のトーンを落として久代さんが言った。

「そう言われると困りますけど、女性は鏡なんですかね。そこに写さないことには自分の存在も認められない」
「鏡なら無口でもいいのね?」
「多分、いいと思いますよ。その本、貸してくれるんですか?」
「貸してあげるよ。もっと、いっぱい」
「取りに行きます。これから」
「取りに来て。え?」
「誘導尋問です。引っ掛かりました」
「いいよ。みんな、持って行って。それに、うちまで送ってよ。もう、疲れて、酔ったから」彼女は華奢な時計を見る。文字盤は限りなく小さく、二つの針もあまりにも小さなものだった。顕微鏡でも使わなければ、正しい時間すら分からないもののようだった。

 ぼくは、一時間にも満たないうちに久代さんの部屋にいる。壁に設置されている低くもない本棚を前にしてたたずんでいる。靴が保管されている玄関の一角の場所も立派なものだった。だが、部屋と比較してバランスが悪いものだった。全体的に久代さんの完成されていない人間像を表してもいるようだった。まだ、ぼくは本棚を見ている。背丈の合った文庫たち。そうしていると彼女がぼくの背中にもたれかかった。その仕方が不慣れなひとのようだった。ぼくでさえ、そのような機会も経験もなかったが、彼女のまじめな感じと衝動が自然と伝わってきた。ぼくは、わざとその棚からどうでもいい一冊を引き抜き、彼女の方に振り返った。靴を売る女性。だが、いまは裸足の女性。そのいつもより低くなった身体をぼくは受け止める。なぜ、ぼくは、こうも簡単に女性たちの魅力に負けてしまうのだろう。父や友人の早間は、こうした体験をどう乗り切ってきたのか、ぼくは久代さんを前にして考えている。だが、直ぐに考えることも止める。彼女はにきびにも覆われていない。昨夜、寝静まったときに深々と積もった純白の雪のような肌だった。それが少し赤らむ。眼のまわりを眺める。口にしないたくさんのことがそこに在る気もしたし、また何もない気もした。あの惑星に生物はいるのだろうか? というひとりの科学者のような疑問を考える。その証明の如く、彼女の吐息がぼくの頬にかかる。ぼくの頬が月の表面で、彼女の吐息が滋養分を含んだ雨。ならば科学も簡単に答えを見出せそうなある夜の終着だった。
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Untrue Love(28)

2012年10月12日 | Untrue Love
Untrue Love(28)

 久代さんの眼のまわりの化粧を眺めていた。真ん中の瞳は潤んでおり、周りが黒く細く縁取られている。それが彼女に可憐な印象を与え、かつ静謐な表情も際立たせている結果となった。ぼくは彼女の言葉を忘れる。いや、彼女の声を忘れる。いつみさんのいくらかハスキーな声は覚えやすかった。逆に久代さんは黙っている印象が濃く、それで声の存在を思い出しづらいのだろう。

 しかし、黙りつづけて欲しいのだろうか。そのようなことは決してない。ぼくは彼女の優しい言葉も信じていた。適切なときにささやかれる言葉こそ、彼女の信条のようだった。

「なに、黙っているの?」
「久代さんの声って、なぜだか忘れてしまう」
「どういうこと?」
「黙っているのが魅力的だからですよ」
「何それ。え、わたし、なまってる? ねえ、方言が出てる?」
「出てないですよ」
「良かった。でも、どういうこと? 黙ってろってことなの?」

「まさか。笑顔が似合うひともいれば、真剣に何かに取り組んでいる表情が美しいひともいる。両方がきれいなひともいる。話すと大らかに見えて開放的に感じられるひともいる。静かにしているとお人形のように美しいひともいる」
「順平くんは女性を分析できるのね。それで、わたしはどれに当てはまるの?」
「静かな女性。こういう暗い店内にほのかな明かりが灯ったなかにいると際立つ」
「わたし、普段は明るい場所で靴を販売しているんだけど・・・」彼女は困ったように笑う。おでこから眉間に数本のすじが入る。その計算されていない表情に幼さが紛れ込んでいた。「黙ったままだったら、いろいろなひとに迷惑がかかるよ」
「靴も売れないし」
「そう。わたしのお給料も出なくなっちゃうし」

 しかし、ぼくはその様子を黙って見ていたかった。それで何が生まれるわけでもない。だが、生まれる必要もないのだ。既に完成されていた。ぼくは将来、彼女がどう変化するなど考えてもいなかった。幼いときの愛らしさなども未発見だった。それで何の支障もないのだ。ぼくは一部だがいまの彼女を所有している。所有じゃないかもしれない。ただの時間の共有だ。でも充分だった。

「すると困りますね、生活が」
「黙って静かにしている仕事なんかあるかしら? あれば、やってみたいけど」その会話はもう空想の範疇に入っていた。
「絵のモデルとか。美容室のモデルとか」
「順平くん、絵が描ける?」
「まったく。才能なし。だから、売れる見込みもなし」

「美容院でカットか。そうだ、たまに見かける可愛い子いるよね? 駅から歩いていると」それは、どうやらユミのことを指しているようだった。ぼくはなぜだか彼女と関連付けられることを恐れた。それは一抹のやましさが自分の内部にあるからだろうか。
「いますかね・・・」
「いるじゃない? たまに奇抜な格好をしているけど、とても似合っている子が」
「見つけます」
「ああいう子は、お人形さんじゃないよね。自分でしっかりと生き方を見つけて、それに向かって邁進して」
「そういうひとなのか・・・」
「ごめんね、飽きた? 話題をかえるね」そう述べたが、かといって他の話題に移ることもなかった。ぼくが切り出すのを久代さんは待っているようだった。しかし、ぼくはユミのことを思い出してしまっていた。冬の朝。彼女はぼくの横で寝ている。奇抜な格好も躍動感も一切、関係なく布団にくるまれて眠っていた。その思いを中断させるかのように久代さんが話した。「勉強もしてるの?」

「ぼくですか? してますよ。それが仕事だから」
「今日みたいな気分転換が長過ぎない?」
「大人になったらみんなできなくなるって言ってますから。久代さんはまじめな学生生活を送ったんでしょう」
「そう、もったいない。でも、地元じゃおかしなことをすると目立っちゃうからね。両親はいろいろ忠告するの?」
「さあ、少しぐらい羽目をはずすことは許容範囲じゃないですか」

「わたしみたいなひとより、同学年の可愛い子といっしょに居るほうが両親の望みかな?」
「どうでしょう。でも、ぼくの人生ですし、好みもありますから」
「そういうことを言っていると、あとで取り返しがつかなくなるよ」
「久代さんは、本を読みすぎですよ」
「そうかもね」

 しかし、取り返しのつかない、というセリフに憧れを抱き、それを取り込もうとしている自分がいた。だが、どうなったらそういう状態になるのか見当もつかなかった。ただ、自分のこころを自由にさせ過ぎ、好きな女性が多すぎるという結果には既になっていた。だが、それでまだ困ったことにはなっていない。いつかそれで自分の首が絞まる予感もなかった。なればなったで、そのときに考え、解決すれば良いのだ。その日が取り返しのつかないという立場になっていなければよかったのだ。それほど、ぼくは好かれないだろう。これまでの人生がそれをはっきりと証明している。たまたま、いま、久代さんは暇なだけなのだ。だから、ぼくに関わっている時間があるのだ。その暇な時間が根底から崩れれば、今度は、ぼくが本でも読めばいい。寝転がって。その前に数冊、本でも借りておこうか。ぼくは服も本も誰かを経由する可能性があることを知る。その確認のためまた自分の服の裾を引っ張る。
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Untrue Love(27)

