「ブログ村ランキング」の応援クリックをお願いします
お願いいたします。
南京大虐殺の目撃証人。こうした事実を真摯に受け止め、責任を認めたで初めて日本の名誉と誇りを取り戻せる。過去を矮小化し隠蔽し否定し修正主義に走るのは、かえって日本の国際的信用を貶める。生き証人が存命のうちに正しい道を取戻してほしい。
元日本兵が伝える南京大虐殺。
「殺人鬼や強かん魔を集めて戦地に送った訳ではない。家に帰ればいい父であり、兄であった人達が、ひとたび殺し殺される状況になると壊れてしまう。人の魂まで壊すのが戦争だ」
→目撃者96歳見張り中に凄惨な光景
戦後70年:「人の魂まで壊すのが戦争」 元日本兵伝える南京大虐殺 目撃者96歳、見張り中に凄惨な光景 /大阪
毎日新聞 2015年07月14日 地方版
旧日本軍が多くの民間人を殺害した1937年12月の南京大虐殺。当時を知る元日本兵の多くが亡くなる中、大阪市に住む元海軍兵士の三谷翔さん(96)は今も水上から見た虐殺の様子を鮮明に記憶し、「私にできるのは真相を話し、戦争は『絶対にだめ』と伝えること」と訴える。市民団体「日中平和研究会」(大阪市)によると、虐殺の目撃者は三谷さんが最後の世代だという。【川瀬慎一朗】
三谷さんは37年6月、18歳で海軍に志願し、佐世保の海兵団に入団。10月には駆逐艦「海風」に乗り、揚子江遡行(そこう)部隊として南京に向かった。自身が直接手を下すことはなかったが、船の上から凄惨(せいさん)な光景を目にした。
37年12月17日、海風は揚子江で停泊し、「入城式」のために上陸。「広場では、私の身長くらいの高さの死体の山がいくつもあり、中には裸の死体も見えた。ある家の中にはゼリー状に固まった血の海の中に死体が転がり、頭部は日本刀で切られたようだった」と振り返る。
南京到着後、すでに戦闘は収束し、船から毎日見張り業務についていた。「トラックで中国人20〜30人が運ばれ、川に着くと、機関銃でダダダダダーと殺された。それが朝から晩まで繰り返された」。ある晩には、人が火だるまになって殺されるのも見たという。
「むごいとは思った。しかしそれが戦争。成り行きであのようになり、止めようがなかった」。正月を前に佐世保に戻ると、上官から「南京で見たことは一切口にするな」と箝口(かんこう)令を敷かれた。
「殺人鬼や強姦(ごうかん)魔を集めて戦地に送ったわけではない。家に帰ればいい父であり、兄であった人たちが、ひとたび殺し、殺される状況になると壊れてしまう。人の魂まで壊すのが戦争だ」。三谷さんは語気を強める。
安全保障関連法案が審議され、自由な言論への圧力が漂い始めた現在の日本に、三谷さんは危機感を覚える。「政府は戦争をやりたがっているかのようだ。戦地を体験した人が減り、戦争の恐ろしさを理解していない若者が増えている」。集団的自衛権行使容認への流れについても「米国の侵略戦争を手伝うことになる。どんな戦争であれ、またあのような事(虐殺)は起きうる」と懸念する。
南京大虐殺については「日中平和研究会」共同代表で元小学校教諭の松岡環さん(68)が1997年以降、参加した元日本兵250人以上を訪ね聞き取り調査。三谷さんも97年に松岡さんの調査を受けて以降、証言活動をするようになり、「生きている限り語り続けたい」という。
松岡さんは「戦争の被害の歴史ばかりが伝えられるが、加害の歴史もあったことに目を向けてほしい」と話す。
以下、日記。
1937年12月、南京攻略戦に参加した第13師団、山田支隊長の日記
12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり。
15日 捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。
16日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の始末その他にて打ち合わせをなさしむ。捕虜の監視、まことに山田大隊大役なり。
17日 (記述なし)
18日 捕虜の始末にて隊は精一杯なり。江岸(注:揚子江の岸)にてこれを視察す。
19日 捕虜の始末のため出発を延期。午前総出にて努力せしむ。