人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

読響会員特典CDはヴァイグレのブラームス「第1番」他と山田和樹のサン=サーンス「第3番」他 / 村上春樹著「騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編(上巻)」を読む

2019年04月19日 07時16分03秒 | 日記

19日(金)。昨日のブログで、ヴィルデ・フラングのアンコール曲を「オーストリア国歌」と書きましたが、説明が不十分だったので補足いたします ハイドン作曲「神よ、皇帝フランツを守り給え」は、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の国歌として使用されていたというのは事実ですが、現在ではドイツが国歌として使用しています。誤解を招く標記でした。お詫びして訂正いたします

なお、ハイドンは「神よ、皇帝フランツを守り給え」を「弦楽四重奏曲第77番ハ長調」の第2楽章「ポコ・アダージョ・カンタービレ」に取り入れています また、現在のオーストリア国歌「山岳の国、大河の国」は、モーツアルトがフリーメイスンのために書いた「われら手に手を取って」だと言われていますが、別の作曲家によるものだという説もあるようです

ということで、わが家に来てから今日で1659日目を迎え、北朝鮮の朝鮮中央通信は18日、金正恩委員長が17日に実施した「新型の戦術誘導兵器の発射実験」を視察したと報じた というニュースを見て感想を述べるモコタロで

 

     

     兵器にばかり金を使って苦しむのは国民だ!庶民の暮らしは知らないだろうけど

 

         

 

昨日、夕食に「鶏の唐揚げ」を作りました 「うまみじょうゆ」も含めて栗原はるみ先生のレシピですが、小麦粉を使用せず片栗粉だけを使います 今回は660グラム揚げました。二人分です。とても美味しいです

 

     

 

         

 

17日の読響定期演奏会のとき、読響会員特典CDをいただきました 私は「名曲シリーズ」と「読響アンサンブル」の会員なので2枚もらえる権利があります CDは2種類用意されているので各1枚をいただきました

1枚は常任指揮者に就任したセバスティアン・ヴァィグレ指揮による①ブラームス「交響曲第1番ハ短調」②ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲のカップリングCDで、2016年8月28日に東京芸術劇場で演奏された第190回マチネーシリーズ公演のライブ録音です

 

     

 

もう1枚は首席客員指揮者の山田和樹指揮による①サン=サーンス「交響曲第3番ハ短調”オルガン付き”」、②レスピーギ:交響詩「ローマの祭」、③ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲から「スイス軍の行進」のカップリングCDで、2019年1月8日にサントリーホールで演奏された第618回名曲シリーズ公演のライブ録音です

 

     

 

         

 

村上春樹著「騎士団長殺し  第2部  遷ろうメタファー編(上巻)」(新潮文庫)を読み終わりました

「私」は秋川まりえをモデルにして肖像画を描き始めた。いつも彼女の叔母・秋川笙子がアトリエまで車で送り迎えしてきた ある日、免色が偶然を装ってアトリエを訪れた時、彼と秋川笙子は車の話題ですっかり打ち解け親密な関係になる 「私」は免色に、彼女に接近して親密になるのは、自分の娘かも知れない秋川まりえに近づくための手段ではないか、と問うが彼は否定する 感のいいまりえは叔母と免色が親密な関係になっていることに気付き不安を抱く その頃「私」は気になる存在である「雑木林の中の穴」を絵として残すことにする。ある夜、一人の老人がアトリエにある「騎士団長殺し」の絵画を見つめているところを垣間見る。その老人こそその絵を描いた、伊豆高原の高齢者養護施設に入居しているはずの雨田具彦その人だった 彼は何のために戻って来たのか。「私」は夢とも現実とも判別のつかない状況の中で、その場面をしっかりと記憶に留めることを決意する 秋川まりえは叔母に内緒で雑木林の小径を抜けて「私」の元を訪れてくる。そして鈴が鳴っていた穴を見たいと言う。「私」は彼女とともに穴を見に行と、穴の中を見つめていたまりえは「この穴はひらくべきではなかった」と言う 何か不吉なことが起こると感じていたようだった 「私」は「秋川まりえの肖像画」と「雑木林の中の穴」の絵を並べて見ていて、この穴は私に描かれることを求めていた、これから何かが起ころうとしていることを知らせている、と確信する 金曜日、地元の公立中学校に通うまりえが帰りがけに「私」が教えている絵画教室に寄らず、自宅にも帰らないまま失踪する 念のために免色とともに「雑木林の中の穴」に行ってみると、穴の底に彼女が身に着けていたペンギンの小さな人形が落ちていた 穴の中には抜け道はない。いったいまりえはどこに消えたのか? その夜、「私」の前に騎士団長が現われる。「どうすれば秋川まりえを救いだせるか、ヒントくらいは教えてくれないか」と問うと、「一つだけヒントをあげよう。しかしその結果、いくつかの犠牲が出るかも知れない」と答える。「それでもかまわない」と言うと、「土曜日(つまり今日)の午前中に電話がかかってくる。そして誰かが何かに誘う。それを断ってはならない」と答える。誰からどんな電話がかかってくるのか

