いよいよ、2chメンバーたちとスキー映画のプロモーションビデオを撮る日がやってきた。ぼくは、この日に備えて、年末から体力の復活と関節の柔軟さを上げるためジョギングやら、ダッシュやら、バランスディスクを用いた股関節運動を毎日行っていた。やり始めた当初は、すべて秒単位で体中の筋肉や関節が悲鳴を上げるていたらくであったが、徐々にそれらの運動を分単位で継続できるところまで改善できた。といっても、全盛期の頃はこれらの運動を何時間も続けても平気だったから、相当運動能力が失われていることになる。それでも、休日の早朝、トレーニングウエアに身を包み、自宅の前の緩やかな坂道を一気に駆け上がって近所の公園まで行くと、心の中で映画ロッキーのテーマミュジックが鳴り響いていた。復活は無理でも、やれるだけのことはやろうと心に決めていた。また、夜は夜で、基礎スキーの第一人者である渡辺一樹氏のDVD6巻セットを繰り返し見て、スキー操作のイメージトレーニングに努めていた。もちろん、昨年の年末以来、ベースワックスを塗布したまま放置しておいたスキー板のワックスをすべて除去し、アイロンを使って新たにベースワックス、さらにその上に滑走ワックスを塗ったのは言うまでのこともない。スキーとかさばる荷物は、先週の日曜日に宅急便で予約を取った宿に直接送ってあった。
そして2月9日金曜日。週末から始まるの3連休の前日であるこの日に、ぼくは秋葉原の駅前を出発して志賀高原へ行くスキーバスを予約していた。今回の志賀高原へは、一人でスキーバスに乗って行くことになる。考えてみれば、5月の連休の春スキーを除けば一人でスキー場に出かけるのは今回がはじめてだった。というのも、昔はゴールデンウィーク以外ならスキーを誘えば誰かしらが2つ返事でついてきた。今回は、会社の若い連中に声をかけて見たが、「寒いのはやだ」と言う理由で一緒に来るヤツはいなかった。同じバカンス費用を投資するなら、あったかい場所で温泉というのが今のトレンドらしい。温泉なら準備も簡単で、手軽に行かれるのが魅力とのことだ。また、昨年末のスキーに付き合ってもらった親戚の理津子は、この連休は会社の仲間たちと野沢温泉スキー場に行く予定らしい。
彼の著書によれば、彼女の名前「オードリー」には「水の女神」という意味があると書いている。これはオードリー本人から聞いたものであろうか。いろいろ調べたが「水の女神」と書いた記述を彼の著書以外に、他の文献で探し当てることはできなかった。一般に、オードリーという名前は、古英語(アングロサクソン語)で"Aethelthryth"「高貴な力」という意味とされる。この"Aethelthryth"のさらなる語源は "aethel"(高貴)と"thryth"(力)から成り立っている。これは、7世紀のノーサンブリア(イングランド北部の古王国、七王国のひとつ)の女王「聖オードリー」(本来の名は゛St Etheldreda")にちなんで、名付けられるようになったものである。
人は苦しい時、精神のよりどころを得ようとする。もうほとんど限界にいる時に、それに耐えられるか、耐えられないかは、当人が信じるものがあるかどうかで違ってくるだろう。たとえば、いつかは、神様が助けてくれると信じることで、つらい運命にも耐えることができるようになるのだ。その意味で、ピピンが記録を更新した時、「水の女神」がいつも一緒と信じたであろう事は、彼の能力を最大限に発揮させる集中力の源となったことは想像に難くない。
<私はシシリーで183mの潜水に挑戦する。それはオードリーが本当にやりたかったことなのだ。しかし、彼女は挑戦するチャンスがなかった。>
現在もピピンは、マイアミに暮らしている。170mの世界記録を樹立して以来、フリー・ダイビング(アプネア)競技ノー・リミッツ(No-limits)から遠ざかっているが、彼の挑戦は続く。
