PHP Voice 子どもを犠牲にする国 高山正之(ジャーナリスト)
見事な穴だらけ煽り文。所詮(以下削除)。
大学で強弁(第一変換候補)をとり,朝早く「車を走らせる日々を過ごした」そうだ。それで気づいたそうだが,「よその、まあまともと思える国々と日本の朝の風景がまったく違っていた。何が違うかというと、よその国ではこの時間帯に必ずスクールバスを見受ける」,また学校正門前には自家用車がひしめいているのだという。
いう所の「まあまともと思える国々」とはどちらでしょうか。
スクールバス運行となりますと,基本的には子供たちは毎朝決まった時間に決まった場所に出ていてバスを待たねばならないでしょう。それ,将来の労働者のための教育として,大変有益ですね。決まった時間に決まった場所に集合して,十羽一絡げにバスにすし詰めにして決まった場所に輸送し,決まった時間の間拘束する。大量生産社会の大量生産工場の工員として,必須の訓練といえましょう。
また,自家用車で送(迎)のある子供たちは,そういう工員候補者とは異なる生活習慣を持つでしょう。バスの他律に依らない,自律的に時間を組み立てる意識を育てることができましょう。また,子供の頃から視覚的に身分差を確認しあうタネとして,自家用車の姿は効果的です。
或いは,スクールバス・自家用車の必要があるほど,各々の自宅と学校が遠い可能性があります。英国では生徒100人ほどの学校はお取り潰しだとかそうはさせないぞとか,いつぞや話題になっていたかと。
つまり日本では,寧ろ子供は歩かせたほうが社会的コストが安いくらいに,密に学校が存在していると,そういう結論を導く余地がありましょう。子供の運動不足が話題にもなる昨今です,子供を歩かせるのは,ある程度弁護する余地がありましょう。
だが「日本ではそんなスクールバスはいっさい見かけない。子供たちは走る車をかわしながら歩道の区別もない道を歩んでいる」。その代わり,日本でしか見かけない,「老人介護の車椅子マークをつけた小型バスがやたら走り回る」。
歩道・車道の区別もないようなど田舎なら,走る車も碌々ありますまいが。ソースは実家。老人介護用バスは,見聞広きジャーナリスト様のいう所では,日本でしか見かけないそうです。すばらしい。先進的国々の中でもさらに先進的取り組みといえましょう。
なおご指摘によれば,子供より老人が大切にされる理由は「共産党か公明党に聞けばいい」…「老人には未来などない。しかしいまは投票権をもっている。それがぼけていても1票に変わりはない」だそうですが,ぼけてたら投票行動自体できないのと違うだろうか。
「かくて介護だとか老人健保だとか福祉政策がすいすい立案、成立され、国民の税金で老人どもの面倒を見る」というが,老人どもとやらも国民だったりしないだろうか。
無論,子供たちも国民である。記者殿は,しかし投票権のない子供たちのために弁ずるのだが,しかし諸政党とて(記者殿のいう所では)ぼけ(て,従って投票行動のできない)老人のために行動するわけだ。投票不能のものたちをダシに高邁なコトを論じる点にかけては,両者ともに選ぶところがない。
「ただ条件が付く。これだけよくしてもらえるのはわが党のおかげ。介護もする、医療費も安くした。投票所には車で連れていってやるから、こういう名前を書き込め。分かったね」,しかし税金で老人介護車を買うのに主体的な行動をとったのは政権党であるところ,残念ながら医療費をとりわけ高齢者から分捕ろうとしているのはまた政権党であり,これに対して高齢者苛めをやめよと高らかに歌い上げるのは野党であって,従って高齢者たちは,高齢者用介護車を導入してくれた政権党に深い感謝の気持ちを抱きつつ投票所にむかい,高齢者から医療費をふんだくる悪逆非道な政権党への満腔の怒りを野党への投票で表現するという仕儀に至るわけかと思われるところ。
そうではなく,恐らく記者殿は,政権党は老いて移動もままならない,比較的に少数の老人に多少なりとの便宜を与えることに汲々としているというのだろう。