2012年10月11日 | Untrue Love
Untrue Love(27)

 木下さんと最近、話していなかった。顔はときどき、見かけていた。向こうが話す必要もないと思っているのか、ぼくのことを忘れてしまったのかも判断できなかった。忘れるという表現すら似つかわしくないのかもしれない。ぼくらには一定の関係が構築されているのでもないのだ。だが、ぼくの視線は彼女を探すようにもできていた。

 ぼくはたくさんの女性を知っている訳でもない。学校の同級生がいて、それに付随するクラブとか部活動や塾で知り合った女性がいただけだ。その数人とは親しく話すが、混み入ったことを話すこともない。そもそもひとりと交際し、ひとりと別れただけの高校時代があるだけなのだ。それも、すべてが順調にすすんだのでもなく、途中で終わりになった。それが女性のデータを集めるための情報やサンプルになるには、あまりにも桁外れに少ないものだった。だが、最近は変わった。ぼくの前にはユミがいて、いつみさんが加わった。その変化にいちばん驚いているのは自分だった。ぼくは「この町」と呼びながら、勝手にバイトをしている町を自分の青春と一致させ、また定義づけさせようとしていた。この町で数人の生きた女性のことを知る。頭で知った訳でもない。すべて体験という体当たり的なものだった。

 ぼくは働きながらその階に用があれば、木下さんの横顔を見た。彼女は裏に回り、何かを探している。多分、靴の在庫であろう。

「山本くん、これ、手が空いたら片付けてくれる? ごめんね」彼女は忙しなくそう言って売り場に戻った。ぼくは言われたまま箱を潰し、奥に持っていった。しかし、彼女は忙しくしながらも、いつも、ヒューマンな感じを忘れていなかった。ぼくらがまるで対等な人間でもあるかのように優しく接してくれた。
「さっきはごめんね。ありがとう」終わりがけに彼女が声をかける。ぼくは首を左右に振り、その言葉をもらう必要もないことを身体の動きを通して告げる。「口がきけなくなっちゃったの? どうしたの? 後で付き合う?」と言って最後の時間まで懸命に働く素振りをした。その前に、壁に向かってある方角を指差した。多分、待っててか、待っているという合図だろう。

 ぼくは着替え、いつもと違うルートに行く。いつみさんの店の前は通らない。ぼくは彼女の唇を思い出す。そのいくらかハスキーな声も思い出していた。だが、いまは木下さんに会おうとしていた。

 木下さんはある通りの前で待っていてくれた。
「元気ないみたいね、順平くん・・・」彼女は下からのぞくようにぼくの顔を見て、様子をうかがった。
「そんなことはないですよ。ただ、久代さんはいつも優しいなって」
「どうして?」
「特に理由はないですけど・・」
「そんなことはないでしょう。何か理由があるから、そう言うんでしょう? ごめん、何か食べながら話そうっか」彼女は黙って歩きはじめた。ぼくがついていくことを知って。ぼくは木下さんの背中を見る。いつみさんの背中とも違う。それは意志があるように真っ直ぐ伸びていた。歩幅もきちんと計算されているようだった。だが、そんなことはない。ぼくが勝手に思い込んでいるだけなのだ。

 ある店に入る。暗い店内。木下さんのタイプとは違う。壁面から古いブルースが流れている。ユミが聴くソウル・ミュージックよりもさらに古い年代のものだろう。彼女はこういう音楽も聴くのだろうか。そして、造詣を深めているのだろうか。
「あれ、なんか服装がいつもと違うね? 買ったの?」
「あ、これ。もらったんです」
「そう。いい友人がいるのね」ぼくは指で服を引っ張り、それを眺めて、素材の感触も試した。「そうだ、わたしが優しいということを説明してもらわなくちゃ」
「いいですよ。みんな忙しそうにして、ぼくらのことなんかにかまっている時間などないように思えるけど、久代さんだけは対応がいつも丁寧で・・・」
「順平くんにだけだよ」

「そんなことないでしょう?」
「うん、そんなこともない」彼女は照れたように笑った。「お母さんがきびしかったんだ。むかしのひとみたいに、にっこりとして挨拶しなさいとか、自分だけで生活しているような振りをしちゃだめだよ、とか。そういうことに対してね」
「反抗しない?」
「考えたこともなかった。でも、順平くんもきちんと勉強して卒業したら、わたしのことなんか忘れちゃうぐらい偉くなるんでしょう?」
「ならないですよ」
「なるよ。忘れちゃう」
「ならないぐらい思い出をたくさん作ってください」

「命令してるの? でも、間違いがひとつ。思い出って関係が途絶えたひとに使う言葉だよ」彼女はまたしても笑う。
「そうかもしれないけど、久代さんだってお母さんの思い出の話をしたでしょう?」
「思い出じゃないよ。しつけの話。それに、その結果のいまのわたしの状態の話」

 ぼくは高校時代の交際相手のことを思い出していた。彼女ともっと密接に話すこともできたのだという後悔がそこに含まれ、また、彼女とのあまり良くない記憶の部類も、思い出と呼ぶのが相応しいのかという記憶との葛藤のことについてだ。そのようにするにはぼくはまだ子どもに過ぎた。経験も不足している。まだまだ、言い訳は多く見つかりそうだった。だが、正直にぼくと彼女の関係は絶たれ、未来にはなにひとつ結びつかない。だが、ぼくは久代さんとの思い出をなぜだか無性に作りたがっていた。
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Untrue Love(26)

2012年10月10日 | Untrue Love
Untrue Love(26)

 ぼくはいつみさんの背中を見ている。彼女の髪型が自然にカットされていることを確認する。それは誰が切るのだろうと考えてもいる。自分の肉体的な癖があり、髪の生え方や、爪の伸び方や形など、そのひと自信をあらわす癖、いや、それよりも個性の範疇に入るものもあった。ぼくはその髪質や触り心地のことにも思いを馳せた。無骨さなどない女性の肉体が目の前で動いている。

「それで、全部かな」彼女は放り出した戦利品のようなものを他人行儀にながめていた。いまから所有者が変わるのだ。そもそも、いつみさんのものでもなかった。一時的な居留地のようにそこに保管されていただけなのだった。彼女が考えていたか、悩んでいたかの時効が過ぎ、それは手放される運命になった。ぼくは自分がいまなぜその服を見ているのかも謎だった。彼女のほんとうの気持ちも確かめることは不可能だった。「着てみれば。背丈も合うと思うよ」それは誰かのことを思い出している証拠だった。ぼくは彼女が好きそうな身長をもっているのだろうか。身体の厚みを有しているのだろうかと想像した。

