先日、錦帯橋の上流地域でレーダーの解析から時間雨量100ミリだったことが分かった。その豪雨を体験した知人はブログで次のように書いている。「話にならない、むしろ言葉にならないという表現が正しいような、開いた口がふさがらないほどの叩きつける雨」。少々のことには動じない人が言葉にならないという。その降り方は恐怖を感じさせたのではと思う。
一転、昨日と今日はまだ育ちきらない入道雲が山の稜線に顔を覗かせる夏の日。所要で稲田の続く丘陵地帯を車で通った。すれ違う車も道を歩く人も全くないアスファルトの路面に弱弱しいがカゲロウを感じた。車をとめ稲田の水に手を入れてみた。稲は知らぬ顔で風に揺れているが、それはなま温かく心地よいもにではなかった。市内の最高気温は30度を越えたという。
水と太陽は米の生育に欠かせないことは知っている。太陽はお天道様任せになるが、水は農家の人の手を煩わすことになる。稲田のなま温かい水に手を入れながら見回す。どの稲田もそれを囲むほとりや法面の雑草が綺麗に刈り取られている。理髪店に行ってきました、さっぱりした光景からそんな声が聞こえてきそうだ。稲田とそれを取り巻く環境への配慮も米作りの重要な作業のひとつなのだ、改めて思う。
伝来の棚田を受け継いでいる農家の人から聞いた話を思い出した。棚田の米作りはモグラとの戦に勝つことが絶対に必要。毎日の水の見回りにあわせ、地中のモグラの通り道を見つけ罠を仕掛けると言う。そうしないと棚田の水は抜け落ちてしまい、米作りは出来なくなる。
そうした苦労を知らずに遠くから眺めて棚田の風景を愛でていた者として、感謝をこめて日本の原風景を見なければ、そう感じた。山の中腹まで積み重なったあの棚田をいつかもう一度訪ねてみたい。雨は必要だが、ほどほどに降ってと願うのは身勝手か。明日の夜からは激しい雨の予報、梅雨も終わりに近づいた。