旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

最北端 稚内への普通列車の旅6 定期観光バス(1)

2015-01-16 05:06:03 | 最北端 稚内への普通列車の旅
稚内港北防波堤ドーム

(説明は、北海道遺産HPより引用)
 稚内-樺太大泊間の旧稚泊航路整備の一環として、冬季の北西越波防止のために建設された半アーチ式ドーム。海上からの高さ14m、柱間6mの円柱70本を並べた長さ427mの世界でも類を見ない独特の景観と構造を持ち、港湾土木史に残る傑作であるとともに、旧樺太航路時代の記憶を残す歴史的遺産。設計者は、当時26歳の土木技師・土谷実。

稚泊航路記念碑

 大正12年、鉄道省により稚内~大泊間に連絡航路が開設されました。
 以後終戦の昭和20年8月に閉鎖されるまでの22年間の業績を讃えるため、昭和45年11月に建立された記念碑です。
 「稚泊連絡航路」22年の歴史の中で行き来した乗客は284万人にものぼります。
 碑文には次のように記されていました。
 この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である
 この航路は、167kmの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘によりまもられてきた
 昭和2年砕氷貨物船亜庭丸(3,593t)が就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた
しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである
 今ここに星霜20有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである
 昭和45年11月吉日
  有志を代表して
   旭川鉄道管理局長 深沢今吉
   稚内市長 浜森辰雄

樺太島民慰霊碑 氷雪の門

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、昭和38年8月に建立以来、稚内市では毎年8月20日に、樺太ゆかりの人々による慰霊祭を行っています。
 碑文
  人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
  戦後はその門もかたく鎖された
  それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞 の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した

九人の乙女の碑   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和20年(1945年)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられました。
 殉職した九人の乙女
  高石ミキ(24)        高城淑子(19)
  可香谷シゲ(23)       松橋みどり(17)
  吉田八重子(21)       伊藤千枝(22)
  志賀晴代(22)        沢田キミ(18)
  渡辺照(17)
碑文
 戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む

昭和天皇行幸啓記念碑 

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和43年9月、開道百年記念式典のご臨席のおりに、ご来市になられた天皇・皇后両陛下は、稚内公園の『九人の乙女の碑』の前で、当時の浜森市長より九人の乙女の悲話をお聞きになりました。
 両陛下は、目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされました。
 後日、この時のご感銘を次ぎの様に詠まれました。

  御製(天皇)
   樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる
  御歌(皇后)
   樺太につゆと消えたる おとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる
 両陛下の御製・御歌は、行幸啓記念碑に刻まれ、昭和44年8月に除幕されました。

南極観測樺太犬訓練記念碑

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に”犬ぞり隊”が編成されました。
  この”犬ぞり隊”の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです。
  南極へ出発する前に、”犬ぞり隊”は稚内公園で8ヶ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。
  しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。
  そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。
  稚内市は、樺太犬の功績を讃え、『南極観測樺太犬訓練記念碑』を制作しました
  記念碑はブロンズ像で、台座には南極で採取した白石が埋め込まれています。
  除幕式には、樺太犬を南極に置き去りにした隊員への非難と、タロ・ジロの奇跡の生還の歓喜がうずまく中で、昭和35年7月、関係者多数の出席のもと、とり行われました。

教學之碑

 樺太南部の豊原市にあった「樺太師範学校」の記念碑です。
 碑文を見ると、昭和14年4月、45万島民の文化の向上と教育振興の重責を担う教員養成機関として、豊原市に開校したて50周年を記念し、樺太島を望むこの地にに平成元年7月8日、樺太師範學校同窓会が建立したとありました。

 つづく