「ここでですか?」
「そうだよ」
「恥ずかしいですね。なら、引き取る手数料か、もしくは処分するご褒美みたいなものがほしいですね」
「ただで洋服がもらえるのに? 贅沢にできてるんだな、順平くんは」彼女はその提案のことについて一瞬だけ思案しているような表情をした。そして、直ぐに思い掛けないことを言った。「いいよ、一着ごとに、一回ずつキスしてあげる」
「誰がですか?」ぼくは驚いている。だが、実際は嬉しい気持ちがぼく自身を覆っていた。
「ふたりしかここにいないじゃん。それを、言ったのはわたししかいない。さ、脱いで」

 いつみさんはぼくの前にまわり、両手を上げさせ服をもちあげた。手首や顔をぬけるときに、いくらか手間取ったがそれほどに時間を費やす仕事でもなかった。それで、ぼくは上半身、裸になる。

「急に脱ぐと、寒いですね」
「いいから。はい、一着目」彼女はシャツをぼくの身体に羽織らせた。二、三個のボタンを簡単に留め、身体を少し離してぼくのことを見た。「なかなか、似合うよ。はい」彼女はぼくの唇に近寄る。お酒の酔いが手伝わなければしなかったかもしれない。ぼくは満足しながらも、少しだけ不服にも感じていたのだろう。それは、彼女が一方的に決めたものだった。ぼくのこころは関与すらしていなかった。「はい、次」
「義務的ですね」
「だって、義務的に処分するんだもん」彼女はいま脱いだものをたたみ、横のテーブルに置いた。「次、これ」

 ぼくは着せ替え人形のように手を伸ばす。そうされると、彼女の愛の一端が感じられるのだ。それが、ぼくへの愛なのか、むかしの男性への愛の喪失を手伝うだけなのか、本当のところは分からなかった。だが、分からなくて当然だとも思っていた。ぼくは、ただの意識もない人形なのだ。着せ替えられるのを待つ意志もない人形なのだと思おうとした。だが、彼女の唇が近寄るたびに、ぼくは人形ではないことを知る。生身の、無防備な生身の姿をもつ人間なのだ。その人間であるぼくは、永遠に着る物があればよいとも思っていた。だが、服の枚数は底をついてしまうのだろう。いずれ。それほど遠くない未来に。

「残念ですね」
「それで、最後だよ。もう、脱がなくていい。それ、着たままにしな」
「いやですよ。自分のを着て帰ります」
「じゃあ、脱いで。うるさいな。酔い覚ましのお茶でも入れてあげるよ」
「これを着たら、最後にキスがまってますよ」
「その服、順平くんのだろう?」
「だって、約束ですよ」

「そんな約束入ってないよ」彼女は流しでヤカンに水を入れていた。まわした蛇口から出る水の音がかなり大きな音で響いた。ぼくは最後の服を着て、彼女のそばに近寄った。
「はい、着ました」
「分かったよ。最後」ぼくは、五、六回だけ彼女の唇に接したことになる。「これで、終了。コーヒー入れるよ」
「思い出話もしてくださいよ」
「それも約束に入っていないからダメ」

 ぼくはキッチンのテーブルに向かって座った。いつみさんが戸棚を開けたり、スプーンを探したりしている様子をそこで眺めた。カタコト言わせながらふたつのコーヒーが用意された。彼女もぼくの斜め前に座った。そこで、ぼくのテーブルの上に置いた手の上に自分の手の平を軽やかにのせた。「ありがとう」と、そっとそれからささやいた。
「こちらこそ。新しい服が手に入った」
「忘れるって、わたしみたいなのが忘れるのって、誰かのことをペンキみたいに上塗りさせることしかできないのかも。そういう作業が必要なのかも。手伝う?」
「どういうことですか?」
「ロマンチックじゃないな、順平くん」ぼくはコーヒーを飲み干す。彼女はそれよりか早く飲み終わっていた。大きな袋を用意して洋服をそこに入れた。

「もう一回、試着しようかな」と、ぼくはこの時間の重い空気を嫌い、無邪気をよそおいそう言った。
「バカだな、順平くん。でも、いいよ」彼女は微笑み、長い時間、今度はキスしてくれた。それはあまりにも長く、先ほど見た映画より長く感じた。それに彼女の唇は移動して、ぼくの首のほうにまですすんだ。ぼくは服の入った袋につまずきそうになり、倒れるのを避けるためより一層、彼女に近付く口実を見つけたように喜んだ。
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Untrue Love(25)

2012年10月09日 | Untrue Love
Untrue Love(25)

 いつみさんがいつになく女性らしくなっていく。ぼくの視線も同じようにまどろんでくる。変化が最初のうちは見えないところで、そのうちに外部にもあらわれてくる。お互いの境界線がおぼろげになり、接点を見つけやすくなる。だが、別々の存在であることも承知していた。

「洋服とか最近、買った? 順平くん」彼女の右手の二本の指先がグラスを触っている。
「そこまで、まわらないですね。小遣いが」
「親のもとに帰る?」
「帰りたくないですよ。やっと、自由になったのに」
「そうだよね。でも、お母さんなんていついなくなっちゃうか分からないんだよ」
「淋しいですか?」

「何となくね」彼女の母は亡くなっていた。その母が残した店をふたりの子どもが引き継いでいた。あまり弱気な部分を彼女は見せないが、はじめてぐらいに見るととても魅力的にうつった。「優しくしてあげるといいよ」
「そうします」
「そうだ。それで、お願いしようと思った」
「なんですか?」

「言いにくいんだけど、いらない服がいくつかうちにあるんだ。なかなか良いものもあると思うので、引き取ってもらうか、いらなかったら捨ててもらってもいい。処分してくれないかなって。多分、わたし、酔ってきたのかな」
「それを、着てたひとがいる?」
「いた」
「いまは着ない?」
「そう」
「でも、もうこれからも着ない?」
「しつこいね、順平くん。時間が経って着ないものは、そのひとはもう着ないよ。いやなら、いいんだよ。何となくお願いしてみただけだから」

「でも、見てみないと」
「それは、見せるよ。着てもいいよ。でも、見たら、どっかに持って行って」
「それを、もしぼくが着てたら不愉快にはならない?」
「ならないよ。洋服に魂かなんかがある訳じゃないから」
「そうですけどね」

 ぼくは少しだけ黙る。すると様子を見るようにいつみさんも口を閉ざした。ぼくの機嫌を損ねたのではないのかという心配も微かだが混じっているようでもあった。それはぼくが勘繰っているだけなのかもしれない。
「役に立ってよ」といつみさんが話を戻した。
「どれぐらい前なんですか?」
「なにが?」彼女はきょとんとした表情をする。
「それを着なくなってしまったのは」
「もう1年ぐらい前だよ。やだな、順平くんだって好きな女の子がいたんでしょう。わたしの方がずっと、大人の女だよ。ずっと大人。経験もたくさんした大人」そう言いつづける彼女は逆に子どもっぽく見えた。主張をすればするほど振り子は反対側に揺られたからだ。

「嫌いになったんですか、そのひとのこと?」
「さあ。え? この話の主導権を握ろうとしているの? 子どもなのに」
 ぼくはぶすっと膨れっ面をする。ささやかな抵抗がそうした幼稚な表情を敢えて作らせた。
「そうですよ、好奇心があふれる子どもですよ」
「大人って、意外と大嫌いとかにならないんじゃないの。別れるための理由をたくさんみつけて、それでも、意気がくじかれて、それで、なんとなく終わりにしようと試してみて」
「後悔しているみたいに聞こえますね」