人はみな、一人で濃い青緑の海で潜る時、神秘と恐怖の入り混じった、果てしない底に落ちるような感覚に襲われることがある。未知のものを本能的に恐れる、或いは、単純に死を怖れるそんな動物的な恐怖とそれを乗り越える勇気が、このただ潜るだけの競技の根底にあると思われる。
間違いはもちろんあったのだ。彼らはポニータンクのダブル・チェックをしていなかった。圧力ゲージにてタンクの残圧をチェックすべきであった。それからもうひとつ、そこにダイバーが居ればオードリーが助かったかどうかは別として、彼らは深さ120mにダイバーを待機させていなかった。
経験豊かな医療チームは居たものの、医者を雇っていなかったこと、除細動器と挿管処置キットをボートに用意してなかったことも問題であろう。さらに、各ポイントに待機するセフティ・ダイバーのそれぞれが、水中で失神したダイバーを1分以内に水面に浮上させるリフト・バッグを用意していれば、オードリーは命を失うことはなかったはずである。ピピンはその著書”A Story of Love and Obsession”で、<全身全霊において、責任は私にある。私のクルーと私の計画なのだから>と書いている。
生前、オードリーはピピンが記録への挑戦を彼女に無理強いしていると感じていた。
<私は記録なんか興味ない。ただ潜るのが好きなだけ>と彼女は彼に訴えている。
<誰のせいでもない。海が彼女を永遠に欲したの。>
彼女の訃報に接したオードリーの母親は言う。
<交通事故で娘を失うよりは、海の方がましだわ。彼女は海に生き海で息吹いたのだから。>
つぎの30秒は重要である。パスカルはエアを入れ続けたが、バッグはほとんど動かなかった。オードリーは深い海の底にまるまる1分いた事になる。そして、彼女の最後の呼吸から2分42秒経過している。彼女は水面から数秒のところにいなければならない時間帯だった。そして、彼女は、いまだ深い海の底から7m浮上したに過ぎない。
<彼女はエアーを要求しなかった>パスカルが言う。
<彼女は落ち着いていた>
次の18秒。浮上のデータ。オードリーはいつもの半分の速度でたどたどしくも上昇を開始。しかし、バッグは3分の時点で上昇を止める。ちょうど4分の時点でオードリーは120mに達した。しかし、キムのコンピュータに記録された水深計のデータによれば、彼女は突然上昇を止め、そして降下を始めている。
<呼吸を止めて4分>キムが言う。
<恐らく、彼女は失神してリフト・バッグから手を離してしまったのだろう>
彼女は120mにいた。この深さではいつもセドリックが彼女を待っていた。前年に洞窟ダイビングの事故で亡くなったセドリックは彼女の守護神だった。しかし、彼らはセドリックの代わりに他のセフティ・ダイバーを配置しなかった。つまり、120mのところは無人だったのだ。オードリーは、ちょうどパスカルとウィキィの中間に一人でいた。
<彼女の下だったよ。>パスカルが言う。
<いつものようにゆっくり上がってきたら、浮遊するリフト・バッグを見つけた。彼女は奇妙な角度でわたしの方に沈降してきた>
15秒以内にパスカルはオードリーを文字通り捕まえて、彼女の沈降を止めた。彼女はもはや呼吸していなかったので、彼は彼女の口にレギュレータをくわえさせることができなかった。彼は自分の浮力調整(BCD)ジャケットに空気を入れると、彼女を引っ張って浮上し始めた。
1分55秒後、彼は深さ90mに到達。しかしウィキィはそこにいなかった。オードリーの最後の呼吸から6分が経過していた。
<その時点で、わたしも死ぬところだった。>パスカルが言う。彼は段階的に減圧するはずの100mの深さでの減圧をしていないのだ。彼は、それ以上の浮上を続けることはできなかった。減圧せずに速い速度で浮上を続けると、血液中に溶けこんだ窒素が気泡として析出し、血流を阻害する「ベンズ」という症状を引き起こす。そして、脳の血管にそれが起これば、たちまち死が訪れる。彼には妻も子供もいるのだ。リスクを犯すことはできない。パスカルにはウィキィがなぜ自分の持ち場を離れたのか理解できなかった。だれもが、理解できやしない。ウィキィはオードリーを乗せずにリフト・バッグが浮上したのを見なかったのだろうか。いったいどうしたら、ゆっくり浮上するそれを見逃すことができるのか。
