働くことの意義づけから働き方を考える
人間は働かなければ生きられもしないし、進歩もしないと考えれば、働くことは人間にとって大事な事というは良く解りますが、それならば、「働く」ということをいかに意義づけるかは人間にとって大変重要な課題です。
では、働くことの意味付けを、「原罪に対する神からの罰」と考えるのと、「人間としての生き方を究めること」と考えるのとどちらがまともかといえば、どう考えても後者、つまり日本の伝統的考え方の方がまともということになるでしょう。
おそらくキリスト教自体も、「罰」ではまずいと考えたからこそ、プロテスタンティズムが起こったのでしょう。
では、それを蓄財といった金銭的なものとの関係でどう考えるかという次の段階ではどうでしょうか。
端的に言えば、欧米では企業の目的は利益、企業の評価は時価総額最大といった形になり、日本の場合には、如何に長期安定的に社会(人々)のに役に立ったかが評価の基準となり、利益は、目的ではなく、企業の成長のために必要な「肥料」(中間目標)といった役割になっています。
もともと、「資本主義」という言葉はキリスト教社会で作られたもので、日本に入ってくると、言葉は同じでも意味内容が違ってきているわけです。
日本では、資本主義は合わない、日本は「人本主義」だ、などという言い方もありますが、やはり人間だけではだめで、「人間が蓄積した資本を使ってより豊かで快適な社会を作る」というのが経済活動(企業活動)の本質ということになるのでしょう。
資本主義でも、人本主義でも不十分で、その巧みな組み合わせが大事なようです。
ところで話を本題に戻しますと、 キリスト教社会に一般的な「利益集団」としての企業の中では必然的に人間関係は希薄になります。一方、日本型の人間集団としての面の持つ企業においては人間関係は濃密なものになります。 いわゆる日本型経営による日本の成功の歴史は、濃密な人間関係に支えられた人間集団の力の発揮という形で成し遂げられてきました。
このように、企業の活動や、国の経済活動の望ましい姿を考えていきますと、どう考えても日本型の方が「まとも」ということになるようです。
そのベースにあるのが、働くことは良いこと、だから働く場を楽しいものにしようという日本的な発想だったのですが、最近職場が楽しくない人が増えているようです。
次回、この問題を考えてみましょう。
人間は働かなければ生きられもしないし、進歩もしないと考えれば、働くことは人間にとって大事な事というは良く解りますが、それならば、「働く」ということをいかに意義づけるかは人間にとって大変重要な課題です。
では、働くことの意味付けを、「原罪に対する神からの罰」と考えるのと、「人間としての生き方を究めること」と考えるのとどちらがまともかといえば、どう考えても後者、つまり日本の伝統的考え方の方がまともということになるでしょう。
おそらくキリスト教自体も、「罰」ではまずいと考えたからこそ、プロテスタンティズムが起こったのでしょう。
では、それを蓄財といった金銭的なものとの関係でどう考えるかという次の段階ではどうでしょうか。
端的に言えば、欧米では企業の目的は利益、企業の評価は時価総額最大といった形になり、日本の場合には、如何に長期安定的に社会(人々)のに役に立ったかが評価の基準となり、利益は、目的ではなく、企業の成長のために必要な「肥料」(中間目標)といった役割になっています。
もともと、「資本主義」という言葉はキリスト教社会で作られたもので、日本に入ってくると、言葉は同じでも意味内容が違ってきているわけです。
日本では、資本主義は合わない、日本は「人本主義」だ、などという言い方もありますが、やはり人間だけではだめで、「人間が蓄積した資本を使ってより豊かで快適な社会を作る」というのが経済活動(企業活動)の本質ということになるのでしょう。
資本主義でも、人本主義でも不十分で、その巧みな組み合わせが大事なようです。
ところで話を本題に戻しますと、 キリスト教社会に一般的な「利益集団」としての企業の中では必然的に人間関係は希薄になります。一方、日本型の人間集団としての面の持つ企業においては人間関係は濃密なものになります。 いわゆる日本型経営による日本の成功の歴史は、濃密な人間関係に支えられた人間集団の力の発揮という形で成し遂げられてきました。
このように、企業の活動や、国の経済活動の望ましい姿を考えていきますと、どう考えても日本型の方が「まとも」ということになるようです。
そのベースにあるのが、働くことは良いこと、だから働く場を楽しいものにしようという日本的な発想だったのですが、最近職場が楽しくない人が増えているようです。
次回、この問題を考えてみましょう。