劇場版「ほたるの川のまもりびと」 予告編(先行試写会バージョン)
首相以下どうしてこんな人ばっかりなんやろ・・・
公務員が外部との面接にメモを取らない残さないなんてことはほんまに考えられへんわ。僕のような一番末端の公務員やっても、だれかが話しに来て仕事として面会した時には記録をとって上司へ報告しとったで・・・
公明党の山口委員長が「いつまでやっとるんやろこの問題」とか言うてはるけど、政権の中におるんやさかい、「事実解明をちゃんとしましょうや」くらい言うべきちゃうんかなあ。言うべき相手がちゃうわ。
山口那津男・公明党代表(発言録)(加計学園問題について)国家戦略特区の制度を用いて四国に獣医学部を新設し、すでに開学をして学生が学び始めている。これらについてどういう意味があるのか、なにゆえの主張なのか、(国会で)議論することがどんな国政上の意味があるのか、結果として何をしたいのか。時間を費やすのであれば、そういうことを(野党側は)はっきり主張する必要がある。そこがぼやけているという印象がぬぐえない。印象付けの、事実解明に直接結びつかないような発言を何度繰り返しても、それは深まることにはならないという印象を持ちました。(党参院議員総会のあいさつで)
沖縄の平和行進が始まった。830人が集まったそうな。
バケモンみたいに元気やん・・・そんなことないで!先日、高齢者施設へ行った時の古くからの友人との会話。「どない?」「ボツボツや」この歳なったらボツボツでええねんで」「何言うとるんあんたはバケモンみたいに元気やで・・・こ......
今日は手話サークルあすなろを作った頃の古い友人たちが3人、我が家へきてくれました。
手話入門講座を始めるに際して放送各局・デパートへ寄付のお願いに回った(いや、回らさせれたと彼女たちは言ってました、私に)ことなどあっという間の数時間でした。
教えてもらいながら、ラインに入ったらあっという間にいろんな知り合いからスタンプが送られてきました。どういう仕組みなんかもようわからんままや。
上はその頃の手話サークルあすなろの会報。若い人は知らんやろけど、ガリ版(謄写版)でした。 名前が出てくるような人はみんな定年を過ぎています。
先日の毎日新聞、受刑者の逃走事件で大井作業場の再開のめどがつかないそうだ。
こんなことで、理念が揺らいでもろうたんでは困る。早く再開へと切に願う。
ここで同じ日の新聞
ドイツのことを書いておられるのだが、景気を終えた人を自分の家に迎える人たちがいる・・・。
バタバタとしていて髪が長くなってしまっていたので今日は横川まで散髪に行きました。
気分転換にもなるかなと横川から県庁まで歩きました。
雨が降りそうな空模様でしたが、緑はとても美しかったです。こんなところにサッカー場は作って欲しくないなあ・・・と思いながら歩きました。
市民病院んおドトールに寄った後、しばらく休んでしまっていたカルチャーセンターで手続きをして自転車で帰ってきました。
そんなわけで久しぶりに歩きました。 12854歩8㎞。
僕が若い頃、中国放送(前はラジオ中国と言ってましたね。)の玄関にはよく赤旗がなびいていました。学生時代の前半、ディレクターをしておられたMさんに頼まれて録音テープの書き起こしをしていたことがあります。朝鮮人被爆者の調査や密航被爆者への支援を数人で細々とやっていた頃です。その頃はもう今の建物やったと思うなあ。
写真は中国放送労働組合が発行していた(今もあるのかどうかは知らんのんやけど)『新放送RCC』74年2月号に当時尾道市社会福祉協議会に勤めておられた松井裕子さんが「テレビに字幕を」と寄稿されたもの。
尾道の手話を学ぶ仲間たちはこの時期NHKや民放各社へ要望書を届けていました。尾道の仲間たちはこの他にも色々と問題提起をしてくださいました。
40年以上も前の話です。
(2018.5.16追記)
その後1975年3月19日付契印で 民放労連広島テレビ放送労働組合から手話サークルあすなろ宛に
民法に関する国民要求という文書が届いている。その中に
■聾唖者対策
聾唖者のために、手話つきテレビ番組を放送すること。また一日一回以上、手話または文字スーパーつきのニュースを放送すること。
そいう項目がある。
昨日の中国新聞、愛知県のNPOが外国人児童の5%が特別支援学級に在籍しており、日本人児童の倍以上だと発表している。
いろんな「障害」や「病気」が次から次へと「発見」され、特殊教育が障害児教育さらに特別支援教育と表されるようになって来て、僕は安易に振り分けが選ぶ側になんの痛みも伴わず、どんどんと勧められているような気がしている。
妻の遺品を片付けていて 有馬啓之さんの「それでも僕は笑っていたい」をみつけた。2005.10.25と著者のサインも入っているので妻がどこかの講演会で購入したんだろうか。あるいはどなたかにいただいたんだろうか? 読み始めてしまったので片付けはまたあした。
置いてあった椅子がなくなっただけで 玄関が随分広くなったような気がします。そして靴も減りました。(本当は狭いんですけどね)
部屋の片付けとともに空いたところがグーンと広がってしまいました。 さみしいものですね。
1985年8月2日から4日までの全日本ろうあ連盟の手話通訳指導者養成研修会専門コースを初めて受講しました。実はその前年の84年の第9回全日本ろうあ連盟認定手話通訳試験を受け合格しました。
それまで広島の手話通訳者たちは手話通訳者に試験はふさわしくないと受験を拒否してきました。もちろん僕自身もです。
ただ、それまでの手話通訳活動とはあまり縁のなかった人が「私受けるわ」てな具合で受け始めたので運動サイドからも受けけようとこの歳二人で受験し私が合格したのです。この年に合格したのは私も含めて8名。同期に合格した中には長く全国手話通訳問題研究会の事務所長を務められた兵庫のMさんや北海道で手話通訳活動を続けておられたTさんなどがおられました。
資金援助などはもちろんないのですが、専門コースを受けないと欠席の理由書などを提出しないといけないという・・・義務だけはしっかりありましたねえ。
これらがのちの手話通訳士試験へつながっていきます。でも移行措置はなかったなあ。