Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦 (Operation Detachment)。
概要
硫黄島遠景(2007年)
『硫黄島の星条旗』をかたどった海兵隊戦争記念碑
1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」(土手道作戦)としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。
作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続いた。最初アメリカ軍は5日間の戦闘期間を想定していたが、40日間にわたる死闘の末、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった[14]。
いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった[1]。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名[4]の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり[注 3]、フィリピンの戦い (1944年-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。
背景
日本軍
硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島は、日本の首都東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島の小笠原村(旧:硫黄島村)に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km2程度である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。しかし本島は摺鉢山のほかは平地であって、小笠原諸島で唯一飛行場が建設可能な島であった。この点から日米両軍より、本島は戦略的にきわめて重要な地点とみなされることになった。
日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦時、父島に横須賀海軍航空隊(のち第27航空戦隊)司令部指揮下の海軍根拠地隊約1,200名、父島要塞司令部指揮下の陸軍兵力3,700ないし3,800名を配備し、硫黄島をこれらの部隊の管轄下に置いていた[20]。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として、硫黄島の飛行場の戦略的重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。硫黄島の防衛は海軍の担当であったが、戦力は航空隊や施設隊中心に1,000人程度の戦力であった[21]。
その後、戦況が不利となった日本は、1943年9月30日の閣議および御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決め、その中で硫黄島を含む小笠原諸島が絶対国防圏として定められ戦力が増強されることとなり[22]、11月15日には独立混成第1連隊が父島要塞に増派される予定であったが、南方の戦況悪化のためニューアイルランド島に転用されることとなった[23]。その後、1943年11月にアメリカ軍はマーシャル諸島を侵攻し(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、マキンの戦い、タラワの戦い、クェゼリンの戦いなど日本軍守備隊の玉砕が相次ぐと、1944年2月5日に大本営は既定路線ながら進んでいなかった小笠原諸島の戦力強化を促進することとし、大隊編成の要塞歩兵隊を3個、中隊編成の要塞歩兵隊を2個に砲兵隊や工兵隊を送り込むこととし、これらの部隊は3月4日に父島に到着した[24]。さらにトラック島空襲で日本軍が大損害を被ると、2月21日に大隊編成の要塞歩兵隊5個の追加派遣を決定した[25]。
さらに大本営は、3月にサイパンにマリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、小笠原諸島の中部太平洋の防衛を統括する第31軍を編成し、父島要塞も第31軍司令官小畑英良陸軍中将の指揮下となった[26]。父島要塞を司令部とする小笠原地区集団に対して、第31軍は各島の陣地構築強化を命じたが、特に硫黄島については「小笠原地区ニ於ケル最重要航空基地トシテ之ヲ絶対ニ確保スル如ク要塞化ス」とされ、最優先で強度“特甲”の要塞を構築するよう命じられた[27]。父島要塞・小笠原地区集団司令官大須賀応少将は第31軍の命令に基づき、硫黄島に、3月23日に要塞歩兵隊8個と砲兵・工兵からなる「伊支隊」(支隊長厚地兼彦大佐以下4,883人)を派遣した。第31軍司令官小畑も硫黄島には気をかけており、3月中に司令部のあったサイパン島から硫黄島を訪れている。小畑は硫黄島の防衛態勢を確認し、厚地が火砲を高地に配置しているのを見て「海岸の全域にトーチカを構築しその中に火砲を据え付けろ」と命じている。これは、日本軍島嶼防衛作戦の原則であった「水際配置・水際撃滅主義」に基づく命令であり、厚地はやむなく小畑の命令通りに高地に設置してあった火砲を海岸に配置し直している[28]。一方で、「伊支隊」の進出前まで硫黄島の防衛を担当していた海軍も順次戦力増強を続けており、3月時点で和智恒蔵大佐を司令官として、海軍陸戦隊の硫黄島警備隊600人など、2,000人の戦力を有しており、硫黄島には陸海軍で7,000人の兵力が防衛につくこととなった[28]。
アメリカ軍
摺鉢山(2007年)。総括電報に見られるように、同島の帝国陸軍は「パイプ山」とも呼称していた。
