今回の地震のため、熊本の地図をいつも以上に良く眺めました。
また、帰省した時に車で走ったりして自分の育ったところをよくよく眺めてみると、新しい道ができていたり学校ができていたり、マンションがどんどん建っていたりして、自分の知ってる町とはかなり変わってきているというのを実感しました。
自分の歳を考えれば当然なのですが。
国土地理院のホームページに昔の航空写真を見るサービスがあります。
そこで、今回走ってきた範囲の航空写真を眺めていました。興味深い(とはいっても、自分にとってだけですけど)ことがいろいろ読み取れたので、ここに書いておこうと思います。
取り出したのは、1964年(昭和39年)の航空写真です。
私の生まれる前ですね。さらに私が熊本市に引っ越してくるのは、昭和50年代なので、私の知ってるずっと前の様子ですが、今とのあまりの違いに興味をひかれます。現在この範囲の航空写真を見れば、自衛隊などをのぞいてほとんどが住宅地です。このころは、ほとんどが畑地ですね。
A:健軍の自衛隊
もともと戦時中に三菱重工の戦闘機工場として用地買収され、熊本市の東の端にこの長四角の土地が造成されました。
航空写真ではわかりにくいですが、Aの文字のそばにあるのは戦時中から使われている(今も!)ギザギザ屋根の工場です。
B:新外(しんほか)
私の住んでいた家があった場所です(この写真ではまだ畑)。
今はどこまでも続く住宅地の一部ですが、江戸時代から(?)の集落のようです。
新外という地名は、もともと「たけみや(健軍/竹宮)村」というところがあり、本村のほかに下村、外村、西外村、新外村と呼んだのがいわれらしいのですが、いまは「新外」の地名以外は残っていないようです。(http://www.wakabauu.net/rekisi/takemiya1.pdf)
先日、食事をした「泉樹庵」もこの新外集落にあります。
もこもこ見えるのは竹林かと思います。
私が子供の頃は、馬を飼っている家もありました。
C:健軍飛行場
特攻隊機も飛び立った、健軍飛行場です。
三菱の戦闘機工場で作った飛行機を飛ばせるためにつくられた飛行場です。
Dのところに他と区画の違う部分がありますが、三菱工場から空港まで飛行機を運ぶ道路だったそうで、今も土地割に残っています。
幼稚園の頃に遠足で空港見学に行った写真が残っています。
1971年まで使われたそうです(そのあと今の阿蘇くまもと空港の場所に移転)
Cの部分は空港のターミナルビルですが、今は熊本県立大学ですね。
滑走路の部分に、熊本赤十字病院があります。
昔は免許センターとかもありました。
この滑走路の長さの分だけ、まっすぐで道幅の広い立派な道路が突如現れるので、何だろうなぁと高校生くらいの頃は思っていました。いまは、国体道路という大きな道路が東西に走り、都心まで続いているので滑走路だったとは気がつきにくいでしょうね。
空港の周り、今の月出、長嶺のあたりは全く家がありません。
長嶺あたりのこの30年の発展はほんとにすごいな~と思います。
E:尾ノ上小学校
DからEにかけて斜めに流れているのが健軍川です。
そしてEの場所にポツンとあるのが1964年に開校したばかりの、尾ノ上小学校、私の母校です。
小学校と健軍川を挟んで対岸にある錦ケ丘中学校(こちらも私の母校)は影も形もありません。
周りは畑しかないわけですから、まだ学校はいりませんよね。
F:四時軒
沼山津にある秋津川のほとりの四時軒、横居小楠の旧居です。
今回の地震ではかなりの被害を受けてしまったようで、私の実家からすぐの場所にあるのですが、行こう行こうと思いながら行かないうちにこんなことになり、とても残念です。(四時軒被災 熊本震災4)この写真では切れてしまっていますが、秋津沼山津のあたりには古くから家も多く、横居小楠がいたのも頷けます。
Fの文字のところに、白くて丸いものが見えますが、浄化センターですね。今もあります。熊本地震で、うちの実家のあたりに届いた救援物資はこの浄化センターで仕分けされて運ばれたらしいです。
G:健軍神社
こんもり木立が見えるあたりが健軍神社です。
「健軍」の中心地ですね。
写真ではわかりにくいですが、西の方からまっすぐに参道が続いています。
戦時中、三菱の工場の周りには何もなく、空襲があると走って健軍神社まで逃げ込んだという記録があるそうです。かなり距離があると思いますけどね。
H:佐土原(さどわら)
佐土原の集落も、古くからあるようです。
いまは第二空港線が通り、スーパー銭湯の「一休」なんかがあるあたりですね。
この佐土原から北側に榎団地とかがあり、南側に桜木の住宅が広がります。
I:(現)東稜高校
ちょっと特徴的な区画になっています。畑なんですが一枚一枚が小さい。
何だろうと思って、今の地図を見ると同じ形ですが高校になっていました。
私が熊本を離れてからできた新しい高校です。
以前は何だった???
