春の苑 紅にほう 桃の花 下照る道に 出で立つ少女
万葉集、大伴家持 の作
春のその くれないにおう 桃の花 したでる道に いで立つおとめ と読む。
春の庭一面に赤い色があふれている。モモの花が明るくしている木の下に、いま現れた少女 という華やいだ情景を歌っている。
奈良時代では、少女のほほを、桃のように美しいと表現したらしく、現代でいえばピチピチした女の子という感覚でしょうか。
作者は、偶然に少女を見かけたのか、
何でもアイドルに結び付けて考える私は、桃の木の下が、シアターのような場で、作者は、会いにいけるアイドルに、会いにいったのではないか
と勝手に解釈して、万葉集で歌われた、日本で最も古い(現時点で私が発見した限りでは)歌と認定しておきます。
ときめき研究家さんが、
アイドルの歌は、文学のように同じテーマを歌い続ける
と提唱していることに関連して、
高橋源一郎が「大人にはわからない日本文学史」という本で、
綿矢りさの「インストール」は、国木田独歩の「武蔵野」で、
ケイタイ小説の「恋空」は、田山花袋の「蒲団」と同じタイプの小説であると断定している。
「恋空」は映画でしかみていないし、「蒲団」はあらすじしかしらないけれど、「恋空」「蒲団」は感覚的に納得できる。
「インストール」は小説も映画もみたが、「武蔵野」とは結びつかない。
「武蔵野」と言えば、鉄腕アトムの「赤いネコ」の冒頭で、ヒゲオヤジが引用する一節しかしらない。
綿矢りさ本人も、「インストール」という作品も、極めてアイドル的で、映画の上戸彩も好演。
アイドルの伝統を継承するには、継承すべきアイドルの作品を知らなくてはいけない。
さらに、そのアイドルの作品は、日本文化を継承していると考え、「武蔵野」を読んでみましたが、ツルゲーネフと和歌と日記が引用されていて、これって本当に小説という感じ。おそらく、こういう感じが、綿矢りさと共通なのだろう。
新聞記事を読んでいて、思いつたネタでした。
次回は、平安時代には、確実にシアターがあった を書きます。
ナッキー
万葉集、大伴家持 の作
春のその くれないにおう 桃の花 したでる道に いで立つおとめ と読む。
春の庭一面に赤い色があふれている。モモの花が明るくしている木の下に、いま現れた少女 という華やいだ情景を歌っている。
奈良時代では、少女のほほを、桃のように美しいと表現したらしく、現代でいえばピチピチした女の子という感覚でしょうか。
作者は、偶然に少女を見かけたのか、
何でもアイドルに結び付けて考える私は、桃の木の下が、シアターのような場で、作者は、会いにいけるアイドルに、会いにいったのではないか
と勝手に解釈して、万葉集で歌われた、日本で最も古い(現時点で私が発見した限りでは)歌と認定しておきます。
ときめき研究家さんが、
アイドルの歌は、文学のように同じテーマを歌い続ける
と提唱していることに関連して、
高橋源一郎が「大人にはわからない日本文学史」という本で、
綿矢りさの「インストール」は、国木田独歩の「武蔵野」で、
ケイタイ小説の「恋空」は、田山花袋の「蒲団」と同じタイプの小説であると断定している。
「恋空」は映画でしかみていないし、「蒲団」はあらすじしかしらないけれど、「恋空」「蒲団」は感覚的に納得できる。
「インストール」は小説も映画もみたが、「武蔵野」とは結びつかない。
「武蔵野」と言えば、鉄腕アトムの「赤いネコ」の冒頭で、ヒゲオヤジが引用する一節しかしらない。
綿矢りさ本人も、「インストール」という作品も、極めてアイドル的で、映画の上戸彩も好演。
アイドルの伝統を継承するには、継承すべきアイドルの作品を知らなくてはいけない。
さらに、そのアイドルの作品は、日本文化を継承していると考え、「武蔵野」を読んでみましたが、ツルゲーネフと和歌と日記が引用されていて、これって本当に小説という感じ。おそらく、こういう感じが、綿矢りさと共通なのだろう。
新聞記事を読んでいて、思いつたネタでした。
次回は、平安時代には、確実にシアターがあった を書きます。
ナッキー