宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「逆天の門」

2007年02月03日 | Weblog
これは比較的最近になりますが、閻魔大王が
死者の生前の行いを裁く時の描写として表現
されたものです。
これを発表された方は台湾の仏教修行者である
そうで、人の行いに関して考えさせられました。
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囚人達(死者達)は順番に机の前に立たされて、
自分の名前、生年月日と出生地、死亡地点と
死亡時刻を述べていた。

その時六名の役人の脇で大きい鏡に見入っていた
中年風の男が、
「君は9歳の夏休みに、蛙を踏みにじって殺害した。
その訴状がちゃんとここにある。」
と言った。

また続いて、
「君は16歳の時に、隣村の老人を拳骨で5、6発も
頭を殴って失神させている。」
と。
鏡は囚人の娑婆での生活を、ビデオのように映し
出していたのである。

「25歳の時、君は口喧嘩の末、仲間のコックの腹を
包丁で刺した。
そのために娑婆で3年間の刑期をつとめている。
48歳の時、君は父親をぶん殴って五大天戒の罪を
犯している。
弁解する事があれば、しかるべき所で申し立てよ!」
と中年風の男が言うと、別の役人がその言葉を
逐一黄色の紙に書き込み、密封した上で囚人に渡した。
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この男性の審判に続いて別の男性、存命中にとりたてて
善行を積まなかったかわりに悪行も積まなかった人の
審判などが語られますが、生前は同じ土地に生きていても、
その後にはそれぞれ別の相応しい住むべき場所に住む
事が、これらの表現を目にして改めて感じさせられました。

肉体を保っている時が全てとして、万事をその都合に
合わせて粗暴に、また狡猾に生きる事は、たとえ命を
保っている間に巧く逃げ回ったとしても、いずれ報いが
あるものと感じます。
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