1944年9月の段階でアメリカ軍のフィリピンに次ぐ攻略目標は台湾とされており、「コーズウェイ作戦」の作戦名で検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、アメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[29]。海軍側でもアーネスト・キング海軍作戦部長は台湾を攻略することで、南方資源地帯から日本本土へ資源を輸送するシーレーンを遮断すること、また台湾を拠点として中国本土への進攻が可能と考えて台湾攻略を主張しており、これにはアメリカ海軍の太平洋戦域最高司令官チェスター・ニミッツ元帥も賛同していた[30]。しかし、第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス提督は、硫黄島が東京、九州、琉球列島を結ぶ円弧の中心となる重要地点で、アメリカ軍が攻略したマリアナ諸島と日本本土の中間地点にあり航空基地として利用価値が大きいものと考えて、台湾ではなく硫黄島の攻略を主張していた[31]。
やがて、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰り上げが決まり、フィリピンの確保がより早く行える可能性が出てくると、アメリカ陸軍は、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できるとの結論に達し、またアメリカ陸軍航空軍は、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島を、マリアナ諸島に次ぐ日本本土空襲の拠点として確保したいと考えたので、南太平洋地域陸軍副司令官且つ第20空軍の副司令官ミラード・F・ハーモン(英語版)中将らが、「コーズウェイ作戦」を中止、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、「コーズウェイ作戦」の指揮官に内定していたバックナーも、補給の問題からハーモンに同調した[32]。それでも海軍のキングは台湾攻略を主張していたが、太平洋艦隊司令部の参謀らによる研究結果で、マッカーサーの西太平洋方面連合軍がフィリピンに大戦力を投入している現状において、太平洋方面連合軍の兵力は少なく、現有兵力での台湾の攻略は困難であるという勧告を聞いたニミッツは、硫黄島攻略を優先すべきと考えを改めており、1944年9月29日にニミッツとスプルーアンスはキングを説得して、海軍で台湾攻略作戦の放棄と硫黄島の攻略が決定した[33]。そして陸軍も含めたアメリカ統合参謀本部が1944年10月3日にニミッツに対して硫黄島の攻略を正式に命じた[34]。
硫黄島攻略が、マリアナ諸島から日本本土空襲を行う戦略爆撃機B-29の支援のために決定されたと言われることがあるが、硫黄島攻略が決定された1944年10月の時点ではマリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲はまだ始まっておらず(東京初空襲は1944年11月24日[35])、作戦決定時においてはB-29の支援が主目的ではなかった。海軍内で硫黄島攻略を主張し続けていたスプルーアンスも、当初は硫黄島がB-29の作戦にとって非常に価値があることは頭になかった[31]。しかし、作戦計画を進めていくにつれて、マリアナよりのB-29による空襲が、片道約2,000kmの飛行距離のため燃費を考慮して爆弾の搭載量を制限せざるを得なかったり、戦闘機の護衛がつけられないので8,500mの高高度よりの爆撃を余儀なくされたりで、作戦効率が悪く成果があまり上がっていないことや、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張って無線電信で報告する、早期警戒システムにおける防空監視拠点として機能しており、特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源となっていたこともあって、硫黄島はB-29の日本本土空襲にとって大きな障害となって、その排除が求められた。また、燃料補給基地や損傷した機の不時着飛行場としての価値も非常に高いものと考えられた[34]。
日本軍は硫黄島を出撃基地や中間基地として、マリアナ諸島のアメリカ軍基地に空襲を行っていた。第1回はB-29の偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年11月2日で、陸軍航空隊九七式重爆撃機が硫黄島から9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった[36]。その後、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機が硫黄島を出撃し、サイパン島を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した[37]。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御楯特別攻撃隊が硫黄島から出撃し、サイパン島イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47と対空砲火により全機未帰還となった[38]。また、新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている[39]。最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった[40]。アメリカ軍はやむなく、B-29を混雑気味のサイパン島の飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われるなど、B-29にとって硫黄島の存在は脅威ともなっていた[41]。
そのため、硫黄島攻略の目的は日本本土空襲の支援という面が強調されるようになり
被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない爆撃機の中間着陸場の確保
爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保
日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
日本軍の早期警報システムの破壊
硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
などが作戦目的として掲げられるようになった[42]。
日本軍の防衛計画
栗林忠道陸軍大将。写真は陸軍中将時代のもの。
西竹一陸軍大佐。写真は1930年代初期、愛馬「ウラヌス」と共に写った陸軍騎兵中尉時代のもの。
小笠原兵団の編成と編制
大本営は、アメリカ軍のパラオ諸島空襲など、パラオやマリアナの戦況が風雲急を告げるようになると、第31軍による小笠原諸島の作戦指導は困難になる可能性が高く、小笠原にも作戦の権限を与えるために、マリアナへの戦力増強が一段落した1944年5月22日をもって、他の在小笠原方面部隊と併せて第109師団を編成した(大陸命1014号)[43]。隷下部隊としては、父島に配備されている父島要塞守備隊等、硫黄島に配備されている「伊支隊」等、母島の混成第1連隊を指揮下においた[44]。そして第109師団の師団長には太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。栗林は5月27日に親補式に臨んだが、その席で東條英機陸軍大臣兼参謀総長から「帝国と陸軍は、この重要な島の防衛に関して、貴官に全面的な信頼をかけている」と声をかけている[45]。
栗林は第109師団長として、小笠原諸島全体の最高司令官であり、司令部機能が充実している父島要塞で指揮を執るものと思われていたが、6月8日に日本本土から直路硫黄島に向かい、そのまま戦死するまで一度も硫黄島を出ることはなかった。栗林が硫黄島を司令部に選んだのは、大本営の分析通り、飛行場のある硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いという戦略的判断と、指揮官は常に戦場の焦点にあるべきという信念に基づくものであったとされている[46]。
6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してサイパンの戦いが始まったが、日本軍守備隊は水際撃滅に失敗、アメリカ軍が内陸に向けて進撃していた。マリアナでの決戦を策し、「あ号作戦」を発動させていた海軍は、アメリカ軍の空襲で壊滅していたマリアナの航空戦力に代えて、アメリカ軍機動部隊との決戦に向かう第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を支援させるため、第27航空戦隊及び横須賀海軍航空隊の一部で「八幡空襲部隊」(指揮官:松永貞市中将)を編制し硫黄島に進出させることとした。「八幡空襲部隊」の戦力は約300機の予定であったが、硫黄島付近の天候不良で進出が遅れて、6月19日時点で進出できたのはわずか29機に過ぎなかった。その6月19日に日本第一機動艦隊とアメリカ第58任務部隊が激突しマリアナ沖海戦が始まったが、第一機動艦隊は空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫してマリアナ海域より退避した[47]。
マリアナ沖海戦で連合艦隊が惨敗を喫すると、大本営はサイパン島の確保は困難という判断を下し、このままマリアナ諸島を失って小笠原諸島が最前線陣地となる危険性が高まった。そこで大本営は、6月26日に大本営直轄部隊たる小笠原兵団を編成し、第31軍の指揮下から外して、第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、その兵団長を栗林に兼任させて小笠原諸島の防衛を委ねることとした(大陸命1038号)[48]。
さらに大本営は、サイパン島奪回作戦の逆上陸部隊として準備していた、歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄大佐)[注 4]、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一中佐)を硫黄島に送り込むことを決めた。その他の有力部隊として、秘密兵器である四式二〇糎噴進砲・四式四〇糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊も増派された。また、硫黄島の従来より硫黄島に配置されていた「伊支隊」等の各要塞歩兵隊の混成旅団への改編に着手し、7月までには混成第2旅団として編成し、旅団長には父島要塞の司令官であった大須賀が任じられた。同様に父島要塞の部隊も混成第1旅団に改編され旅団長は立花芳夫少将が任じられている[49]。
「あ号作戦」には間に合わなかった「八幡空襲部隊」であったが、6月24日にようやく戦闘機59機、艦爆29機、陸攻21機の戦力を硫黄島に進出させた。しかし、同日早朝に機先を制して第58任務部隊第1群の空母「ホーネット」、「ヨークタウン」、「バターン」から発艦したアメリカ軍艦載機約70機が硫黄島を襲撃、「八幡空襲部隊」はエースパイロット坂井三郎も含めて全戦闘機を出撃させて迎撃したが24機が未帰還となったのに対して、アメリカ軍の損害は6機であった(日本側は41機の撃墜を報告)。さらに「八幡空襲部隊」はアメリカ軍艦隊に対して反撃を行ったが、艦爆7機と戦闘機10機が未帰還となって、たった1日で半分の戦力を失ってしまった[50]。その後も「八幡空襲部隊」の硫黄島への進出は進み、アメリカ軍艦隊やサイパンの飛行場やアメリカ軍地上部隊に対する攻撃が続けられた[51]。アメリカ軍はそれに対抗して硫黄島への再三にわたる空襲を行ってきたので、「八幡空襲部隊」は次第に戦力を失い、最後は7月4日に巡洋艦8隻と駆逐艦8隻による艦砲射撃によって作戦機を全機撃破されてしまった。このため、アメリカ軍侵攻前に硫黄島の航空戦力はほとんどなくなってしまった[52]。
硫黄島には1940年時点で住民が1,051人居住していたが、否が応でも戦争に巻き込まれてしまい、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[53]。
