昨日の日経新聞にこんなことが書いてありました。新聞には「政治が下手なのかもしれない」と書いてありましたが、僕は人々の暮らしや歴史を知らない、知ろうとしとらんなやと思います。政治家には向いていない とい宴他方がええでしょう。
春秋 2013/6/20付 事件事故や災害が起きたとき、メディアは、そして世の中も、まっさきに死者の数を意識する。×人死亡か、と第一報。さらに増える恐れ、などと情報が入るにつれて緊張はいや増すわけだが、一転全員無事とわかれば胸をなで下ろしつつ、関心はよそへと向かうのだ。
▼思えばドライな心の動きである。死者の存否で、その数で、ことの重大さをはかる現実がある。ところがそんな常識を吹き飛ばしたのが福島第1原子力発電所の事故だ。たしかに直接的な死者はいない。しかしいまなお15万人が故郷を追われ、福島県の震災関連死は1400人を超す。除染も廃炉も、道は果てしなく長い。
▼自民党の高市早苗政調会長は、現在も「3.11」前の世界に生きているのだろうか。原発の再稼働を訴えるなかで、「事故によって死亡者が出ている状況ではない」と口走った。聞いてため息の出る軽率、かなしき認識の甘さというほかない。手順を踏んで再稼働を進めようという側にとっても、迷惑千万であろう発言だ。
▼「私のしゃべり方が下手だったのかもしれない」。こう釈明していた高市さんだが、結局は発言自体を撤回した。そういえばこの人、先月は「村山談話」について「侵略という文言を入れているのはしっくりきていない」と語って波紋を広げ、口を慎むはめになった。しゃべり方というより、政治が下手なのかもしれない。