「別にしてないよ。だから、服もあげるって言ってるんじゃない」
「じゃあ、貰います。毎日、着て、それで、その格好で毎日、目の前にあらわれます」
「はい、決まった。男の子は自分の言葉を撤回しちゃダメ。絶対に。さ、飲み干して」彼女はぼくの目の前にあるグラスを持ち上げ、ぼくに握らせようとした。
「え、もう、これから行くんですか」

「そうだよ。約束は守ってもらわなきゃ」ぼくは勧められるままそれを飲んだ。彼女は微笑み、より一層子どもらしい表情になった。ぼくは短い人生ながら、誰からよりも、このひとがぼくに与える影響を恐れ、また信じようとしていた。それは矛盾でもなく、ぼくの脳とこころが分離しながらも、それぞれの部位が彼女を理解しようとしている経過と結果でもあるようだった。

 ぼくらは外に出る。「ここから、歩けるの。順平くんちは?」といつみさんが言った。ぼくはうなずいた。それから彼女は通り過ぎようとしたタクシーを呼び、ぼくらは後ろに乗った。いつみさんの家のそばで車を降り、「危ないから掴まってもいい?」と言って彼女はぼくの腕に自分の腕をからめた。ぼくは彼女のいまだけを知っているということに自分を納得させようとした。納得させる理由があるという事実が次から次へと浮かんだ。彼女が過去に好きになった男性がいた。未来にはぼくは嫉妬をしないが、過去には簡単に嫉妬をした。それはあまりにも容易だった。だが、このいまの彼女を知っているという優越さも、未来の誰かが嫉妬するかもしれないという無駄な想像にも時間を費やした。ぼくは、ただどうにかしていた。

 部屋に入り、彼女は部屋のタンスを開き、引き出しも開けた。投げ出すように男物の服を放った。ぼくはその姿を棒立ちになって見つめる。それが過去の集積であり、彼女の愛の名残りであった。やどかりは別の殻を見つける。ぼくはその捨て去られた殻を発見する。一年前の自分は勉強のため机に向かっていた。そのときに彼女の愛は破綻するきっかけを探し、手に入れたのかもしれない。時間というものの難しさをぼくは感じている。だが、何が難しいのかは分からなかった。ぼくは彼女の背中を見る。いつもの店でその姿を何遍も見たはずなのに、ぼくは自分がこれほど焦がれているとは知らなかったのだった。
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Untrue Love(24)

2012年10月08日 | Untrue Love
Untrue Love(24)

 ぼくが住んでいる隣の駅には映画館があった。新しい映画を上映するのが目的ではなく、数年前の、もしくはもっと前の映画を思い出したかのように上映していた。ぼくは駅に設置されている広告を見て、ひとつの映画に興味をもった。その日は休日であり、することもなかった。家でたまった洗濯をして、ベランダに大きなものを干してから、外出した。冬の日中の晴間を有効につかう。

 一駅だけ電車に乗り、ぼくは映画を観る。いまいる場所も、置かれた状況もまったく関係ない。ただ、その流れる映像に魅了され没頭する。少しだけ涙ぐみ、少しだけ切なくなる。自分の状況に変化を起こせないひとにやり切れない気持ちをもった。未来を自分で決められない世界があって、そこに甘んじるひとびとも多くいた。ぼくは自由というものが何であるのかを考える。しかし、空腹に支配され、満腹を勝ち取るために映画館を去った。

 ぼくは駅前の店を眺めながら歩いた。いつか、いつみさんが連れて来てくれたお店があった。中をのぞくとそのときの店員が会釈をした。それでも物足りないようで店も空いているためか外にでてきた。

「今日は、ひとり?」
「ええ。そこで、映画を観てました」
「そんなところ、あったっけ? ああ、あの古い映画のところだ」
「そうです」
「気に入ったのあった?」

 彼女は洋服でも評価するような口調で言った。ぼくは題名を言い、内容をかいつまんで語った。彼女は面白そうとも観たいとも言わなかった。ただ、ぼくが話す言葉を待っていた。それから、「寄っていけば」と付け加えた。

 ぼくは座ってビールを頼む。メニューを長々と見て、どんな料理が出るのかを想像した。難しそうなものにも抵抗があり、味が簡単に分かるタコの名前が入った料理を注文した。2、30分そのままそこでくつろいでいると、男女の声が入り口にきこえた。ぼくのところから姿は見えない。だが、聞き覚えのある声だったのは間違いない。

 そのふたりがぼくの横を通り過ぎた。顔を見ると、女性の方はいつみさんだった。
「なんだ、びっくりした。ひとりで来てるんだ」
「あ、はい」となりに男性がいる手前、ぼくは親しい感じをだせずにいた。そして、その瞬間、ぼくは男性のことを見つめる。笑顔がさわやかな背が高い男性だった。そのまま奥にふたりが消えると、会話の音ももう聞こえなかった。店内は段々と混んできて、ぼくはひとりぼんやりとしている。ぼんやりとしたが、ぼくのこころはいささか動揺していた。そのそこはかとない動揺がいつみさんへの好意の証だった。

 だが、何分かすると男性だけが通り過ぎた。彼はその際にぼくの方を向いて微笑んだ。どこまでも好印象をのこす相手だった。タバコか何かを買って戻ってくると思っていたがいつまでも帰ってこなかった。だが、そのうちにいつみさんだけやって来た。
「そこ、座ってもいい」ぼくの向かいの空の席をいつみさんは指差す。そうするのが決まっているように片手にグラスを持っていた。
「え、いいんですか?」彼が戻ってきたときの心配をぼくはまだしていた。
「ああ、あのひと。帰ったよ」
「いっしょに行かないんですか?」
「用も済んだし」それ以上、ぼくに報告する必要な情報がないかを試すように彼女は見守る。「あ、ただの知り合いだよ。彼氏とかじゃないよ。残念だけどね。妬いた?」
「さあ。まあ、興味はありますけど」

「仕事でいろいろお世話になっているひと。もともとは弟の同級生。野球の仲間でもあった」
「そうなんですか」
「でも、なんでここにいるの?」
「さっきまで、そこで映画を観ていたんです」
「ああ、あのアート系の。背伸び系の」
「そう言われると身も蓋もないけど」
「ここに、わたしがいると思った?」
「半々ですね。とりあえずは覗いて置こうかなと思ったら、店員さんに声をかけられた」
「うちの店に来るときみたいだね」

 いつみさんは通りかかった店員におかわりを告げる。ふたりは共謀する仲間のような関係性を見せた。それが具体的にどこかは分からない。ただ、同じような秘密をもっているふたりのようでもあった。
「いつみさんもたまに?」
「来るよ。アート系は見ないけど。ここの店員さんも可愛いよね。うちで雇ってみたいけど、それほど支払えないからね」
「考えることあるんですか?」
「長期の休暇も取れなくなったから、いつか、海外でもまた行きたくなったら、お手伝いしてくれるひとがいると助かる。誰か、知ってる?」
「まったく。誰かを雇うということも考えたことないから」

