空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

逆上がりの価値とか、どこにあるのかって話

2017-03-06 17:59:00 | ノート




 同様の不満は英語の授業や国語の授業や…にも起こるのである。中高の英語の授業を経ないでも英語が出来るようになれば、英語を必要とする仕事につくことができるだろう。なのになぜ、学校の先生は五文型なんたらを強要するのか…いや俺の仕事には英語は使わない、なぜに…などと。

 つまりは、それらは、ある一定の合理性を備えた、訓練の一手法であるに過ぎない―と抽象化できる。体の動かし方、「共通語」の発話の標準的な方法、等々を全国一律、一定の手法で一定の水準をクリアするよう仕組まれたなにものかである。

 そうして我々の(例えば)身体は、いつのまにやら集団行動に適応できるように仕込まれて、立派に工場労働をこなせるようになるわけだ。なおそーゆーのに合わないような連中の一部はアカデミックポストとゆーのにもぐりこんだりするようになる。

 でまあ、何が問題点になるかといえば、最終的には訓練の一手法に過ぎないだろうものを、何らかの絶対的な価値と誤認して、それを他者に強いるところにある。

 逆上がりが出来ないことで「お前は劣等生だ」と刻印付けるとか。

 必要なことは、一定の身体制御を一定の水準でこなすことであるはずなのに―その指標のひとつであるはずの「さかあがりができること」が別種の価値を持っているように誤認する・誤認させるところにある。

 ということで、ここで行われているのはある種の物神崇拝なのだ。

 …それはそれとして価値が認められていることではある(カネ持ちは偉そうとか、できればカネ持ちになりてえなあとは、ある種、人間的な自然だろう―逆上がりでもなんでもすらすらこなす小学3年生は、やはり英雄の一種だろう)。が、それだけが価値なのではない(カネだけあっても買うものがないとアレだし、腕力が無くて逆上がりができないが一輪車乗りが上手い子も、やはり英雄だろう)。

 そんなわけなので、『いやあ、ものの分からぬ体育教師が、無理筋で自分のゴショクギョーを弁護しておるワイ』とバカにし、軽んじるのは簡単なのだが。ここでそうした判断が下される理由というのは、「逆上がりができること」の自己目的化と、その価値を大前提としての”言い訳”なのであり、それは他の教科にも同様に適用される(「一般教養で数学を受けさせられたけど、職業的に一回も使ったことがないぞ! 無駄なんじゃないの!」という文句に対する数学科の弁護を想像してみようではないか)。で、実は果たすべき課題は個々人の生きる能力の養成であり、「国民」形成であったりする。そこに立ち戻って評価をしなおすなり、批判してみるなり、してみるのはどうだろう。



 まあなにはともあれ、労働市場に未来の労働者を供給する必要もあるわけで、まあ一定の指標によって評価する必要はどうしてもあるのだろうが、「人間、それだけじゃないわなあ」という、これもこれで常識的な見解ももっておきたい。


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2 コメント

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Unknown ()
2017-03-06 18:11:28
まあいっそのこと、運動苦手な子には、「筋肉! 健康! 最高!」な感じの長谷川家康教育の存在を教えてみてはどうか。
要は、それなりに体が動けばいいわけで。
まあ、チームワークができないのは困っちゃうかもしれないけど、まあそれも個性って理解の方向で。

あと:https://twitter.com/badassceo
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Unknown ()
2017-03-06 18:08:02
まあなあ
現場の人間として、あんまり気分はよくないが、やはりそれなりの数値目標は出さざるを得なかろうなあ>「8%」
これはこれで、別種の物神崇拝を生み出すはずであり。それはそれで別種の問題を生み出すであろうはずであり。やる前から問題があることは分かるんだが

…それでもなお、取り組みはすべきなんだろうなあ。
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