一生懸命考えて思い出しました。「茶業試験場」です。
そういえば、バスルートに「茶業試験場行き」というのがありました。
その跡地に高校ができたんですね。
茶業試験場は前身が昭和8年にここにでき、昭和23年に「茶業試験場」と名称変更したようです。そして平成元年に御船町に移転したようですね。東稜高校は昭和62年開校。あれれ??
その他あれこれ
健軍自衛隊~東町団地の大きな長方形の南西に広がる住宅地が、健軍商店街を中心にする若葉~泉が丘の住宅地です。
若葉小、泉ヶ丘小、東野中、などはしっかり見えますね。
このあたりも戦時中に三菱の社宅や寮として宅地化がすすめられたのが始まりのようです。
1956年(昭和31年)の航空写真では、健軍商店街一体が社宅だったのがよくわかります。
市電の走る電車通り(県道熊本高森線)が秋津新町のあたりで急に細くなっています。
ここから益城に続く道は、まだ整備されていないようですね。もちろん高速道路なんて計画しかなかったでしょうね、計画すらなかったかも?
自衛隊の北の端から西に延びる道路は工場のための引き込み線の跡ですね。
この写真だとよくわかりませんが、それより古い米軍による写真だとわかります。
京塚のバス停のあたりの道路が変に交錯するのが、この引込線のせいだったことが理解できます。
道路と鉄道だと思えば納得です。
一方が鉄道だったことを知らないと、同じような道が2本絡み合いながら伸びるのが理解しにくいです。
高校のころ新外から水前寺まで、この引込線の跡をまっすぐ自転車で飛ばしてました。
京塚の南に広がる住宅(京塚本町)も画一的ですね。やっぱり三菱寮なのかな?
このシリーズまたやるかも。
戦前の航空写真もあったら見てみたいですね。
もう少し時代が下った、まさに自分が暮らしていたころの航空写真も見てみようかな。
健軍三菱についての参考記事
女子挺身隊 のこと その5
また、帰省した時に車で走ったりして自分の育ったところをよくよく眺めてみると、新しい道ができていたり学校ができていたり、マンションがどんどん建っていたりして、自分の知ってる町とはかなり変わってきているというのを実感しました。
自分の歳を考えれば当然なのですが。
国土地理院のホームページに昔の航空写真を見るサービスがあります。
そこで、今回走ってきた範囲の航空写真を眺めていました。興味深い(とはいっても、自分にとってだけですけど)ことがいろいろ読み取れたので、ここに書いておこうと思います。
取り出したのは、1964年(昭和39年)の航空写真です。
私の生まれる前ですね。さらに私が熊本市に引っ越してくるのは、昭和50年代なので、私の知ってるずっと前の様子ですが、今とのあまりの違いに興味をひかれます。現在この範囲の航空写真を見れば、自衛隊などをのぞいてほとんどが住宅地です。このころは、ほとんどが畑地ですね。
A:健軍の自衛隊
もともと戦時中に三菱重工の戦闘機工場として用地買収され、熊本市の東の端にこの長四角の土地が造成されました。
航空写真ではわかりにくいですが、Aの文字のそばにあるのは戦時中から使われている(今も!)ギザギザ屋根の工場です。
B:新外(しんほか)
私の住んでいた家があった場所です(この写真ではまだ畑)。
今はどこまでも続く住宅地の一部ですが、江戸時代から(?)の集落のようです。
新外という地名は、もともと「たけみや(健軍/竹宮)村」というところがあり、本村のほかに下村、外村、西外村、新外村と呼んだのがいわれらしいのですが、いまは「新外」の地名以外は残っていないようです。(http://www.wakabauu.net/rekisi/takemiya1.pdf)
先日、食事をした「泉樹庵」もこの新外集落にあります。
もこもこ見えるのは竹林かと思います。
私が子供の頃は、馬を飼っている家もありました。
C:健軍飛行場
特攻隊機も飛び立った、健軍飛行場です。
三菱の戦闘機工場で作った飛行機を飛ばせるためにつくられた飛行場です。
Dのところに他と区画の違う部分がありますが、三菱工場から空港まで飛行機を運ぶ道路だったそうで、今も土地割に残っています。
幼稚園の頃に遠足で空港見学に行った写真が残っています。
1971年まで使われたそうです(そのあと今の阿蘇くまもと空港の場所に移転)
