自由民主党という政党が、自由でも民主でもない事が今回の騒動で衆目に曝されました。
安倍一強などと言う言葉がマスコミに出るようになった頃から、独裁色が強くなったなとは感じていましたが、安倍さんが総裁は2期までというルールを3期に伸ばす頃には、これは危ないと思いました。
その後体調不良でやめ、思わざる亡くなり方をしましたが、その後の総理は安倍路線を出来るだけ真似しようと努力しているようです。
総理大臣になったのだから、自分の思う所を押し通すようにすれば、みんな「ついてこざるを得ない」だろうという行動様式が見え見えです。
なんでこんな事になってしまったのかと考えてみれば、決定的な要因は、世論調査では政権は人気が無くても、選挙をすれば、結局は自民党が第一党で、連立を組めば過半数が可能という意識が、定着して来ているからのように思われます。
権力は腐敗すると言いますが、権力の座に就くと、意見は通り易くなり、気分はいいし、物事もやり易くなります。そうして人は我儘になり、みんながそれを認めると独裁者になるようです。プーチン、習近平もそうですし、安倍晋三もその気配がありました。
ロシアでも中国でも、独裁者の言ったことが正しいという事になるようです。反対出来ない雰囲気が生れるのでしょう。こうして自由な意見は圧殺されるのです。日本でも安倍政権は官僚の意見まで圧殺したように見えます。
こうして自民党ではリーダーが言えば誰も反対しないという雰囲気が作られていったのでしょう。自由な意見が出なくなれば民主主義は成立しません。
日本人はコンセンサス民族だなどと言われます。「和をもって貴しとなす」は聖徳太子の17条の憲法の第一条ですが、これに反対する人はあまりいないでしょう。
ただ、これが「同じ意見になればいいのだ」と単純に考える人もいないでしょう。「十人十色」というのが人間社会の一般的な姿で、そういう人たちが集まってみんな理解しコンセンサスが出来るというのが良いのだというのが本来の意味でしょう。
独裁者が言えばみんなハイハイといってそれがコンセンサス社会ではないのです。そして重要なことは皆がそれぞれに確りした意見を持っているという事なのです。その上で十分に意見交換をし、最適な結論を出す、これが自由で民主的という自由民主党のあるべき本来の姿でしょう。現実との落差は大きすぎますね。
ここで大事なことは「自由な意見」の中身です。ここで「自由、リベラル」という言葉を重視したいと思います。リベラルというのは確りした自分の意見を持ちそれを表現出来る能力という事でしょう。古代ギリシャでは、そのためには7種類の学問を治める必要があるとし、それを「リベラルアーツ」と呼んでいます。
自由民主党の国会議員たるもの、そうした教養と発言力と行動力を持ってこそ、政権党の国会議員と胸を張れるのではないでしょうか。
今の混乱の中で、こんな自民党なら作り直すべきだという元気のある人材はいないのでしょうか。そんなはずはないと思うのですが。