ぼけて投票もままならないような層に訴えかける,この政権党はしかし,人間誰しも老いるところ,財政の許す限り,票になるかどーかも怪しいぼけ「老人ども」にまで援助の手を差し伸べている―近未来を見据えていると,多少は評価に値するだろう。
尤も,今現に元気で若く働いている層からすれば,老人たちは,若者たちが納めた税金を湯水のように蕩尽する未来のない存在であり,ではなく未来ある子供たちのために今自分たち若者たちが納めた税金を使うべきだと,こう記者殿は主張するのだろう。
そうまで手厚く血税を投入してあげた子供たちは,当然30年後,自分たちをその血税で育ててくれた「老人ども」を未来のない蕩尽するだけの存在として切り捨てるべきというご主張のようで,まぁ社会保障もイラネ俺は俺で生きている,みたいな覚悟完了な方は言うことが違います。
つぅか我々いい歳した者たちの教育費とか,いま棺桶に片足突っ込んでる連中の税金で賄われていたのと違うか。
「所沢で運転しながら犬の面倒を見ていたおばさんが、集団下校している小学生の列に突っ込んで8歳の女の子を死なせた」といいますが,ところで戦後の復興を担って娯楽も碌々ないまま馬車馬のように働いて使い潰された人たちは「老人ども」で,車の運転中に犬のケアを同時にこなして未来ある少女を轢き潰した絶望的低能な犯罪者は「おばさん」ですか。
「輪禍だけではない。奈良では下校途中の幼女が変質者に連れ去られ、殺された。栃木県今市市でも同じ悲劇が起きたが、どこもスクールバスを走らせようとはしない。票にならないからだ」とは仰いますが,しかしとりわけ幼児・児童教育へどれだけ予算を配分するかというのは,既に―「親」の層に働きかける―重要な票稼ぎ要素ではありますまいか。
してみるとスクールバスの件は,優先順位が低い案件であるだけなのではあるまいか。変質者対策としては,まず第一には集団下校が行われよう―子供自身の足にあわせた方策ではある。
そうではなく,登校も下校も,スクールバスの時間に合わさせ,大人の設定した大人の速度で規格化するのが子供の安全を護る良策というものと,するのであろう。だが帰宅後,正しく家に押し込め,うっかり外出などしないようにするのもまた難点といえよう。バスで下校時間を短縮した分,子供たちには遊ぶ時間が増えるではないか!
勿論,各家庭にはゲーム機等々が備わっていることが期待され(ない家庭の場合,トランプなりなんなりを考えればよいか),子供たちは屋内遊びで親の帰宅を待つことが期待されるだろう。
この場合,幼児狙いの変質者は町に子供が見えないので犯行を諦めるか,適当に子供のいそうな家を狙って家宅侵入を試みることになろうが,その場合「変質者」ではなく「家宅不法侵入犯」なので,変質者被害は減ることが期待される!(勿論嫌味)
「そして今日も老人バスは児童を蹴散らして街を行く。なんともいびつな日本の景色だ」といいますが老人バスが児童を蹴散らした例は挙げてませんがどうなさいました。それは比喩的表現であって,危険な自動車が走り回る中,子供たちは無防備に徒歩で歩いていると仰いたいのでしょうが,その危険な自動車の,アナタもその一員ではなかったでしょうか。無防備な子供たちが登校する時間に,車を転がしてはいませんでしたか,アナタは。
勿論―斯く言う私もそうですが―普通のドライバーは,子供に限らず歩行者の安全にはそれなりの配慮をして運転しているものであり,基本的には,歩行者に危険な存在ではありません。尤も,同時に存在しているだけで犯罪的行為だ,というような,極端な反自動車主義的意見もありますが。
にもかかわらず,実際蹴散らしている例を挙げずに老人バスばかりを槍玉に挙げ,実際ヒトゴロシをしている「おばさん」の例を放っておくのは如何なものでしょう。一般の,不注意なドライバー―例えば,分かりやすくは深酒運転手―をこそ,まず非難すべきではあるまいか。
ところで全然知らない人なんだけど,このひと大丈夫なひと? それとも,偶々この記事でだけアレなのかしら?
