フランスのパリでイスラム原理主義者が、イスラム教を風刺した新聞社を襲撃して、12人が死亡したと言います。痛ましい事件です。
現代は、宗教の名による争いが絶えない時代なのかも知れません。しかも、同じ宗教の中でも、分派をめぐる争いから、互いに殺し合っている状況が続いています。
私自身は、無神論者です。でも、世俗的なしがらみから、菩提寺が属する仏教徒と言うことになっています。でも、基本的には、「困ったときの神頼み」の域を出ない無責任な人間です。
今回のパリの事件などを見て、疑問がまたも浮かび上がります。

新聞社を襲撃した犯人の映像です。[新聞記事から)
敬虔なイスラム教徒のようです。でも、同じイスラム教徒が争い、同じキリスト教徒が争い、異宗教の人々が争い、それに領土と言う支配地域の争いが複雑に絡み合って歴史が動いてきたような気がします。
こんな歴史を見るのつけ、「宗教は人を救えるか?」と言う疑問にいつも突き当たっています。
ネットでのこの質問への答えを見てみました。こんな回答がありました。
『信仰と狂信は紙一重』
>宗教は人の心を救えるか?それとも歪んだ人間を生む?
どちらも有り。それは信ずる側の問題ですね。宗教は心のよりどころ。だけど、信心深いのは結構ですが、あまり信じすぎて宗教原理主義になってしまうとタイヘン。割り切ったお付き合いを。もっともその人が幸せで他人に迷惑をかけないのなら、それでいいのかもしれませんけど・・・。
「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」 ヤンソン(スナフキンの言葉)
宗教は「道具」。
上手く使えば人を救えるし、下手に使えば人を殺してしまう。
そのあたりに十分注意しておけば、宗教は結構便利な「道具」だと思う。
でも取扱説明書が無いのが難点。
この質問には、何とも正解のない答えばかりです。
「宗教は人を救えるか?」この質問の逆に「文明は人を救えるか?」の問いかけもあります。
私は、現状では「否」だと思い、とても悲観的です。でも、人間が英知を出し合い、争い事がないようにする以外にないと思います。
年の初めに、いろいろ考えさせられた今回の事件でした。
現代は、宗教の名による争いが絶えない時代なのかも知れません。しかも、同じ宗教の中でも、分派をめぐる争いから、互いに殺し合っている状況が続いています。
私自身は、無神論者です。でも、世俗的なしがらみから、菩提寺が属する仏教徒と言うことになっています。でも、基本的には、「困ったときの神頼み」の域を出ない無責任な人間です。
今回のパリの事件などを見て、疑問がまたも浮かび上がります。

新聞社を襲撃した犯人の映像です。[新聞記事から)
敬虔なイスラム教徒のようです。でも、同じイスラム教徒が争い、同じキリスト教徒が争い、異宗教の人々が争い、それに領土と言う支配地域の争いが複雑に絡み合って歴史が動いてきたような気がします。
こんな歴史を見るのつけ、「宗教は人を救えるか?」と言う疑問にいつも突き当たっています。
ネットでのこの質問への答えを見てみました。こんな回答がありました。
『信仰と狂信は紙一重』
>宗教は人の心を救えるか?それとも歪んだ人間を生む?
どちらも有り。それは信ずる側の問題ですね。宗教は心のよりどころ。だけど、信心深いのは結構ですが、あまり信じすぎて宗教原理主義になってしまうとタイヘン。割り切ったお付き合いを。もっともその人が幸せで他人に迷惑をかけないのなら、それでいいのかもしれませんけど・・・。
「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」 ヤンソン(スナフキンの言葉)
宗教は「道具」。
上手く使えば人を救えるし、下手に使えば人を殺してしまう。
そのあたりに十分注意しておけば、宗教は結構便利な「道具」だと思う。
でも取扱説明書が無いのが難点。
この質問には、何とも正解のない答えばかりです。
「宗教は人を救えるか?」この質問の逆に「文明は人を救えるか?」の問いかけもあります。
私は、現状では「否」だと思い、とても悲観的です。でも、人間が英知を出し合い、争い事がないようにする以外にないと思います。
年の初めに、いろいろ考えさせられた今回の事件でした。