月1度の例会「早朝坐禅会」。
自宅を出る時はまっくら、6時のスタート時間も暗い。
梵鐘をたたかれる老師の読経と鐘の音。
一年で一番風情のあるスタートです。
1炷40分の終わるころには、ようやく明けきった朝の景色、
いつの時間に白けてきたのは気が付かないのは、
一生懸命座っていて気が付かないので
有ったろうと推察しています。
さて、禅堂に戻られた老師の「検単」、
そして小鐘3つは正式スタート、今朝は僅か6名の参禅でした。
坐中のお話は沈黙10分過ぎ、
「大きく息を吸って、おへそのあたりに貯める、その時、意識は親指、手のひら・足の組みよ
う等すべての意識を集中する、吸った空気は、腰をしっかり伸ばし、やへその下に
力を入れ静かに吐いていくのです」。と、
しばらくその後、また沈黙、小鳥の声さえ聞こえない静寂の暗い時間。
「仏とは物持たぬ心、仏は自己に我を持たぬなり、仏は我を忘れた大偶になる」。
「仏とは相手によりそう心」
我を立てなく相手を立てる、すなわち若者に対しては身も心も若者に、
高齢者にあっては身も心も高齢者になる、こうした様は、
その人に仏の姿と、見よ。
一方においては、一法を業ずるなり、今ここに座ってすることは一つ、
身を構え手足を組んで静かに呼吸している、
すなわち息しているは「生きている」ことなのです。
我がを立てないで相手を立てていく、吸う息、吐く息だけになりきることは、
次々ににやって来る色々なことに受け身で立つ、
仏は、自らの偶とは、周囲から見ておろかに見えるかもしれない随順の姿、
やってくる事柄に合わせていく、我を立てない事なのです。
老・若の他人と一緒に生きていく事は、
それぞれが仏と言われる有りようを見ることが出来るまで己を磨いていく、
もう他人の人生ではない、そこまで行き着くと己が己に向かっていきます、
そこに安住する、そこに腰を収め左右を見わたし生きていく、
そのすすめが坐禅「只管打坐」ただただ座るのです。
今一度正しい息の出し入れをする、
すなわち「息するは生きている」ことなのです」と結ばれた。
そして、又沈黙10分、
きっちりの40分で小鐘1つで終わりとなりました。