見事な穴だらけ煽り文。所詮(以下削除)。
大学で強弁(第一変換候補)をとり,朝早く「車を走らせる日々を過ごした」そうだ。それで気づいたそうだが,「よその、まあまともと思える国々と日本の朝の風景がまったく違っていた。何が違うかというと、よその国ではこの時間帯に必ずスクールバスを見受ける」,また学校正門前には自家用車がひしめいているのだという。
いう所の「まあまともと思える国々」とはどちらでしょうか。
スクールバス運行となりますと,基本的には子供たちは毎朝決まった時間に決まった場所に出ていてバスを待たねばならないでしょう。それ,将来の労働者のための教育として,大変有益ですね。決まった時間に決まった場所に集合して,十羽一絡げにバスにすし詰めにして決まった場所に輸送し,決まった時間の間拘束する。大量生産社会の大量生産工場の工員として,必須の訓練といえましょう。
また,自家用車で送(迎)のある子供たちは,そういう工員候補者とは異なる生活習慣を持つでしょう。バスの他律に依らない,自律的に時間を組み立てる意識を育てることができましょう。また,子供の頃から視覚的に身分差を確認しあうタネとして,自家用車の姿は効果的です。
或いは,スクールバス・自家用車の必要があるほど,各々の自宅と学校が遠い可能性があります。英国では生徒100人ほどの学校はお取り潰しだとかそうはさせないぞとか,いつぞや話題になっていたかと。
つまり日本では,寧ろ子供は歩かせたほうが社会的コストが安いくらいに,密に学校が存在していると,そういう結論を導く余地がありましょう。子供の運動不足が話題にもなる昨今です,子供を歩かせるのは,ある程度弁護する余地がありましょう。
だが「日本ではそんなスクールバスはいっさい見かけない。子供たちは走る車をかわしながら歩道の区別もない道を歩んでいる」。その代わり,日本でしか見かけない,「老人介護の車椅子マークをつけた小型バスがやたら走り回る」。
歩道・車道の区別もないようなど田舎なら,走る車も碌々ありますまいが。ソースは実家。老人介護用バスは,見聞広きジャーナリスト様のいう所では,日本でしか見かけないそうです。すばらしい。先進的国々の中でもさらに先進的取り組みといえましょう。
なおご指摘によれば,子供より老人が大切にされる理由は「共産党か公明党に聞けばいい」…「老人には未来などない。しかしいまは投票権をもっている。それがぼけていても1票に変わりはない」だそうですが,ぼけてたら投票行動自体できないのと違うだろうか。
「かくて介護だとか老人健保だとか福祉政策がすいすい立案、成立され、国民の税金で老人どもの面倒を見る」というが,老人どもとやらも国民だったりしないだろうか。
無論,子供たちも国民である。記者殿は,しかし投票権のない子供たちのために弁ずるのだが,しかし諸政党とて(記者殿のいう所では)ぼけ(て,従って投票行動のできない)老人のために行動するわけだ。投票不能のものたちをダシに高邁なコトを論じる点にかけては,両者ともに選ぶところがない。
「ただ条件が付く。これだけよくしてもらえるのはわが党のおかげ。介護もする、医療費も安くした。投票所には車で連れていってやるから、こういう名前を書き込め。分かったね」,しかし税金で老人介護車を買うのに主体的な行動をとったのは政権党であるところ,残念ながら医療費をとりわけ高齢者から分捕ろうとしているのはまた政権党であり,これに対して高齢者苛めをやめよと高らかに歌い上げるのは野党であって,従って高齢者たちは,高齢者用介護車を導入してくれた政権党に深い感謝の気持ちを抱きつつ投票所にむかい,高齢者から医療費をふんだくる悪逆非道な政権党への満腔の怒りを野党への投票で表現するという仕儀に至るわけかと思われるところ。
そうではなく,恐らく記者殿は,政権党は老いて移動もままならない,比較的に少数の老人に多少なりとの便宜を与えることに汲々としているというのだろう。