「うちは弟がいるからね。10日ぐらいじゃ路頭に迷うこともない。そのときは順平くんが手伝う?」
「ぼくが居たんじゃ、お客さんは喜びませんよ」
「弟の知り合いが来てくれるかも」

「常連さんが離れちゃいますね」ぼくはそう言いながらもベランダで風に吹かれて揺れているであろう洗濯物を想像していた。いつみさんの部屋はどういう構造になっているのだろうか。ぼくは先ほどの男性がそこに立っている姿をなぜだか結び付けていた。それに比べるとぼくはまだ大人になっていないことが確かめられるようだった。仕事のことについて、やり取りがあり、利益や損害の心配もして、その折衷や妥協を考えられてこそ一人前の男のような気がした。だから、何だかいまのぼくは幾分小さくなってしまった印象だった。直ぐに大きく見せる必要もないが、ちっぽけな存在でいることもそこそこに憂鬱だった。
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Untrue Love(23)

2012年10月06日 | Untrue Love
Untrue Love(23)

 日常の様相をとりもどす世間。その一員にぼくも加わる。何かを産み出す訳でもない。ただ、荷物を運び、将来のために勉強をする。そして、誰かのことを考え、その誰かに自分のことも考えてほしいと思っていた。

 バイトが終わり、車を買ったばかりの友人の早間が近くに来る用事があるというのでその日は迎えに来てもらうことになっていた。だが、なかなか来なかった。ぼくは手持ち無沙汰になり、ただそこに立ち尽くしていた。勝手に帰ってしまうこともできないし、また、いつまでもこのままで居つづける訳にもいかなかった。木下さんが会社の仲間と帰る様子がその時に見えた。そのまま行けば彼女はこちらに近付いてくる。案の定、ぼくのことを見つけ、彼女は軽く会釈する。となりの女性は、「誰?」という表情をした。だが、暗い中ではその後の展開などまったく分からなかった。そして、まだぼくは待っていた。

 車のブレーキ音がして、目の前に一台の車が停まった。運転席には早間がいて、となりには紗枝という女性がいた。
「ごめん、そこ、急に工事してたみたいで、迂回した」窓から顔を出した早間が言った。そして、後部を指差し、乗るように促した。ぼくはドアを開け、身体をすべりこませた。

「ありがとう」ぼくは待っていたことも棚に上げ、陽気に声をかけた。それは車内に喧嘩の名残りのような雰囲気があるためだった。彼らは大学に入り、直ぐに交際をはじめたので、関係は半年以上あったはずだ。ぼくはその関係を客観的に眺めるたびに、しっくりといっていない何かを感じていた。かといってぼくが口を挟む問題でもなかった。それに、口を突っ込むほどぼくはその関係に責任など持ちたくもなかった。ただ単純にぼくはぼくのことで精一杯だったのだ。彼らの方が時間の余裕もあった。その時間をどう発展させようが、反対に潰してしまおうがぼくの関与など必要もないのだ。かといって、このようにたまに会うことも、ぼくにとってはまったくの無駄な時間とも思えなかった。

「ファミレスでも寄ろうよ」と主に早間はぼくに対して声をかけた。

「いいよ」窓外を見ながらぼくは返事をする。木下さんはいまごろ地下鉄のなかで揺られているのだと考えてもいた。ぼくは今年はまだ彼女と会話をしていない。去年の関係も具体的ななにかを見出した訳でもないが、なぜかその細い糸ですら断ち切るには名残惜しかった。階段をゆっくりと登るように次の段階にすすみたかった。ぼく側から見れば都合の良い願いでもある。ぼくは、いつみさんという女性のことも気になっていた。その対象はさらに増えるかもしれないし、減って厳選されるのかもしれない。こうして、車に揺られながら解決しない問題を無駄に考えているのは愉快なことだった。前のふたりの段階はすすみすぎ、下降に向かっているようにも思えた。もしくは、急にその下る階段すら取り除かれたようにも見えた。はしごのない関係。だが、空中に浮かびつづけることもできない。落下か別の解決策を探すしかない。

 大きな通りから左折し、ファミレスの駐車場に車を入れた。三つのドアを閉める乾いた音がして、ぼくらは店内に入った。ぼくはいつみさんの店のカウンターに座っている錯覚をおぼえる。ぼくがバイト後に外食するのはそこが主だったからだろう。目の前にすわった早間と紗枝はひとつのメニューを狭い窮屈な姿勢で見ていた。ぼくは彼らの正面にひとりで座っている。それは自由の象徴でもあり、愛の喪失であり、求められていない証拠でもあるようだった。だが、それほど深く憂いていたわけでもない。多くの時間を自分はそうして過ごしてきたのでもあり、最近の女性ともった時間のほうが「たまたま」という感覚に近かった。たまたまなのだ。まぐれの時間。ひとりで注文する品を考えながら、ぼくはそのようなことを考えていた。そして、間もなく、店員が注文を取りにきた。紗枝はパンケーキを頼む。早間はナポリタンという言葉を発した。ぼくはサンドイッチを選んだ。店員はそれぞれの品を繰り返した。

 紗枝はぼくの好みの女性を質問した。ぼくはいままでならその答えに架空の女性を想像して立体化させた。だが、その具現化された女性はどこにもいないようだった。どこかにいると想像して話していたのだが、結果としてはどこにもいない。いまの自分はどこかにいる女性を想像できた。だが、その数人はまったくタイプが違かった。彼女たちの全体像を知っているはずもない。それでも、知っているその一端を調べてみると、静かな雰囲気をただよわせている木下さんがいたし、面倒見の良さそうないつみさんもいた。陽気でぼくは多少、彼女の態度や言動に振り回されることを喜んでいるユミもいた。それで紗枝の質問に対する答えとして、ぼくはユミをイメージした女性について語る。しかし、ぼくが口にした女性は、なぜだかユミとは離れていった。ぼくはあの日のユミを思い出していて、そのすべての印象をあの時間に把握しきれていないことを発見する。あの日の印象のいくつかの余波は何日か経ったこのファミレスのテーブルで友人たちを前にした瞬間に訪れるのだった。そのズレにぼくは戸惑っているようでもあった。だが、その戸惑いは外部に出ない。ぼくのなかの深いところで発酵されるのをじっと待っているようだった。
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Untrue Love(22)

2012年10月05日 | Untrue Love
Untrue Love(22)

 翌朝、ユミは帰った。ぼくはまた駅まで送った。いっしょに居る間は、どこかでひとつになっていない感情をもったが、駅で別れて離れてしまうと、逆に密接な気持ちをいだいた。そのことを不思議がりながらぼくはもと来た道を戻ろうとしていた。彼女がぼくのことをどう思っているかは分からない。完全に理解するということなども望んでいなかった。ぼくは喉の渇きを覚えたため店に入り、飲み物を買い、それを飲みながら歩いた。通りの途中に小さな公園があったので、そこのベンチに腰を下ろした。早目に家に戻ってしまえば、ユリの放つ濃度に侵されるような気がした。それを避けたいとも思っていなかったが、なるべくなら先延ばしにしたいとも感じていた。なぜなのだろう。