Cの部分は空港のターミナルビルですが、今は熊本県立大学ですね。
滑走路の部分に、熊本赤十字病院があります。
昔は免許センターとかもありました。
この滑走路の長さの分だけ、まっすぐで道幅の広い立派な道路が突如現れるので、何だろうなぁと高校生くらいの頃は思っていました。いまは、国体道路という大きな道路が東西に走り、都心まで続いているので滑走路だったとは気がつきにくいでしょうね。
空港の周り、今の月出、長嶺のあたりは全く家がありません。
長嶺あたりのこの30年の発展はほんとにすごいな~と思います。
E:尾ノ上小学校
DからEにかけて斜めに流れているのが健軍川です。
そしてEの場所にポツンとあるのが1964年に開校したばかりの、尾ノ上小学校、私の母校です。
小学校と健軍川を挟んで対岸にある錦ケ丘中学校(こちらも私の母校)は影も形もありません。
周りは畑しかないわけですから、まだ学校はいりませんよね。
F:四時軒
沼山津にある秋津川のほとりの四時軒、横居小楠の旧居です。
今回の地震ではかなりの被害を受けてしまったようで、私の実家からすぐの場所にあるのですが、行こう行こうと思いながら行かないうちにこんなことになり、とても残念です。(四時軒被災 熊本震災4)この写真では切れてしまっていますが、秋津沼山津のあたりには古くから家も多く、横居小楠がいたのも頷けます。
Fの文字のところに、白くて丸いものが見えますが、浄化センターですね。今もあります。熊本地震で、うちの実家のあたりに届いた救援物資はこの浄化センターで仕分けされて運ばれたらしいです。
G:健軍神社
こんもり木立が見えるあたりが健軍神社です。
「健軍」の中心地ですね。
写真ではわかりにくいですが、西の方からまっすぐに参道が続いています。
戦時中、三菱の工場の周りには何もなく、空襲があると走って健軍神社まで逃げ込んだという記録があるそうです。かなり距離があると思いますけどね。
H:佐土原(さどわら)
佐土原の集落も、古くからあるようです。
いまは第二空港線が通り、スーパー銭湯の「一休」なんかがあるあたりですね。
この佐土原から北側に榎団地とかがあり、南側に桜木の住宅が広がります。
I:(現)東稜高校
ちょっと特徴的な区画になっています。畑なんですが一枚一枚が小さい。
何だろうと思って、今の地図を見ると同じ形ですが高校になっていました。
私が熊本を離れてからできた新しい高校です。
以前は何だった???
一生懸命考えて思い出しました。「茶業試験場」です。
そういえば、バスルートに「茶業試験場行き」というのがありました。
その跡地に高校ができたんですね。
茶業試験場は前身が昭和8年にここにでき、昭和23年に「茶業試験場」と名称変更したようです。そして平成元年に御船町に移転したようですね。東稜高校は昭和62年開校。あれれ??
その他あれこれ
健軍自衛隊~東町団地の大きな長方形の南西に広がる住宅地が、健軍商店街を中心にする若葉~泉が丘の住宅地です。
若葉小、泉ヶ丘小、東野中、などはしっかり見えますね。
このあたりも戦時中に三菱の社宅や寮として宅地化がすすめられたのが始まりのようです。
1956年(昭和31年)の航空写真では、健軍商店街一体が社宅だったのがよくわかります。
市電の走る電車通り(県道熊本高森線)が秋津新町のあたりで急に細くなっています。
ここから益城に続く道は、まだ整備されていないようですね。もちろん高速道路なんて計画しかなかったでしょうね、計画すらなかったかも?
自衛隊の北の端から西に延びる道路は工場のための引き込み線の跡ですね。
この写真だとよくわかりませんが、それより古い米軍による写真だとわかります。
京塚のバス停のあたりの道路が変に交錯するのが、この引込線のせいだったことが理解できます。
道路と鉄道だと思えば納得です。
一方が鉄道だったことを知らないと、同じような道が2本絡み合いながら伸びるのが理解しにくいです。
高校のころ新外から水前寺まで、この引込線の跡をまっすぐ自転車で飛ばしてました。
京塚の南に広がる住宅(京塚本町)も画一的ですね。やっぱり三菱寮なのかな?
このシリーズまたやるかも。
戦前の航空写真もあったら見てみたいですね。
もう少し時代が下った、まさに自分が暮らしていたころの航空写真も見てみようかな。
健軍三菱についての参考記事
女子挺身隊 のこと その5