「小原集落」は、現在でも北谷街道(R157)から僅か1.5km入った村落、
越山地の大長山・赤兎山(1628.7m)への登山口、こんなに近かったのかと意外。
約50年前、電力会社員として数度仕事訪問、以来約、この度50年ぶり。
当時と同じ鎮守の森、
当時は全国何処にも有る、「平家落人」の伝説。
明治24年の人口統計で92軒とか、
私の伺った昭和30年代の半ばでは40軒くらいとの記憶。
小原川から、段々の平地が作られそこに住宅、村の中段ごろに村道があり、
又、段々に家があり、各家へは車の道は無い(今も無い)、
今も残る見掛けの様子はj未だ残っている。
今回、大学生たちにより改修された家屋は全く今日的な建築、
当時の家屋は、「板張りの屋根に飛ばないように平たい石が積まれ」、
壁は板張りそれに屋内では、むしろが吊られていた。
入ると土間に囲炉裏があり、仕事は4月初ごろに行くのでしたが、
いつも火が入れられていました。
村中、一気に行う「電気の送電」は、小原村にとっては一大行事、
お昼時間は弁当持参でしたが、村長の家に招かれ、
なぜか、「お豆腐の味噌汁に摺り下ろされた生わさび」、
そして「あお首と呼ばれた清酒」が置かれ
最大の接待を受けつつの仕事でした。
生活戸数が少なくなったのは、当地の38年1月「38豪雪」の中から
急に減っていったのでしょう(市内の我家も2階窓からの出入りでした)、
市街地の廻りには、北谷・野向村などから
移り住んだ人たちの苗字が
あった事を記憶しています。
この村、当時は「入会権」と言うのがあり、最期に残った人が村有林など一人もらい、
出た人はすべて村に残していく約束だったそうです。
今の住んでいる人は、2軒と聞く、
村有の財産一人もらいになったのが聞いてみたいものです。
当時、小原行きは、幌付き小型トラック1台と軽三輪車ダイハツミゼットの
荷台補助椅子に乗せられての仕事訪問。
村へ入ると村の様子は沢山の人々の出迎え?、
この車が珍しかったのか、昼間で有るのに子供達、
成人男子達は綿入れの和装、
今のどてら様の着物姿、学校(分校があった)や仕事は?でした、
ミゼット車に触れるものですから、
先輩に車の番していろと指示されたほど、
当時小原村は田地は一つも無く、仕事は殆どが山林業のはず、
このころから「葉タバコの生産が始められた」。
電力会社では(東北・北陸電力)余った電気の販売開発の一環として
「電熱温床の為の農事用電力」(葉タバコの育苗)に力が入れられていた。
私は新入社員として数人の社員と此れにかかわらされた、
それでも、
始めての小原村は、知らない地域での現場仕事は嬉しいものでした。
「当時の電熱温床装置」は今のような外装の掛かった電熱線は無く、
1.6mmの裸鉄線を畑面に土をかぶせるだけの装置、
漏電遮断機も開発されていなく、危ない装置でした。
それでも、こんな装置ばかりでしたが、人間が感電した事故はゼロ、
時に農耕用の馬(足裏に蹄鉄が有る)がこの近くを通り、
転倒したなど聞いたものでした。
人間の足左右歩幅の距離では感電しなく、馬のような前足と後足の歩幅距離に
かかる電位差で感電したのでした。
半世紀ぶりの訪問は、感慨のひと時でした。
現在の小原村全景(勝山市ホームページから)