 足元に餌をもらえるであろうと誤解をしている小鳥たちが近付いてきた。小さな泣き声が耳に届いた。ぼくは気配を消すようにじっとしていたが、その鳥たちはぼくの意志など無視して、去ろうともしなかった。次には孫であろう小さな子がお祖父さんの手を引き公園に入って来た。ぼくはその男性の年齢がいくつであるか考えようとしたが結局は分からなかった。六十は過ぎているのだろうが、七十才や八十才であるのかも判断できなかった。三才ぐらいの男の子の年齢に三十を二回足した。それで勝手にぼくはそのひとを六十三才と決める。当たっていようが外れてしまっていようが、ぼくにはもう関係なかった。ただ、方向転換してユミについてのことを考えようとした。

 だが、その願いも無視され、男の子がぼくに近寄ってきた。それで、膝のあたりに触れられる程度に寄ると、右手からボールを離してぼくに投げた。ぼくは関わらないわけにはいかなかった。それでぼくはそれを拾い、彼の手に握らせた。

「すいませんね。遊んでくれると思ったみたいで・・・」男性は笑顔でそう言う。申し訳ないという印象はあまり受けなかった。それは孫と遊べる自分の立場をただぼくに置き換えているようだった。不快な感じはしなかったけれど、ぼくはどう接してよいかも分からなかった。それで、笑顔で軽く会釈をした。小さな子は歩き、今度はすべり台の上のほうに向かってボールを放った。能力があるのか、それは坂の上空で一瞬止まり、また転がり落ちてきた。その子は両手を差し出し受け止めようとしたが、ボールは彼の両足の間を几帳面に通り過ぎた。その子は振り返りボールの行方を追った。それで、男性は草で前進を遮られたボールを握って、その子にふたたび差し出した。

 男性はもう一度、ぼくのほうを見る。ぼくには彼の立場が分からず、彼にはぼくのこののどかな気分が分からないようであった。ぼくはまた飲み物に口をつけ、考え事に戻った。

 数年前の自分といまの自分は決定的に違う。ぼくのとなりに家族でもない女性が寝ることはなかった。学校で会ったり、通学の電車に乗っていたりするのが、異性であった。そこは一日のスタートから時間が経っており、外向きの顔を身につけている。それに反して、今朝のユミは無防備だった。髪も乱れ、服も最小限しか着ていない。それは魅力を損なうものではなく、増し加えるものだった。丸い果物が、六等分だか八等分に切られ皿に盛り付けられた印象を残した。八百屋やスーパーに並べられたものではなく、口に入るのが前提の状態だった。そして、今後は、ぼくは女性を違った観点で見ることになってしまうのだろうという予感を含んでいた。あの男性も父親からお祖父さんという状態に自分を変化させた。それは望んだことなのだろうか? 少なくとも、ユミをそういう視線で見る自分は確かに望んでいたことなのだろう。

 ぼくはベンチから立ち、昨夜のユミのように伸びをした。ぼく自身がカメラという機械であるならば、ぼくの写真の枚数は一日でたくさん増えた。そのことを示すように、ぼくはただ身体をストレッチさせることでさえユミを引き合いに出した。その枚数はぼくが幸運であれば、フイルムを交換する必要もないのに、一方的に増加していくのだろう。減ることは絶対にない。それが、ひとびとが口にする思い出というものなのだろう。

 ぼくはアパートに戻り、鍵を開けた。彼女の靴がないということが、ぼくを一瞬だけ淋しい思いにさせた。靴という左右対称の物体を思い出すことによって同時にぼくは木下さんの姿を想像した。

 部屋にはユミの匂いがまだ残っていた。いっしょに居るとき以上にぼくはそれに刺激されていた。それを失いたくないと考えながらもぼくは窓を開け放った。冷たい風が部屋に忍び込み、ぼくの机に載せられていた紙は揺れ、それに生じたのか乾いた音を発した。

 ぼくはビニール袋に入れっぱなしにしてあったシャンプーを風呂場に入れた。それから、昨日、ユミがかけた音楽をまた流した。その音楽にも思い出が結びつき、レッテルを貼った。お祖父さんという役目もあるならば、恋をする男性というものもあるようだった。しかし、それが恋という状態にたどり着くには何かが欠けているようにも思えた。だが、真実なこととしてその状態にエントリーできるのはいまのぼくと、あと数年の短い期間のぼくだけのような気もしていた。
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Untrue Love(21)

2012年10月04日 | Untrue Love
Untrue Love(21)

 ぼくは玄関の鍵を開ける。その行為を誰かに見られているということは今までなかった。だから、その感覚が自分でもいくらか不自然のようにも思えていた。ぎこちなくなるほどでもないが、いつになく自分自身と、鍵をまわしている姿を他人のようにも感じた。

 それで、部屋に女性がいる。ぼくはユミの部屋にこの前、誘われて入った。しかし、それは彼女の領分での変化で、ぼくのこころには直接には関係ないともいえた。こころではなく領域なのかもしれない。彼女がいることによって部屋自体に変化がせまられている。匂いも変わり、空気も変わる。ぼくが動かなければ日常の部屋の空気は移動しないが、いまはそうではない。彼女が動くと、部屋の空気もぼくのこころの状態も変わった。何かが押し出され、何かがやすやすと入り込んできた。

「2本、開けちゃうよ」ユミは缶を手に取り、二本のビールを開けた。それをきっかけにして少しだけ泡が吹きこぼれる。ユミはひとつをテーブルに置き、もう一本を自分の手の平に握ったままにさせた。それをぼくらは同じ高さに上げて、唇をつけた。「おいしいね」と自然な感想を述べ、それから、彼女はポテト・チップスの袋を開いた。

「皿でも、出そうか?」
「いいよ、このままで」彼女は親指と人差し指でひとつつまんだ。「ここ、誰か女のひとが来たことある?」
「ないよ」ぼくは、その事実を確かめるように首を振って部屋のなかを見回した。
「じゃあ、わたしがはじめてなんだ」

「そうだよ」ぼくはビールを飲む。一年がはじまったばかりの午後。
「嬉しいな」彼女も部屋のなかを見回す。「意外ときれいにしてるんだね」
「大学に行って、バイトに行って、部屋を汚すほど、時間もないのかもしれない」彼女はまじめにきいていたのだと思うが、あくびをした。後先も考えずに遊び、働いたのだろう。そして、ユミは思い出したようにCDを出した。
「なにか、かけられるものあるんだよね? 音楽」
「あそこに、あるよ」ぼくは小さなプレーヤーを指差し、そばに寄り持ち上げた。あいにく、コンセントが抜けていたようで空いている穴に差し込んだ。彼女はCDをセットして、ボタンを押した。予想以上に小さな音で流れたので、彼女はボリュームを上げる。

 彼女は聴き入るように目を瞑り、そのうちに口ずさみはじめた。低音の男性の声に合わせるように彼女も低い音で発声した。ぼくは声というものがこれほど個性があらわれるものだと思っていなかった。それが音楽の声を指しているのか、ユミのことを思っているのか判断できなかった。だが、声が空気をふるわせてぼくの耳に達しているのだから、その熱を帯びた身体を有している方が、より身近に感じるのだろう。