 

     

 

この第2部上巻に頻繁に出てくる音楽はリヒャルト・シュトラウスの歌劇「薔薇の騎士」です 

「私はリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』をターンテーブルに載せ、ソファに横になってにその音楽を聴いた。とくにやることがない時に、そうやって『薔薇の騎士』を聴くことが私の習慣になっていた。免色が植え付けていった習慣だ その音楽には彼が言ったように、確かに一種の中毒性があった 途切れもなく続く連綿とした情緒。どこまでも色彩的な楽器の響き。『たとえ1本の箒だって、私はそれを音楽で克明に描くことが出来る』と豪語したのはリヒャルト・シュトラウスだった。あるいはそれは箒ではなかったかもしれない。しかしいずれにせよ彼の音楽には絵画的な要素が色濃くあった」と書かれているように、何カ所かのシーンで登場します

この文章の中に「免色が植え付けていった習慣だ」とあるのは、初めて免色が「私」のアトリエを訪れた時に、彼が雨田コレクションの中から選んだのが『薔薇の騎士』のレコードで、まだ一度も聴いたことのない「私」に彼がその曲の魅力を教えてくれたからです(第1部 現れるイデア編・上巻)。その時 免色が選んだのはゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏によるレコードでした。免色は次のように解説します

「リヒャルト・シュトラウスがその絶頂期に到達した至福の世界です 初演当時には懐古趣味、退嬰的という批判も多くあったようですが、実際にはとても革新的で奔放な音楽になっています ワグナーの影響を受けながらも、彼独自の不思議な音楽世界が繰り広げられます。いったんこの音楽を気に入ると、癖になってしまうところがあります 私はカラヤンかエーリヒ・クライバーの指揮したものを好んで聴きますが、ショルティ指揮のものはまだ聴いたことがありません。この機会に是非聴いてみたいのですが・・・」

上記の解説は「薔薇の騎士」とその演奏に対する筆者の考えを免色に託して語らせたのではないかと思います

※下のCDは、上から①エーリヒ・クライバー指揮ウィーン・フィル(1954年)、②カラヤン指揮ウィーン・フィル(1984年)、③カラヤン指揮ウィーン・フィル(1960年ライブ)です ①と③ではオクタヴィアン/マリアンデルをユーゴスラビア出身のセーナ・ユリナッチが歌っていますが、私は彼女の大ファンです

 

     

     

     

 

免色はなぜ多くのレコード・コレクションの中から『薔薇の騎士』を選んだのか? 私には免色が「私」を「薔薇の騎士」に仕立て上げようとしている象徴のように思えます

オペラ「薔薇の騎士」の台本はウィーン生まれのフーゴ―・フォン・ホフマンスタールが書きましたが、「薔薇の騎士」とは日本流に言えば「結納の使者」です 台本では「当時のウィーンでは、婚約の贈り物として、相手の婚約者に銀のバラを届ける風習があった そのバラを届ける身分の高い使者のことを『薔薇の騎士』といった」となっていますが、これはホフマンスタールの創作です

免色は「私」に自らの肖像画を描いてもらうところまでは何も起こらないのですが、自分の子どもかも知れない秋川まりえの肖像画を描いてほしいと言う そして、「私」が彼女の肖像画を描いている時に見学させてほしいと言う これはやはり、免色は「私」と秋川まりえとの間を取り持つメッセンジャー(=薔薇の騎士)の役割を担わせているのではないか、と思わざるをえません 小説の中で「私」はそのことに気づいており「自分は免色に利用されているのではないか?」として、暗に免色に疑問を伝えますが、免色はそのつもりはない、と否定しています しかし、私は本当にそうだろうか、と疑問に思っています 失踪した秋川まりえの行方とともに、今後の免色の行動が気になります

私は「騎士団長殺し」と「薔薇の騎士」の両方に「騎士」が登場することも気になります 今後の展開で何らかの関連性が出てくるのかどうか、下巻を楽しみにしたいと思います

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