ぼけて投票もままならないような層に訴えかける,この政権党はしかし,人間誰しも老いるところ,財政の許す限り,票になるかどーかも怪しいぼけ「老人ども」にまで援助の手を差し伸べている―近未来を見据えていると,多少は評価に値するだろう。
尤も,今現に元気で若く働いている層からすれば,老人たちは,若者たちが納めた税金を湯水のように蕩尽する未来のない存在であり,ではなく未来ある子供たちのために今自分たち若者たちが納めた税金を使うべきだと,こう記者殿は主張するのだろう。
そうまで手厚く血税を投入してあげた子供たちは,当然30年後,自分たちをその血税で育ててくれた「老人ども」を未来のない蕩尽するだけの存在として切り捨てるべきというご主張のようで,まぁ社会保障もイラネ俺は俺で生きている,みたいな覚悟完了な方は言うことが違います。
つぅか我々いい歳した者たちの教育費とか,いま棺桶に片足突っ込んでる連中の税金で賄われていたのと違うか。
「所沢で運転しながら犬の面倒を見ていたおばさんが、集団下校している小学生の列に突っ込んで8歳の女の子を死なせた」といいますが,ところで戦後の復興を担って娯楽も碌々ないまま馬車馬のように働いて使い潰された人たちは「老人ども」で,車の運転中に犬のケアを同時にこなして未来ある少女を轢き潰した絶望的低能な犯罪者は「おばさん」ですか。
「輪禍だけではない。奈良では下校途中の幼女が変質者に連れ去られ、殺された。栃木県今市市でも同じ悲劇が起きたが、どこもスクールバスを走らせようとはしない。票にならないからだ」とは仰いますが,しかしとりわけ幼児・児童教育へどれだけ予算を配分するかというのは,既に―「親」の層に働きかける―重要な票稼ぎ要素ではありますまいか。
してみるとスクールバスの件は,優先順位が低い案件であるだけなのではあるまいか。変質者対策としては,まず第一には集団下校が行われよう―子供自身の足にあわせた方策ではある。
そうではなく,登校も下校も,スクールバスの時間に合わさせ,大人の設定した大人の速度で規格化するのが子供の安全を護る良策というものと,するのであろう。だが帰宅後,正しく家に押し込め,うっかり外出などしないようにするのもまた難点といえよう。バスで下校時間を短縮した分,子供たちには遊ぶ時間が増えるではないか!
勿論,各家庭にはゲーム機等々が備わっていることが期待され(ない家庭の場合,トランプなりなんなりを考えればよいか),子供たちは屋内遊びで親の帰宅を待つことが期待されるだろう。
この場合,幼児狙いの変質者は町に子供が見えないので犯行を諦めるか,適当に子供のいそうな家を狙って家宅侵入を試みることになろうが,その場合「変質者」ではなく「家宅不法侵入犯」なので,変質者被害は減ることが期待される!(勿論嫌味)
「そして今日も老人バスは児童を蹴散らして街を行く。なんともいびつな日本の景色だ」といいますが老人バスが児童を蹴散らした例は挙げてませんがどうなさいました。それは比喩的表現であって,危険な自動車が走り回る中,子供たちは無防備に徒歩で歩いていると仰いたいのでしょうが,その危険な自動車の,アナタもその一員ではなかったでしょうか。無防備な子供たちが登校する時間に,車を転がしてはいませんでしたか,アナタは。
勿論―斯く言う私もそうですが―普通のドライバーは,子供に限らず歩行者の安全にはそれなりの配慮をして運転しているものであり,基本的には,歩行者に危険な存在ではありません。尤も,同時に存在しているだけで犯罪的行為だ,というような,極端な反自動車主義的意見もありますが。
にもかかわらず,実際蹴散らしている例を挙げずに老人バスばかりを槍玉に挙げ,実際ヒトゴロシをしている「おばさん」の例を放っておくのは如何なものでしょう。一般の,不注意なドライバー―例えば,分かりやすくは深酒運転手―をこそ,まず非難すべきではあるまいか。
ところで全然知らない人なんだけど,このひと大丈夫なひと? それとも,偶々この記事でだけアレなのかしら?
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