予定した用事がコロナの関係で中止になったため一日中、家にいました。
そこで、録画してあったテレビ番組を見ました。
「二・二六事件の全貌」です。海軍の極秘文書が見つかり、その記録に基づく実証を再現しています。
二・二六事件は、私が生まれる前の年に起きました。この事件を契機に、昭和天皇がますます神格化され、軍部の発言力が強くなり、その後の政治が軍部の言うままに動いたことを示しています。
国民を抑圧し、無謀な戦争に突き進み、事件からたったの9年後には日本は敗戦を迎えました。
陸軍も海軍も青年将校に責任を押し付け、自らの組織を守ることに腐心していたことがわかり、今の政治によく似ています。
現在、一強と言われる政治が大手を振って進められ、国政を私物化し、議会も司法もマスメディアも、「忖度」して官邸にもの言わぬ雰囲気が横行しています。
これこそ、私には、いつか来た道 の繰り返しのように思えます。
いろいろ考えさせることがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。
以下、NHKの解説から・・・
二・二六事件から戦争への道
日本を揺るがした、戦慄の4日間。
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。それにもかかわらず、事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家らにあると断定。弁護人なし、非公開、一審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけた。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑し、陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調した。一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていった。
「現に目の前で何人も銃で殺されたり、斬り殺されたりという事件を見て、政治家も財界人も、もう陸軍の言うことに対して、本格的に抵抗する気力を失っていくんですね。これが二・二六事件の一番、その後に対する影響力の最たるものですね」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)
34歳で、事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。
「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)
事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。
日本は太平洋戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。
戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。
「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)
晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。
二・二六事件を記録し続けた海軍は、その事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには海軍が、事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は、詳細を極めていた。
事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。
「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行
この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」
襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。
昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)
事実とは何か。私たちは、事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて、蘇った最高機密文書。向き合うべき事実から目をそむけ戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。
そこで、録画してあったテレビ番組を見ました。
「二・二六事件の全貌」です。海軍の極秘文書が見つかり、その記録に基づく実証を再現しています。
二・二六事件は、私が生まれる前の年に起きました。この事件を契機に、昭和天皇がますます神格化され、軍部の発言力が強くなり、その後の政治が軍部の言うままに動いたことを示しています。
国民を抑圧し、無謀な戦争に突き進み、事件からたったの9年後には日本は敗戦を迎えました。
陸軍も海軍も青年将校に責任を押し付け、自らの組織を守ることに腐心していたことがわかり、今の政治によく似ています。
現在、一強と言われる政治が大手を振って進められ、国政を私物化し、議会も司法もマスメディアも、「忖度」して官邸にもの言わぬ雰囲気が横行しています。
これこそ、私には、いつか来た道 の繰り返しのように思えます。
いろいろ考えさせることがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。
以下、NHKの解説から・・・
二・二六事件から戦争への道
日本を揺るがした、戦慄の4日間。
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。それにもかかわらず、事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家らにあると断定。弁護人なし、非公開、一審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけた。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑し、陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調した。一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていった。
「現に目の前で何人も銃で殺されたり、斬り殺されたりという事件を見て、政治家も財界人も、もう陸軍の言うことに対して、本格的に抵抗する気力を失っていくんですね。これが二・二六事件の一番、その後に対する影響力の最たるものですね」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)
34歳で、事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。
「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)
事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。
日本は太平洋戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。
戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。
「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)
晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。
二・二六事件を記録し続けた海軍は、その事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには海軍が、事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は、詳細を極めていた。
事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。
「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行
この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」
襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。
昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)
事実とは何か。私たちは、事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて、蘇った最高機密文書。向き合うべき事実から目をそむけ戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。