とある現場の教員と話した時,論文よりも著書の方がすごいんですよねって言っていました。
— Koji WATATSU (@koji_watatsu) August 22, 2024
いやー,その辺の著書だけ教員と一緒にしないで頂きたいですね。
査読論文は誰かに査読されてるから,チェックのない著書とはグレードが違うんですよ,と本当は伝えたかったです。
さて,論文論文…
同じ分野内部であればその比較は宜しいが、別分野―というか大分離れた分野―についても同じ基準で押し通そうという向きにしばしば出会い、あまり面白くないのである。
仕事場の同僚からもそんな風なことを言われることがあり、まあいいから研究費稼いで来てくれやとか、ど文系より総額低いんならちょっと黙っといてくれるか、とかそんな風なことはちょっと思う。
「査読有り論文より招待論文のほうが格上」というのを当然視するツイートがTLで流れてきたんだけど、この価値観の細かい分野別、年代別の統計とかとってほしいな。おそらくそうとうばらつきがあるよ、これは。
— Masashi Kasaki (@kasa12345) 2017年5月30日
主観的なものも相当入ることもあろう、困ったことなのである。とはいえ
(査読誌・査読制度の位置付けはもちろん分野ごとに大きく異なるのだが超ドメスティックな法学領域でもいまどき国際誌や海外出版への寄稿であちらの慣習に沿ってモノを書かないといけない機会がそれなりにあるわけで査読ゼロってのは可能なのかという顔をしている。)
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2018年10月8日
隣接分野に一歩入ると流儀が異なりもするのである。
…ドメスティック領域でドメスティックに生き続けるって、ふつう不可能なんじゃねえかなあとか考えてみると、「わたし査読です」一本鎗で生きてる人たちの見識の狭さも危ういとは思う。
出版については
日本語の出版物は信用ならないものだらけなわけで、助成金を取って出版するというのは、ある意味で査読が入るのと似たような効果があり、出版して世に問う価値があるという第三者評価があるのは悪い話ではないと思う。 https://t.co/aKBFAZ9egA
— 増田の准教授 (@ProfMasuda) 2018年9月2日
こうした事情もあり、であるから(その領域の)一流出版社から出すことに権威なり何なりがつくのである。
…まあねえ、キリキリ自分を律して適切に自分の仕事を進めるため査読だなんだと他律を自らに課するのは自律の一種だと思うんだ。なにしろ
友人がレベル低い大学に就職したせいで、自分はどんどんバカになっている、バカがうつった、と言うので酷いこと言うなぁと呆れていたが、それは常にどんな学生にも分かるような平易な言葉で説明するうち、学者らしい言い回しを忘れていく&教育で忙しくて自分の研究が進まない、って焦りだった模様。
— matheca (@paulerdosh) 2018年3月8日
…地方のちっちゃいところだとほんと困るのよぅ…。
大家の先生がデカイ科研費とって十数人ですすめるプロジェクトで画期的成果が出ることは稀でしょう。そこに多額の税金を投入するなら、若手の博論出版助成もっと増やすとか、海外報告や海外査読ジャーナル狙う若手にスタッフつけたるとか、その方が余程学問進める上で有益でしょう
— Haruya Sakamoto (@haruyasakamoto) 2014, 8月 3
とある人に、君のプロジェクトはえらい先生に名前を借りて大きな予算を当てたら、とか言われたが、ウチはこれまでそういうことしてこなかったんですよねえ。余所さんでは普通の手法なのかしら。なんか科研費の規定のどっかに引っかかりそうな気がするけど、その手法。
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