「音楽とか、楽器とか好き?」
「聴くのは楽しいけど、演奏とかはまったく」
「わたしは習っていたけど、もっとつづけていれば良かったな。直ぐにほかのことに関心が向いちゃうタイプだから」
「でも、手に職があるじゃん」
「まだ、これからだよ」そして、ポテト・チップスを口に入れた。

 午後はゆっくりと過ぎる。だが、冬の太陽は足早に仕事を切り上げる。窓の向こうは段々と暗くなってきたと思ったら、次にはもう真っ暗だった。ぼくはカーテンをしめる。またビールの缶を冷蔵庫から取り出して部屋に戻ってくるとユミをまたぐような形になる。部屋はそれほど広くもないのだ。彼女は首を下げていた。音楽を熱心に聴き入っているのかと思ったら、いつの間にか居眠りしているようだった。あくびを連続して繰り返したのも終わり、いまは音のない世界にいるのだった。ぼくは上着を彼女の膝元にのせる。そして、CDを止めて、部屋を無音にさせる。缶をまとめてビニール袋のなかに入れ、流しの横に静かに置いた。ぼくはすることもなくなり、彼女の横顔を眺めた。光線の加減か白黒の世界のようでもあり、立体的な部分もあった。ただ、いつもの躍動的な姿の彼女はそこにはなく、静寂のなかに閉じ込められてしまったようだった。そうしていると、彼女の魅力は減少してしまうのかといぶかったが、まったくそんなことはなかった。杞憂に過ぎなかった。だが、ぼくのことが退屈な人間なのかと疑念もいだいた。そう思っていると彼女は目を開いた。

「やだ、わたし、寝てた?」
「そうでもないよ。ただ、うとうとしているようだったけど。つまんない?」
「ごめんね。全然、そんなことないよ。音楽、聴いてたらリラックスした。部屋も暖かいし、安心を与えてくれるような場所だから」

 彼女は両腕をあげて身体を伸ばす。その自然な振る舞いを見て、ぼくはいつもの彼女との接点を見つける。
「髪、また伸びた。もう、店に来ることないよ。ここで、切ってあげる、今度」彼女はぼくの髪に触れる。カラフルな服を着ていたが、そこだけは爪も短く色もなかった。「女の子の髪も切りたいって、お願いしたと思うんだけど」
「うん。腕は試せたけど、ぼくに女性の友人がいない」
「残念だね」しかし、彼女の口調はそう残念そうにも伝わってこなかった。ぼくは彼女が目を覚ましたのを機に薄暗い部屋の電気のスイッチを着けた。ユミはそれを合図のように、「まぶしい」と言葉を発した。彼女はわざわざぼくの手を取り、自分の目を隠した。ぼくは急にそうされて前のめりになった。「まぶしかった。でも、もう大丈夫」
「誰だ?」ぼくは緊迫した部屋の空気をおそれるようにわざとふざけた。
「眠い女性を部屋に呼んだ大学生」と、彼女はかすれたような声で告げた。
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Untrue Love(20)

2012年10月02日 | Untrue Love
Untrue Love(20)

 朝寝坊をして、コーヒーを入れる。これといって予定のない一日のはじまり。部屋は外気の冷たさを充分に遮断できていない様相だった。カーテンを開け外を見ると晴れていた。カーテンの隙間からおそらくそういう状態であることは予想できたが、今年最初の晴れの天気をぼくは自分の目で確認する。それから、ぼくはカップを握り、ぼんやりと空を見た。年を跨いだことを気にしているは人間だけのようだった。飛ぶ鳥たちには、そういう区切りがない。昨日と同じ音量で鳴いていた。

「順平くん」電話が鳴ったので出ると、ユミの声がした。彼女の居場所はとても近い感じがした。「どこにも行かないんだ?」
「え、いまどこ?」
「仕事をしてた」
「休みじゃないんですか? てっきり、実家に帰っているのかと思った」
「知り合いに頼まれてお正月用の頭を作っていたから」

「そういうこともできるんだ?」ぼくは彼女と伝統的な事柄を結び付けられずにいた。
「できるよ。いろいろ器用にできているんだ。夜中まで起きて遊んでたから眠い」実際にあくびのような音がもれた。「どこも行かないなら、午後からでも遊ばない?」
「うん、予定がないからいいよ」
「そっちに行ってもいい?」
「いいよ。だけど、分かる?」
「分からなかったら、教えてもらう」

 ぼくは駅まで迎える旨を告げ、電話を切った。それから窓を開け、部屋の中を片付けた。こっちに来るといったが、それがどこまでのこっちかは分からなかった。部屋を含めてを指していたのだろうか。昨夜はビデオを見終わって直ぐに寝てしまったので、部屋が片付いたあとにシャワーを浴びた。シャンプーはもう直ぐ終わりそうだった。ストックもない。どこかで近いうちに買わなければならないことを記憶にとどめようとした。こうした、さまざまな煩雑なことを母親がしていたことを知る。知ったからといってそれが次の段階にすすむわけでもなかった。その後、またコーヒーを温めなおして飲んだ。適度な苦さが美味しいと感じはじめたのはいつ頃からだったのだろうかと思った。それは数年前という大雑把な範疇に組み込まれた。ぼくは以前の交際相手の唇の感触をなぜだか思い出していた。まだ高校生だ。それを強いてしたかったのだろうか。それとも、好き合ったふたりはそういうステップにすすむのが常識だとも考えていたのだろうか。答えは出ない。それで、待ち合わせの時間になった。ぼくは服を着込み、外に出た。

 駅に向かう道はいつもより静かだった。だが、家のなかにはそれぞれひとがいる気配はしているようだった。それでも、全般的に静寂した空気が町を支配している模様だった。その中でぼくのこころはいくらか浮き足立ってもいた。

 駅に着くと、ユミがぼんやりと立っている姿が見えた。あの女性はぼくを待っているのだ。ぼくを待つということに多くの神経を働かせているのだという事実になぜだか驚いていた。だが、傍から見れば、その様子は分からない。ただ、ぼくのこころが知っているだけだった。

「早く、着いたね」
「あ、順平くん。ここ、静かでいいところだね」
「たまたま、今日だからだよ。もっと、いつもは賑わっているよ」
「そうかな。なんだか落ち着きそうな町だね。引っ越したいな」その気持ちが本気であるかは判断できない。ただ、言葉と言葉の間の無意味なクッションのようにも思えた。

「今日は、店もそれほど開いていない。でも、大変だね。働いていたんでしょう?」
「晴れ着を着たいひとがいたからね。そのためにセットした」
 ぼくはそのことをイメージできず、彼女が着物に包まれた姿を代わりに想像した。しかし、なかなか難しかった。
「成人式には、ユミちゃんも着たの? ごめん、まだかな?」
「去年だよ。地元に帰った。あの生意気な男の子たちもそれなりに大人になってた」彼女は感慨深そうに語った。「順平くんもそのうち」
「そのうち・・・」

「ここは酒屋さん。お魚も売って、肉屋さんもあるんだ」ユミは閉まっている店舗のシャッターやのぼりを見ながら自分に納得させるように言った。彼女が詳しく説明するのをききながら、ぼくの方こそ新しい町にやってきたという気持ちになった。人の目を通して、ぼくらはなにかを認識するのだろう。具体的になるなにかを。

