Untrue Love(30)
「そろそろ、起きた方がいいんじゃない?」ぼくは油断していたのか、そう声を掛けられてもその場所が直ぐには分からなかった。ただ、心地良いことだけは感付いている。それで、辺りを見回す。声のした方を見る。そこには、木下久代さんが一日をはじめるにあたり見事なぐらいに、ほぼ完成形に近付いた格好でいた。あとは靴を履くだけの姿で。それだけが彼女に足りない。「眠気覚ましのコーヒーを飲みたかったら、どうぞ。でも、顔ぐらい洗ってね」
「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。大学、今日は遅いんでしょう? 昨日、何度も言ってたけど・・・」久代さんはなぜだか思い出し笑いをした。昨日?
「ゆっくりです」ぼくは布団をめくる。足が地面に接地する。「なんだか恥ずかしい格好ですね。ぼくの服はどこにあるんだろう」独り言のようにぼくはささやく。
「ごめんね、ここだ」彼女はそれをぼくの横にわざわざ持ってきて置いてくれた。「洗濯も自分でしてるの?」
「まあ、週に1回か、2回ぐらいですけど」
「偉いね。さ、コーヒー」彼女はなぜだか執拗にそれを飲ませたがっていた。「いっしょに出よう。わたし、遅刻は厳禁だから」
「すいません、直ぐに服を着ますね」ぼくはズボンに足を突っ込み、簡単に顔を洗った。そのタオルにも久代さんの匂いがしみ込んでいた。一日で、わずか一日で覚えた匂い。だが、永久に覚えてしまうような匂いでもあった。ぼくはそれからコーヒーを八分目ぐらい飲み、いくらか黒い液体が残っているカップを流しに置いた。仕度も済んだ。髪はぼさぼさのままだったが。名残惜しいがそこは去るべき場所だった。確認したくもなかったが、玄関に無雑作に並べられた自分のスニーカーは憐れさを感じるぐらいくたびれていた。新しい服は貰ったが、靴までひとのものを履くわけにもいかない。これぐらいは親にねだるかと考えていた。最近、家に寄りつかないので何度も電話がかかってきていた。なんだか、別な用件もありそうだった。
久代さんと駅まで歩き、ぼくはホームの反対側で彼女を見送る。経済の成り立ちの一端に加わるひと。まだ、学生としてそのチームに入ることを猶予されているひと。つまりは、自分と久代さんの立場の違いが、その駅で明らかになった。
これが、ぼくの大学の一年目で勝ち得た、いや、譲りえた、いや、幸運をみつけた生活だった。ぼくは、大学に通えば同年代の子と新たな生活をはじめるのだという漠然とした期待があった。高校時代の理解し合えなかったあの同級生のことも過去に押し込められるのだ。だが、結果はまるで違っていた。バイトと、その通う町を通してぼくの生活が定められていった。それを不満に思うかといえば、まったくの反対だった。ぼくは向かい合ったすれ違うホームで次に来る電車を待ちながら、そう考えていた。だから、田舎から知り合いが来るので世話をするようにと父と母に頼まれても、自分の自由な時間を譲る気も、提供する気もまったくなかった。わずかな時間は惜しく、わずかな小遣いはもっと逼迫するほど惜しかった。それを断る自分には、正当なたくさんの理由があると思っていた。つまりは三人の女性に関連したことなのだが。
ぼくは家に着く。古い湿気たようなアパート。閉め切った部屋の匂いは先ほどまでいた木下さんの部屋とはまったく異なっていた。自分が分類的にオスという存在でしかないことに気付かされるようなものだった。だから、彼女たちを求めるのは仕方がないことなのだと自分を正当化させるような考えも働いた。窓を開け、自分でもコーヒーを入れてみた。それに費やす時間はたくさんあったが、それでも慌ただしく立ったまま飲んだ久代さんの入れてくれたものより桁外れにまずかった。すると、電話が鳴る。出ると、母の聞き覚えのある声がした。
「昨日の夜から何回もかけているんだけど、うちの息子は旅にでも出たのかと思っていた」母は、単純な言葉遣いを嫌い、それが父との接点でもあり、また隙間を作る原因でもあった。「どっかに行ってたの?」
「友だちの家だよ」
「随分と優雅なこと」
「なんか緊急な用事でもあったの?」
「普通、お腹を痛めた息子に連絡するのに、そんなに緊急な用件が必要なの?」
「そうでもないけど、ただ、眠いんだよ」
「分かったわよ。知り合いの女性がうちのそばに暮らしたから、来ないかなと思って。あなたも田舎で会った子だよ。その子と、いっしょに顔合わせのためにも、うちでご飯でもどうかなと。わざわざ、こんなに息子にまで義理だてるなんて。忙しいの?」
「なかなかね。勉強して、バイトして」
「お友だちと評したひとの家にも泊まって・・・」
「そんなに、うちのお袋って、性格が悪かったのかな・・・」
「これで、いいほうよ。来られるの?」
ぼくはカレンダーを見る。見なくても分かっていたのだが、もし暇だったとしても、敢えて別の用事を詰め込むように入れただろう。ぼくの動力のネジは巻かれ、いまにも手がその回転を許すように離れようとしていた。だから、世間のつまらない義理なんかよりも、無愛想な息子を演じるしか方法はなかったのだ。母をも仕方がないと納得せざるを得ない回答をするために、妥当なセリフを探した。思いつかないままに、そこにあるコーヒーに頼って口をつけて、電話を引き伸ばそうと策略するも、そのコーヒーは驚くほどぼくに苦さと酸っぱさしか与えてくれなかった。
「そろそろ、起きた方がいいんじゃない?」ぼくは油断していたのか、そう声を掛けられてもその場所が直ぐには分からなかった。ただ、心地良いことだけは感付いている。それで、辺りを見回す。声のした方を見る。そこには、木下久代さんが一日をはじめるにあたり見事なぐらいに、ほぼ完成形に近付いた格好でいた。あとは靴を履くだけの姿で。それだけが彼女に足りない。「眠気覚ましのコーヒーを飲みたかったら、どうぞ。でも、顔ぐらい洗ってね」
「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。大学、今日は遅いんでしょう? 昨日、何度も言ってたけど・・・」久代さんはなぜだか思い出し笑いをした。昨日?