彼らはウィキィを見つめる。
<ノー、ノー。>ウィキィは涙ながらに反論する。
<わかってくれないのか。空のリフト・バッグを見たよ。しかし、見たときは6分も過ぎていた。だから、ダイブは中止されたと思った。だって、当然だろう。だから、わたしは水面に浮上しはじめた。確かにオードリーがパスカルとともに下にいることがわかっていた。彼らはいっしょに減圧しているのだと思ったんだ。他の可能性なんてまったく考えたくもなかった・・・。>
水面に浮上した後、ウィキィは潜水病のリスクを犯してその深さに戻ることはできなかった。そして、彼はそこに戻るべき理由は何一つないと考えた。
一方では、パスカルが深さ90mのところで1分3秒待った。彼はオードリーの装着したブイを確かめ、彼女を水面に浮上させるためにそれを膨らまそうとした。その時、ピピンが到着した。彼女が潜行後、7分3秒経過していた。
オードリーは3分以上失神している。そしてオードリーを水面に引き戻すまで、1分35秒かかっている。彼女は水中に8分38秒いたことになる。
タンクからの圧縮空気を吸いながら、90mの水深を1分35秒で浮上するその浮上速度では、しだいに減圧していく水圧のために肺の中の高圧空気が膨らんで肺がパンクしても不思議ではなかった。肺は内部の圧力に耐えるようにできてはいない。もちろん、ベンズも起こり得たのだ。ピピンはそうしたリスクをすべて背負って行動したのだ。ピピンは船の中で他のメンバーと腰を落とすと、本当になにが起こったのか考えようとした。ないがいけなかったのだろうか。・・・耐え切れないショックから、死んでしまいたいと思いながら・・・。
オードリーはポニータンクと呼ばれる小さなタンクのバルブを開けたが、リフト・バッグは膨らまなかった。実際、この時少しだけ彼女は沈降している。パスカルはタンクからまったく空気が出てこないように見えたと言う。
タンクが空だった?それはあり得ない。ピピンはタンクが充填されているのを確認している。ピピンはバルブを空け、シューッと空気が出る音を聞き、空気がリフト・バッグの中に注入されることによってカサカサ言う音さえ聞いている。
<タンクをチェックした?>カルロスがたずねる。
<ああ、やった>ピピンが答える。
タタは、ボート向かってにポニータンクにエアを充填したかどうか聞いたところ、誰かが<<Yes>>と答えたことを明言した。
<誰が?>カルロスがたずねる。
<わからない>
タタだけではなく、ピピンもその声を聞いていた。
その場にいた誰もが、互いを見やった。誰もがその声が誰のものかわからず、しかも、誰もその答えを発していないのだった。事実は、チームの誰一人とも、そのタンクの充填について責任を負っていなかったことだ。彼らはチームであり、いつもチームで行動している。ある日、ピピンがタンクを確認すれば、別の日にはタタが、あるいはウィキィやカルロスやマットが確認する。彼らのやり方はいつもこうだったが、それまでは失敗はなかった。
カルロスはパスカルに注意を戻した。
<次になにが起こった?>
<オードリーを助けようと泳いで近づいた>パスカルが答える。
<彼女は一時的に目を見開いたが、パニックにはなっていなかった。彼女はスレッドを押し上げようとしていたが立ち往生した。だから、わたしも押し上げようとした。>
キムの記録によれば、パスカルとオードリーはスレッドと格闘して、かろうじて2m押し上げるのに17秒費やしている。そして、パスカルはもう一つのレギュレータを使って彼のタンクからリフト・バッグに空気を入れた。スレッドは、少しだけ上がり、165mになった。