「開いていたら、そういう香ばしい匂いも嗅げたかもしれないね」ぼくはひとごとのように付け加えた。
「でも、眠い。そこのコンビニでなにか買って順平くんの家に行こう。この前、良かったというCDを持って来た。それ、あげるよ」

 ぼくは彼女の家で先日、古い音楽を聴いた。ぼくのこころは水を熱心に求めている乾いた砂漠のようなものだと、そのときに知った。先入観のまったくないフラットなこころは直ぐにその音楽の素晴らしさが沁み込んだのだ。そういう機会を作ってくれた彼女のことも好きになる。ぼくはその音楽を将来のある日、聴き直したならば、彼女のあの部屋のことも同時に思い出すことだろうとも思っていた。

 コンビニの籠に適当に飲み物やお菓子の袋を突っ込んだ。シャンプーまで入れると、彼女は怪訝な表情をした。日常的に彼女は誰かの頭を洗う。ぼくは許可もなくひとに接することなどできない世界に住んでいる。彼女は仕事柄、そのことが許されてもいたのだ。ぼくは彼女の指がぼくの頭を洗ったときの感触を覚えていた。それはどのひとがするよりも心地良かった。清算が済むまでぼくはその瞬間と快感を思い出していた。
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Untrue Love(19)

2012年10月01日 | Untrue Love
Untrue Love(19)

 年末になり、仕事も学校も終わりぼくに会ってくれるひとは誰もいなくなった。それが苦にならない自分の性格もあった。だが、それも数日が無駄に過ぎてしまえば、ひとの話し声が必要になるようだった。

 何人かの会っていた女性はそれぞれの田舎に帰ったり、自分の家に引きこもっているようだった。ぼくは実家にも帰りそびれ、両親はどこかに旅行に出掛けた。行き先をきいたような気もしていたが、そこが伊豆だったか和歌山だったか覚えてもいなかった。そのどちらにも知り合いがいた。だが、急な用件もないので、ぼくは連絡を取る必要もなく、逆に連絡を待ちわびることもなかった。

 さすがに今年最後の一日をまったく無言で過ごすことも哀れすぎたので、早間という友人から電話がかかってきたのを幸いに着替えて会いに行った。そこには栗田という彼の交際相手もいた。

「最後の日ぐらい誰か過ごしてくれる女性はいないのかよ?」と早間雄太郎が投げやりに言った。
「誰か紹介してあげようか? わたしの友だちを。今年はもう無理だけど、来年用に」と栗田紗枝もぼくをからかうように言った。正直なところ、ぼくが来年どうなっているかは自分自身ですら分からない。分からないといいながらも大幅には変わっていないのだろう。大学に通い、バイトで小遣いを稼ぎ、またこうしてひとりでいるのかもしれない。だが、彼ら二人もそれぞれ別の相手と過ごしているのかもしれなかった。その可能性はあった。彼らに共通したものがぼくには見出せず、似合っていないという訳でもなかったが、どこかしっくりこない面も薄々とだが感じられた。それで、話しの都合上、「誰かいたら、教えてよ」と、一般的な対応をぼくはした。

 紗枝はぼくが知っている名前とはじめてきく名前を半分ずつぐらい並べた。知っている名前をきけば、ぼくはそれを客観的に評価し、その女性の足りない部分や、ぼくが持て余しそうな箇所を告げた。知らない女性のことは、もう少し情報がほしいとねだったり、ともかくは顔が見たいということで、結局は会話の糸口となる話題の提供だけで終わり、なにごとも発展がなかった。だが、この最後の日に発展させるべき性急な問題ではあり得なかったのだ。

 ぼくらは夕方ごろにいっしょに食事をして、これから、どうするという段階で別れた。彼らは名残惜しそうな意見を口にしたが、これ以上つきあっても迷惑がられることを懸念してぼくはそこで区切りをつけた。ひとりで電車に乗り、ちょっと遠回りして神社が慌ただしくなりはじめる横をゆっくりとした歩調ですすんだ。この町ではじめて年末を迎える。だが、どこにいてもこの空気は同じようなものだった。みな、古いものに別れを告げたがり、そのために新しいものを受け入れる余地を育んでいた。昨日と一日しか違わないのに。

 ぼくは高校のときに付き合っていた女性のことを、そこを通り過ぎるときに考えていた。あれはもう二年も前になるのだ。別の町の別の参道。大きな樹木が両脇に整然と並び、歴史がつむがれていた事実を教えてくれていた。ぼくらの歴史はまだ数ヶ月しかなかった。彼女は積極的な女性だった。誰とでも親しくしていたので、ぼくに好意をもっていることが分かったときは驚いた。だが、その社交性により、ぼくはいくらか困惑する。彼女がぼくのことを好きなのは多分、短い間だけなのだ。もっと魅力的な男性があらわれれば直ぐに方向転換するのだという気持ちが常にあった。その確信のように彼女は同級生にたくさんの友人がいる。ぼくはその不確かな疑問を証明させることをこころの底では願っていたのかもしれない。それゆえに彼女は愛想を尽かし、ほかの男性に変えた。だが、それもこじつけに過ぎないのだろう。ぼくは、ひとりで居すぎた。そして、考えすぎていた。

 家に戻り、暖房をつけ、テレビもつけた。誰がいちばん歌がうまいのか、それとも、売れたのかということを決めていた。ぼくの決めたことは今日のところなにもなかった。ただ、昨日のつづきで惰性のような一日だった。世の中だけがけじめをつけたがっていた。それで、ぼくはもっと娯楽色の強い番組に変えたが、それにも飽き、借りていたビデオをデッキに押し込んだ。

 場所は、二十年ぐらい前のベトナムだった。そこは戦地である。爆弾が飛び交い、アメリカ兵はそもそも湿地帯に向いていない人種のように思えた。それぞれが疲労をかかえ、落とし穴に足を浸けたまま浮き上がることができないひとたちに思えた。彼らはカリフォルニアでビーチ・ボーイズの音楽でも聴いていた方が良かったのかも知れない。そこには政治的な主義も趣味もないようなのどかな空気がながれている。ぼくは今年の最後の日にそんなことを考えていた。あの高校のときの彼女はいったいいまをどのように過ごしているのだろうか気になった。多分、気持ちはベトナムになどない。ぼくにも向かっていない。もっと、上昇することを考えているのだろうか。それも、ぼくのひねくれた考えが作った空想のようだった。あれは、あの子なりに正直でまっすぐな生き方を示してくれていたのだ。そして、確かにあの数ヶ月はぼくへの愛も確かなものだったのだ。それをぼくは豆腐のようなもろさであることも知らず、壊れることを勝手に許したのだ。それに大いに加担もしたのだろう。それもこれも今日で終わる。実際は二年も前に終わる予兆があり、決別をつけたはずなのだが。

 部屋のチャイムがそのときになった。ぼくの部屋かと思い扉を開け首を出すと、となりの玄関にひとが入る姿が見えた。冬の冷え切った空気がチャイムの音すら予想以上に反響させているようだった。
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