「ゆっくりです」ぼくは布団をめくる。足が地面に接地する。「なんだか恥ずかしい格好ですね。ぼくの服はどこにあるんだろう」独り言のようにぼくはささやく。
「ごめんね、ここだ」彼女はそれをぼくの横にわざわざ持ってきて置いてくれた。「洗濯も自分でしてるの?」
「まあ、週に1回か、2回ぐらいですけど」
「偉いね。さ、コーヒー」彼女はなぜだか執拗にそれを飲ませたがっていた。「いっしょに出よう。わたし、遅刻は厳禁だから」
「すいません、直ぐに服を着ますね」ぼくはズボンに足を突っ込み、簡単に顔を洗った。そのタオルにも久代さんの匂いがしみ込んでいた。一日で、わずか一日で覚えた匂い。だが、永久に覚えてしまうような匂いでもあった。ぼくはそれからコーヒーを八分目ぐらい飲み、いくらか黒い液体が残っているカップを流しに置いた。仕度も済んだ。髪はぼさぼさのままだったが。名残惜しいがそこは去るべき場所だった。確認したくもなかったが、玄関に無雑作に並べられた自分のスニーカーは憐れさを感じるぐらいくたびれていた。新しい服は貰ったが、靴までひとのものを履くわけにもいかない。これぐらいは親にねだるかと考えていた。最近、家に寄りつかないので何度も電話がかかってきていた。なんだか、別な用件もありそうだった。
久代さんと駅まで歩き、ぼくはホームの反対側で彼女を見送る。経済の成り立ちの一端に加わるひと。まだ、学生としてそのチームに入ることを猶予されているひと。つまりは、自分と久代さんの立場の違いが、その駅で明らかになった。
これが、ぼくの大学の一年目で勝ち得た、いや、譲りえた、いや、幸運をみつけた生活だった。ぼくは、大学に通えば同年代の子と新たな生活をはじめるのだという漠然とした期待があった。高校時代の理解し合えなかったあの同級生のことも過去に押し込められるのだ。だが、結果はまるで違っていた。バイトと、その通う町を通してぼくの生活が定められていった。それを不満に思うかといえば、まったくの反対だった。ぼくは向かい合ったすれ違うホームで次に来る電車を待ちながら、そう考えていた。だから、田舎から知り合いが来るので世話をするようにと父と母に頼まれても、自分の自由な時間を譲る気も、提供する気もまったくなかった。わずかな時間は惜しく、わずかな小遣いはもっと逼迫するほど惜しかった。それを断る自分には、正当なたくさんの理由があると思っていた。つまりは三人の女性に関連したことなのだが。
ぼくは家に着く。古い湿気たようなアパート。閉め切った部屋の匂いは先ほどまでいた木下さんの部屋とはまったく異なっていた。自分が分類的にオスという存在でしかないことに気付かされるようなものだった。だから、彼女たちを求めるのは仕方がないことなのだと自分を正当化させるような考えも働いた。窓を開け、自分でもコーヒーを入れてみた。それに費やす時間はたくさんあったが、それでも慌ただしく立ったまま飲んだ久代さんの入れてくれたものより桁外れにまずかった。すると、電話が鳴る。出ると、母の聞き覚えのある声がした。
「昨日の夜から何回もかけているんだけど、うちの息子は旅にでも出たのかと思っていた」母は、単純な言葉遣いを嫌い、それが父との接点でもあり、また隙間を作る原因でもあった。「どっかに行ってたの?」
「友だちの家だよ」
「随分と優雅なこと」
「なんか緊急な用事でもあったの?」
「普通、お腹を痛めた息子に連絡するのに、そんなに緊急な用件が必要なの?」
「そうでもないけど、ただ、眠いんだよ」
「分かったわよ。知り合いの女性がうちのそばに暮らしたから、来ないかなと思って。あなたも田舎で会った子だよ。その子と、いっしょに顔合わせのためにも、うちでご飯でもどうかなと。わざわざ、こんなに息子にまで義理だてるなんて。忙しいの?」
「なかなかね。勉強して、バイトして」
「お友だちと評したひとの家にも泊まって・・・」
「そんなに、うちのお袋って、性格が悪かったのかな・・・」
「これで、いいほうよ。来られるの?」
ぼくはカレンダーを見る。見なくても分かっていたのだが、もし暇だったとしても、敢えて別の用事を詰め込むように入れただろう。ぼくの動力のネジは巻かれ、いまにも手がその回転を許すように離れようとしていた。だから、世間のつまらない義理なんかよりも、無愛想な息子を演じるしか方法はなかったのだ。母をも仕方がないと納得せざるを得ない回答をするために、妥当なセリフを探した。思いつかないままに、そこにあるコーヒーに頼って口をつけて、電話を引き伸ばそうと策略するも、そのコーヒーは驚くほどぼくに苦さと酸っぱさしか与えてくれなかった。