人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

カール・リヒター指揮「バッハ:マタイ受難曲」 / 村上春樹著「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編(下巻)」を読む ~ ついに 目の前に現れたイデアは騎士団長の姿形をしていた

2019年04月15日 07時15分22秒 | 日記

15日(月)。わが家に来てから今日で1655日目を迎え、今日が新聞休刊日だと知って感想を述べるモコタロです

 

     

     新聞が来ない朝なんて コーヒーを入れないクリープみたいなもんだよ  って古ッ!

 

         

 

昨日の日経朝刊 The STYLE / Culture 面の「名作コンシェルジュ」コーナーで「カール・リヒター『バッハ:マタイ受難曲』」が取り上げられていました このコーナーは、音楽や映画や絵画などの名作を その道のオーソリティがエッセイ的に紹介するもので、クラシック音楽は音楽評論家・鈴木淳史氏が担当しています   今回取り上げられているJ.Sバッハ(1685-1750)の「マタイ受難曲」は、ドイツ・ザクセン生まれのカール・リヒター(1926-1981)指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団ほかによる1958年録音による演奏です 私はこの演奏のLPレコードを持っているので、それを聴きながらこの文章を書いています

 

     

     

 

この演奏について、鈴木氏は次のように書いています

「バッハの死後は長いあいだ忘れられることもあった 1世紀にわたる沈黙を破って、1829年にこの名曲を復活させたのは、あのメンデルスゾーン 以降、ロマン派のスタイルで演奏され続けてきたが、1958年に録音されたこのリヒターの演奏も、この曲の歴史を変えたといっていい 音楽の美しさを前面に出すため、厚塗りの化粧をほどこされた、これまでのオペラ風とさえいいたくなる演奏とは異なり、ぐっと抑制がきき、厳粛さが全体を支配する。過度な感情表現も控えめで、事実を伝えることに徹したドキュメンタリーの手法だ 楽譜に忠実で、恣意的な味付けを拒む即物主義時代を代表する録音ともいえる。(中略)最近では、バッハの時代に使われていた楽器や演奏法に基づいた演奏が主流になった。編成は小さく、響きはよりシャープでクリアになり、即興性も加わった。そんな時代を切り開く最初の第1歩となったリヒターのストイックなマタイ受難曲には、今でも古びないリアルさが宿っている

これ以上の表現力はないだろう、と思われるほど、この文章はリヒターの演奏の特徴を見事に捉えています とくに「事実を伝えることに徹したドキュメンタリーの手法だ」という指摘は正鵠を射ています 普段 聴いている、バッハ・コレギウム・ジャパンによるシャープでクリアな演奏と比べると、全体的にゆったりしたテンポによるリヒターの演奏は 牧歌的とさえ思えますが、説得力を持ち 反って新鮮さを感じます

この演奏を聴くために、1年ぶりくらいにLPレコードを聴きました タンノイ・アーデン(スピーカー)、ローテルRX1050(アンプ)、マイクロBL91(ターンテーブル)、フィデリティ・リサーチRS-141(カートリッジ)で聴いていますが、1枚目の演奏が終わったのでB面にひっくり返すと第8面になっていました。2枚目のA面が第2面になっているのです。このレコードを聴くのは30年ぶりくらいかも知れないので、そんなことにも面喰いました それでも、ターンテーブルにレコードを載せて、カートリッジが静かに降りていくのを見ているのは気持ちの良いものです パソコンやCDで音楽を聴くのに慣れている人にとっては、超アナログ的かも知れませんが、この魅力は分からないでしょうね

 

     

 

         

 

前日に続いて、村上春樹著「騎士団長殺し  第1部  顕れるイデア編(下巻)」(新潮文庫)を読み終わりました

「私」がイーゼルに載った免色の肖像画を見ながら考え事をしている時、誰かが「かんたんなことじゃないかね」と言った。しかし、姿形は見えなかった ある日の深夜2時頃、家の中からあの鈴の音が聞こえてきた。居間のソファを見ると、身長60センチ位の人物が「騎士団長殺し」の絵に描かれていた騎士団長と同じ顔、同じ身なりをして目の前にいた 彼は「ない」ということを「あらない」と言ったり、「あなた」を「諸君」と言ったりと、奇妙な話し方をするが、話好きなようだった 「あなたは霊のようなものか?」と訊くと、「霊ではあらない。あたしはただのイデアだ」と答える 彼の説明によると、たまたま騎士団長の姿を借りて現れただけだということだった ある日 免色が、「私」が小田原の絵画教室で教えている秋川まりえをモデルに肖像画を描いてほしいと依頼してきた。まりえは13年前に別れて別の男と結婚した女性の娘で、可能性として自分の娘かもしれないという 「私」はあまり気がのらなかったが、結局引き受けることにする

 

     

 

「上巻」の時にも書いたように、村上春樹は小説の中でクラシック音楽をよく登場させます この「下巻」にも登場します。主人公の「私」と同様、知り合いになった免色もクラシック好きなようで、「私」が免色の邸宅を訪れ、自分が描いた免色の肖像画を観る場面ではシューベルトの「弦楽四重奏曲第13番イ短調”ロザムンデ” D804」が流れます 「免色がリモート・コントロールを使って、程よい小さな音で音楽を流した(中略)。そのスピーカーから出てくるのはクリアで粒立ちの良い、洗練された上品な音だった 雨田具彦の家のスピーカーから出てくる素朴で飾り気のない音に比べると、違う音楽のようにさえ思える」と書いているので、LPではなく超高音質CDをかけたのだと思います 「私」は自宅に帰ってから、ウイスキーを飲みながら免色の家で聴いたシューベルトの「ロザムンデ」をLPレコードで聴きます 表記はありませんが、「上巻」に出てきたシューベルト「弦楽四重奏曲第15番」と同じウィーン・コンツェルトハウス四重奏団による演奏ではないかと想像します

 

     

         LPレコード・ジャケットと同じデザインによるCD(1950年録音)

 

その後、免色はシャンパンを飲みながら、シチリアを訪れたときに、カターニアの歌劇場で観たヴェルディの「エルナー二」がとても素晴らしかったことなどを語ります これは村上氏の実際の経験を書いているのではないかと想像します

「村上春樹はこの場面でなぜこの曲を登場させたのだろうか?」と 思いを巡らせながら小説を読むのが楽しみです

コメント
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