恋愛のかたちに思わず考え込んでしまい土曜日の夜10時、行き交う車も疎らな新興住宅地のなだらかな道をトコトコ走った。
そっくりな容姿をした二人の人が交互に現れたらどちらを愛するのだろう。知り合いに双子(一卵性)がいないので身近に感じたことはなかったが、もし、愛した人が双子だったらどんなふうに感情は彷徨うのだろう。どんなに顔かたちは似ていても人格は全く別物だと聞いたことはあるが、人間好意を持つ最初の取り掛かりはやっぱり顔かたちに違いない。性格が合う合わないとかはその次のステップだ。
それでは顔かたちが同じだからといって素直に二人を愛することができるのか、答えは出せない。この作品を観終わって帰りの車中で答えの出せない疑問を考え続けた。不思議な恋愛映画。でも、とても気持ちが落ち着いてやわらかい心持になった。
朝子の前に現れた二人の男、麦と亮平は顔かたちは同じでも人格は真逆。麦は感情のまま自分勝手に朝子を愛し、突然目の前から消えるような男。一般的にはダメな奴。でも、二人乗りのバイクが転倒事故を起こしても、衆人の前で朝子を抱き寄せ口づけする突拍子の無さは男から見てもかっこいい。こんな生き方ができるならやってみたいとも思う。
対極の亮平は真面目にコツコツ社会のなかで生きている良識あるサラリーマン。昨日の続きに今日があり、そして明日を積み重ねてゆける男だ。麦のような力強さや瞬発力はないが、緻密さと持続力そして持ち合わせた誠実さは人として信頼できる。
朝子の気持ちで観ているうちに亮平として考えている自分がいて、優れたドラマは全部そうだけど劇中の人物に心は移ろう。
だから、5年前に消えた麦が現れて手を引いた時に流されるように付いてゆく朝子に戸惑った。麦がモデルとして注目され偶然撮影現場に居合わせた朝子が走り去る麦を乗せた車に手を振るシーンで、彼女は麦への感情を吹っ切ったと思ったから尚更スルスル付いてゆく朝子に裏切られた気持ちになる。もっと朝子の気持ちが掴めなかったのが、東北の早朝の海から亮平のもとへ帰ろうと心変わりしたその気持ちの変化。いくら好きな女だからといっても、別の男に手を引かれ目の前から去っていった女をすんなり受け入れられるほど普通の男は強くない。当然亮平も朝子を拒否する。観ているわたくしも男だから一層亮平の心持になってしまう。
それでも生きて伝えたい気持ちがあるから、真っ直ぐ伝えることを朝子は選ぶ。受け入れてもらえるとか、許してもらいたいとかではないのだろう。濱口監督の前作「ハッピーアワー」のラスト近い挿話で、フラッと知り合いの男についていって一夜を共にした奥さんが、早朝に帰ってきて夫に言う。「行きずりのセックスした。けど、この家からは出てゆくつもりはない。別に許してもらおうとも思わない」と宣言したあのシーンを思い出した。その言質だけをとれば、どちらも随分勝手だなと思ったけど、彼女たちの気持ちの流れを覚めた目で見ていると何故だか納得してしまう。
亮平は朝子を引越し先の部屋に入ることを許すが、多分一生彼女の心離れを許すことはないだろう。一緒に暮らすうちにゆっくり溶けてゆく二色アイスのように心も混ざり合うのだろうか。
前述の命題。
同じ容姿の女がわたくしの前に現れたら、わたくしも朝子のように心が移ろうのだろうか?
限りなくありえない設定ではあるが、体験してみたいような誘惑に駆られる。
何だか理不尽なようだがなんとなく朝子の気持ちに納得して、ゆったりした川の流れのように穏やかな気持ちになる。
もしかしたら究極の恋愛映画なんだと思う。
原作は読んでいない。女流作家だから女の謎の部分を描いているのだろう。だからこそ監督と共同で脚本を書いた田中幸子がポイントなのかもしれない。男だけでこの脚本は無理な気がする。黒沢清監督作品にかかわっている以外、過去作に大した作品はないが、この作品への貢献度は高いと思う。
キャストも大健闘だと思う。東出昌大は出始めの阿部寛に似た不器用さを感じていたが、二役を分かりやすく演じ分けていた。急成長しているなと感心した。唐田えりかは素人みたいなものだから演技どうこうではなくて、感情が顔にでないからこそ朝子の役がはまっていた。脇を固めた瀬戸康史、山下リオ、伊藤沙莉、田中美佐子も役どころを極めていた。
これから濱口監督には最大限の注目をしていこう。