日本人はもともと議論が苦手な民族だ。議論してぐうの音も出ないほど、とことんやっつけられ負けたら「一生の恥」となる。武士は恥をかいたら生きて行かれなかったから、自らの名誉を守るために相手と命のやり取りをする。すなわち、議論イコール死を賭した決闘だったわけだ。
なので、相手をそこまで追いつめないために、お互いに相手の立場を慮った。あうんの呼吸はそこから生まれた。
「よろしく頼みます」 「わかった」
これで武士たちの会話は済んだ。
相手を活かすことで自分が活きた。ひいては日本国全体が活きた。その究極として天皇が存在した。
なので相手が信仰する神様(祖先)は、なんでも受け入れられた。それにより多くの神様が存在した。唯一の例外はキリスト教だった。キリスト教は神を唯一のものとし、それ以外の神は邪神とした。
「最後まで言わなくてもよい」 「いえ、神様は唯一です」
あくまでも主張を曲げないキリスト教は、武士たちにとって受け入れがたい存在だったのだ。
マルクスが日本に生まれてたら・・・こうした日本人の議論を避ける性質を身につけてたとして・・・彼が理論を広めるためには、札束で他人の顔をひっぱたき主義を認めさせるしかなかったかもしれない。彼が明治維新の頃に日本に生まれてたとして、坂本龍馬や吉田松陰のような働きができたかというと必ずしもそうではないように思う。
彼の説く民衆のための政治は、天皇親政体制へ転換しようとする当時の思想に対し歩み寄る余地もない。彼が自分の主義に固執すればするほど、日本の和の心とは相容れることができなくなったに違いない。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます