実はわたくし、黒澤作品の中でも「生きる」は鬼門で、名画座でも何度か観たのだけど必ず寝てしまう
映画に飢えていた学生の頃なのに、何でだろう?暗い画面で志村喬がボソボソと陰気に話すからなのか、若い頃に反発した綺麗事な物語に納得いかなかったからなのか
今日、イギリス映画でリメイクされた作品を観て、もう一度「生きる」を観てみようと思った
ここで描かれている死に向かう最期の生き方は、還暦過ぎてある程度実感としての死を受け入れはじめたからこそ分かるような気がする。ただし、イギリス版「生きる」で唸らせてもらったのは、余命を告げられた主人公の美談ではなくて、小さな公園を一緒に整備した部下たちが主人公の死後志を引き継ごうと結束するのもつかの間、いつしか旧態然と業務を行うその諦めのエピソードだった
嫌な言い方をするなら、主人公の志とは最期の時にパッと燃える炎のようであり、個人的な自己満足だったのかもしれない
黒澤作品がその辺りをどう観せたのか忘れちゃているから確認してみよう
雪の中、整備された公園のブランコに楽しそうに乗っていたのは、自分のためだけの矜持だと思うのだけど
それが彼の生きる意味だったかどうかは未だ理解できていない
日本人の几帳面さとイギリス人の融通の利かなさがうまく溶けあった作品だと思う
アメリカやフランスでリメイクされたらこんなにしっくりこなかったろう
ルーツが日本にあるイシグロカズオ氏の脚本である事も大きな要因だろう
存外、コンパクトに作られた分、分かりやすくてわたくしはこのイギリス版が気にいってる