地下陣地の構築と反対論
地形を巧みに利用して構築された日本軍トーチカ、このような陣地が島中に無数に構築された
日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍の上陸部隊の30%を死傷させる大打撃を与えたが[54]、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されてしまい、上陸部隊の損害は10%と相応の打撃を与えたものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗してしまうこととなった[55]。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった[56][57]。
硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指示もあって、従来の「水際配置・水際撃滅主義」による陣地構築が行われていたが[58]、栗林は6月8日に硫黄島に着任するとくまなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して、サイパン島の陥落前の6月17日には、従来の「水際配置・水際撃滅主義」を捨て、主陣地を水際から後退させて「縦深陣地」を構築し、上陸部隊を一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓陣地で挟撃して大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦をとることとし[59]、「師団長注意事項」として全軍に示達された[60]。この栗林の方針転換は、サイパン島の陥落によって方針を転換した大本営に先んじるものであった[58]。なお、ペリリューの戦いにおいて、アメリカ軍を持久戦術で苦しめた中川州男陸軍大佐も、1944年7月20日に大本営が戦訓特報第28号によって通知したサイパン島の戦訓を活かして、栗林とほぼ同時期に「縦深陣地」を構築し、圧倒的優勢なアメリカ軍を2か月以上も足止めし多大な出血を強いている[61]。
栗林は、アメリカ軍を内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を新戦闘方針とし、6月20日にはそのための陣地構築を、「伊支隊」に命じた[60]。しかし、この栗林の方針転換に対しては、飛行場の確保を主目的とする南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らと、従来の「水際配置・水際撃滅主義」に拘る一部の陸軍幕僚から反対意見が出た。特に第109師団の参謀長堀静一大佐は陸軍士官学校の教官をしていたこともあり、80年にも渡って日本軍が研究してきた「水際配置・水際撃滅主義」に固執し、混成第2旅団長の大須賀も海軍や堀の意見に賛同した。栗林は頑迷な海軍と一部の陸軍士官に対して失望し「士官はバカ者か、こりごりの奴ばかりだ、これではアメリカといくさはできない」と副官にぼやいていたが[62]、8月中旬の陸海軍による協議において栗林が妥協し、一部の水際・飛行場陣地構築が決定された[63]。この妥協によって栗林の作戦計画が不徹底となったという指摘に対して、第109師団参謀の堀江芳孝少佐は「栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、海軍が資材を提供してくれるなら、一部陸軍兵力でこれを有効活用できる」「水際陣地は敵の艦砲射撃を吸引する偽陣地的に使用できる」などと栗林が計算した上での妥協であったと証言している。海軍側は12,000トンものセメントの提供を提案したが、結局送られてきたセメントは3,000トンに止まった[60]。
海軍には妥協した栗林であったが、軍司令官に公然と反論した堀や大須賀に対しては、軍内の統制を保つためにも看過することなく、12月には大須賀を更迭し、代わりに陸軍士官学校同期で“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季少将を呼び、また堀も更迭して高石正大佐を参謀長に昇格させた[64]。他にも栗林は自分の方針に従わない参謀や部隊指揮官らを更迭し、その人数は18人にもなった[注 5]。この強引な人事もあって硫黄島の陸軍内の統制は保たれることとなった[66]。
栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「汗の一滴は血の一滴」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した[67]。
坑道は深い所では地下12mから20m以上(硫黄島で遺骨収用の際、実際に確認されている。)、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。
栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。
硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。
1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした[68]。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになったが、戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。
のちに栗林が築き上げたこの防御陣地に多大な出血を強いられることとなった、硫黄島上陸部隊の指揮官である第56任務部隊の司令官ホーランド・スミス海兵中将は、防御陣地と栗林による部隊の配置を以下のように評した[69]。
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