小沢一郎を未だに壊し屋と揶揄し続けるマスコミや評論家は、所詮は変化の足かせでしかない常識にとらわれ諸説ごもっともな御託を並べることで悦にいってるだけの勘違い野郎だ。
今、再び、小沢は老体にムチ打ち「天下取り」に動いた。今なら統一候補を立てれば勝てると踏んだ。もちろん、今の野党の体たらくを見れば、何をとちくるっているのかと言われても仕方ないところではある。しかし、思い出してほしい。民の暮らしをないがしろにしてどこまでも既得権益に胡坐をかき続ける自民に国民が政権交代という刃を突き付けた過去を思えば、先祖返り丸出しの岸田政権の在り様に、今再びと考えるのは野党なら思って当然だし、思わないなら今すぐバッジを外せと言いたい。選挙で勝つことでしか、それは成しえない。小沢は勝つためには、なりふり構わず行動する稀有な政治家だ。
自公は当然ながら、野党内においても日本共産党とだけは手を組みたくないと思っている政治家は多い。55年体制の頃は、社共共闘はまれにあったが、総評系と一線を画す同盟系労組などは日共アレルギーを公然とうたっていた。そんな時代から数十年たった今もアレルギーは健在で、立憲民主の泉もその一人だ。しかし、小沢は日共と手を組んででも敵を倒すことを優先する。だから、泉が代表のままでは選挙は勝てないと考えるのは至極当然である。
今の日本共産党は、はっきり言って昔と違う。言い方は悪いが骨抜きといってもいい。良く言えば、ただの野党といってもいい。もちろん、昔と変わらぬイデオロギーまみれの党員も健在だろうが、少なくとも組織としてはただの野党に成り下がった感がある。池田大作が死んでも学会イズムは変わらないだろうが、宮本顯治が死ねば日共は変わるのだ。
小沢という男は戦国武将タイプなのだろう。イデオロギーなどくそくらえで、寺の坊主だろうが百姓だろうが、大所高所から戦に勝つ戦略を立て、使える者は何でも使う。
政権交代が現実味を帯びてきたころ、私は民主党議員の秘書だった。小沢が陣中見舞いに来た時の話だ。いわゆる政治資金パーティー後に一席を設けた際、小沢から注文があった。労組のみなさんだけ集めてくれというのだ。地元の経済界と一懇と思っていただけに、リクエストにのけぞった。小沢の執念を垣間見た思いがした。このお方は本気で政権を取ろうとしていると身震いしたことを思い出す。
かくして、地元労組のお歴々が集まり酒宴となったが、驚かされたのは労組の面々が、かつての政敵に目をらんらんと輝かせるではないか。最後は小沢一郎と記念撮影である。ミーハー丸出しである。小沢一郎と言う政治家は労組まで手玉に取るのかと感心させられた。
常識からは何も生まれない。すべては常識を破ることから生まれる。しかし、常識破りはもろ刃の剣でもある。新しいものを生む一方で、今回の反社もどきの派閥の上納金のような非常識を許してしまう。その意味においては、小沢はたしかに壊し屋だ。常識を平気でぶっ壊す政治家だ。自民をおん出てから、今日まで政界の常識を壊し続けてきたといっていい。細川内閣、鳩山内閣、小沢無くして誕生はなかった。それを壊したことがクローズアップされるが、むしろ作るために常識を壊したことこそ評価すべきなのだ。
自民は今、再び訪れた我が世の春に呆け切っている。そんな緩み切った敵陣に、今が絶好の攻め時と小沢が老体にムチ打って最後の大逆転を狙う。そんな小沢に拍手を送りたいが、野党の政治家も緩み切っているだけに、先行きは厳しい。何とか面白くしてほしいものだ。小沢の奮起に触発されるのは、案外、野党ではなく与党かもしれない。そうなれば面白くなるのだが。
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